いこまそうどう。江戸時代の初期の事件。
平和な江戸時代において、
大名たち、お殿様たちの一番の仕事は
戦国時代のように
周辺を斬り従えることではなく
「無事に家を治める」「後継者をつくる」
つまり「家をつないでいく」ことでした。
しかし、うまくいった家ばかりではない…。
いわゆる「お家騒動」が起こり、
幕府に処分されてしまう家も多かった。
生駒騒動は、そんなお家騒動の一つ。
本記事ではこの事件について書きます。
生駒家は「生駒親正(いこまちかまさ)」と
いう人物が出世したところから栄えます。
信長と秀吉に仕えて武功を挙げた親正は、
四国の讃岐(後の香川県)の
高松藩の藩主になります。
秀吉が亡くなると親正は
豊臣家の「中老」の一人になる。
信頼されていた親正は、
関ヶ原の戦いでは、西軍についた。
しかし、息子の一正(かずまさ)は
東軍についております。
この一正の軍功により、高松藩は
江戸幕府から安堵されました。じきに
その子の正俊(まさとし)が家を継ぐ。
大坂の陣でも活躍、幕府の覚えもめでたい。
生駒家は、順当に家をつないでいった。
…しかしですね、正俊の子、
第四代の高俊(たかとし)の時代に
暗雲がたちこめます。やらかすんです。
彼は1621年、父の正俊の死去により
10歳くらいで藩主の座に就きました。
まだ幼いため「藤堂高虎」という
母方の祖父に後見人になってもらう。
高虎は「戦国の転職王」!
七回主君を変えた戦国生え抜きの生き残り。
切れ者の家臣が派遣され、藩政を行う。
じきに高虎が亡くなると、その子である
藤堂高次が後見人の座を継ぎました。
ここまでを整理しておきましょう。
組織は、トップ、後見人、ベテラン、
新しい戦力、それぞれが
かみ合わないと、大変になりますよね。
まず藩主の生駒高俊。彼は幕府の重鎮、
土井利勝の娘を妻に迎える。
「幕府の偉い方と姻戚になった!
これで高松藩も安泰だ!」と
みんなが思ったことでしょう。
…しかしこの高俊、極度の男色家でした。
土井利勝も、娘になかなか
子どもができないので、どうしたのかと
密かに聞くと、どうもそんな事情。
成年した高俊、政務を放り出し、
美少年たちを集め、遊興にふけっていた。
彼らにダンスをさせて回る。
人呼んで「生駒おどり」です。
…まあ、いわゆる『バカ殿様』ですね。
そんなトップの下で、派閥争いが起こった。
生駒家の譜代家臣、生駒将監と、
その子どもの生駒帯刀(たてわき)!
藤堂家の息がかかった新参の家老、
前野助左衛門と、石崎若狭(わかさ)!
この人たちが対立していくんです。
さて、幕府は高松藩に
江戸城修築の手伝いをさせました。
お金がかかります。借金ができる。
ここで新参者の前野・石崎は、
借金の返済のため
高松城の南の松林を伐採させ、
木材を売ってしまったんです。
1635年のこと。
しかしこの松林、実は大事なものだった。
家祖の生駒親正が高松城を築いた時、
「この松林はいざという時に
守りの盾となるから伐採しちゃダメ!」
と言い遺していた。
言わば生駒家伝来の家宝。「高松」ですし。
それを伐採した。
前野・石崎、知らなかったのか、
知ってて、わざと切ったのか…?
譜代家臣たちの怒りが爆発します。
自分たちの代表、俺たちの生駒帯刀に、
「あいつら、許せないっす!」と訴える。
生駒帯刀は下から突き上げられ、
まずは後見人の藤堂高次に相談します。
バカ殿の高俊に内緒で…。
藤堂高次、生駒帯刀に言った。
「ケンカすんな。仲良く、穏便に」。
前野・石崎は、高次に呼び出され叱られる。
「何やってんねん、しっかりしろや!」。
…チクられたほうは収まりません。
もちろん譜代家臣の不満も収まらない。
不和が、拡大した。
生駒帯刀、また下から突き上げられて、
再度、高次に訴えます。1638年。
高次、今度は帯刀に何と言ったか?
「あのさ、こういうことが幕府にバレたら
お家取り潰しだから。ちゃんとしろよ!」
(もうこの辺りから「中間管理職」の
帯刀に同情してしまいますが…)
ただ、さすがに何回も言われたために、
高次は密かに土井利勝に相談します。
そこで彼らはどんな措置を取ったか?
そう、この派閥争いに関わった
五人の中心人物「全員」に
「切腹」を申し付けることにしたんです。
生駒帯刀派、前野・石崎派、両方…。
「お前たちが切腹しないと
お家取り潰しになるぞ!」と脅して。
…ところがですね、ここでようやく、
バカ殿様の生駒高俊の耳に入った。
はい、高俊は後見人の藤堂高次に
凄い勢いで抗議したんです。
高次は、面白くない。そりゃそうです。
大事にせず、内密に収めたのに、
バカ殿がしゃしゃり出てきやがった!
藩主高俊、家老の生駒帯刀の命を救った。
当然、切腹することになっていた
前野・石崎は激怒します。そりゃそうです。
「ざっけんな、こんな藩におれるか!」
前野・石崎派、家族や家来を含めて
何と2,300人が武装し、国許を立退く。
すわ合戦か! 藩内は大騒ぎ。
江戸の藩邸でも立ち退き騒ぎがあり、
ついに幕閣の耳にも入ってしまいました。
江戸城に両派の者が呼ばれ、審議されます。
今で言うと「最高裁」まで上がった感じ。
その判決や、いかに!
これが「生駒騒動」の概要です。
組織のトップが遊興にふけり、
幹部が派閥争いをしてしまうと、
組織自体が滅ぶ、ということでしょうか…。
最後にまとめます。
本記事では「生駒騒動」について書きました。
ちなみに命が許された生駒帯刀は、
後に、前野・石崎派の遺族に
仇討ちを受けて殺されてしまいます。
やるせない結末…。
なお、秋田に流罪にされた生駒高俊は
六人の子どもをもうけ、
生駒家を秋田の地でつないでいきます。
ただ、こんな騒動を起こし、
かつ、子どもに分割して相続させたので
一万石以下になってしまい、
大名ではなくなりました。
(そのまま明治維新を迎えました)
江戸時代の生駒騒動。
ここからどんな教訓が得られるでしょうか?
…読者の皆様の組織は、大丈夫ですか?
※人物相関図がわかりやすい
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