戦後政治の鬼才、田中角栄!
本屋に行けば、彼の事績や言動をまとめた本が
ずらりと並んでいます。
『今太閤』『コンピュータ付きブルドーザー』。
人たらし、頭脳明晰、行動力抜群!
学歴などなくとも自らの才覚で
総理大臣にまでのし上がった男!
その怒涛の生涯に人々は酔いしれ、
令和になった今でも、人気は群を抜いています。
さて、この角栄さん
(この記事内では敬意を込めて
こう呼ばせていただきます)に、
「三人の師」がいたことはご存知でしょうか?
クイズ形式にしましょう。
③の「政治の師」は、誰でしょう?
けっこう有名な政治家ですよ。
…答えを明かす前に、①②の方についての
エピソードを色々とご紹介します。
①の草間先生は、角栄さんの出身校、
高等小学校の校長先生だった人です。
(学校の跡地は田中角栄記念館になっています)
校訓は、三つありました。
「至誠の人、真の勇者」
「自彊不息(じきょうやまず)」
「去華就実(きょかしゅうじつ)」
誠を尽くせ、努力を惜しむな、飾らず実直に。
この校訓が示すように、
草間先生は優れた教育者、
新潟県では有名な人格者だったそうです。
この校訓が、私の人格を形成したと、
角栄さんも後に述懐しています。
角栄さんが初めて選挙に打って出た時、
この草間先生に助力を懇願しました。
先生、なかなか首を縦に振りません。
「まだ早い、まだ若い」
ですが人たらしの角栄さんのこと、
説きに説き伏せ、ついに協力してもらいます。
先生は彼のために、応援弁士として同行し、
まだ演説もいまいちだった無名の若者を
「この男はすごいやつなんだ!」と紹介、
彼が代議士になるための
礎を築いてくれたそうです。
文字通りの「恩師」と言ってもいいでしょう。
次の②、大河内先生。
彼は戦前の貴族の出身で、世が世なら
「殿様」だった人です。
上総の大喜多藩の藩主の長男の生まれ。
学習院では、大正天皇とご学友でした。
世の中には「理化学研究所(理研)」の
(三代目)所長として知られています。
東京帝大の教授、貴族院議員にもなり、
原敬内閣の政務次官まで務めた凄い人。
「学者」兼「政治家」兼「事業家」です。
この生粋のエリート中のエリートが、
どうやって無名の角栄さんと知り合ったのか?
1934年、15歳の頃、角栄さんは上京します。
大河内先生の「書生」として
働きながら学ぶよう、紹介されたのです。
ところが何かの手違いで、
屋敷を訪れた角栄さんは門前払いを喰らう…。
「話が違うぜ」と追い払われた
彼の心中や、いかばかりか。
ですが人たらしで行動力抜群の彼のこと。
こんなことではめげません。
職を転々としつつも、大河内先生の
理化学研究所に何とかつながろうとする。
たまたま勤めた建築事務所が、
理研の仕事を請け負っていると聞き、
彼は理研の本社に入り込みます。そこで、
エレベーターで「偶然」先生と乗り合わせます
(むろん、計算ずくだったんでしょう)。
「かつて、自分の書生として働くはずだった」
そう聞いた大河内先生は、角栄さんに聞きます。
「…君、理研で働きたいのかい?」
角栄さんは、こう答えます。
「考えがまとまり次第、
指示をいただきにまいります」
自分の身を、軽くは売らない。
いち従業員として、職を求めに来たわけではない。
この角栄さんの言葉に、大河内先生は
彼の光る資質を見出します。
後に角栄さんの会社に、理研から
ガンガン仕事を発注することになるのです。
こうして「事業家」としての角栄さんは、
「殿様」大河内先生によって成長しました。
…さて、そろそろ最後の
③の先生の答え合わせをしましょうか。
答えは…。
「幣原喜重郎」(しではらきじゅうろう)です。
「幣原外交(しではらがいこう)」と呼ばれた
戦前の国際協調主義の中心人物。
戦後は、日本国憲法の制定に大きく活躍。
「政治家」としての角栄さんは、
このスケールの大きな政治家に見出され、
鍛えられ、自分に足りなかった「世界観」を
叩き込まれていくのでした。
私も長いこと、
「新潟県の地方出身の無名の男」が、
「事業家として活躍していたので
経済に強いのはわかるけれども、
なんで世界各国を相手に
外交でも力を発揮できたんだろう?」と
不思議に思っていたんですが、
なるほど、外交のスペシャリスト、
幣原先生に鍛えられていたのなら…、と
妙に納得したことを覚えています
(もちろん吉田茂・池田勇人・佐藤栄作など
超有名な総理大臣の先輩たちにも、
同時進行で鍛えられていたんでしょうけど…)。
以上、このあたりのエピソードは、
大和田秀樹さんのマンガ
『角栄に花束を』にもたくさん載っています。
宜しければリンクから、ぜひ↓
最後に、読者の皆様にも、お聞きしましょう。
あなたの「師匠」は、誰ですか?
そういう「師匠」に出会えるように、
行動していますか?