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日本とは全く違う国のことに想いを馳せる…。
これもまたSNSの醍醐味の一つかと思います。
さながら「門」をくぐるようなもの。

例を挙げましょう。
アフリカ大陸の南西にナミビアがあります。

「…ナミビア。聞いたことはありますが、
どんな国なのかはよく知りません」

1990年に独立した若い国です。
日本とは歴史も地理も全く違う…。

本記事ではこのナミビアの北東部にある
奇妙な形の地域について書きます。

ナミビアはどこから独立したのでしょう?
「南アフリカ」から独立しました。
アフリカ大陸の南端の国!

「南アフリカがナミビアを支配していた、
ということでしょうか?」

このあたりの歴史は、複雑です。
しかも日本から遠く離れているため、
なかなかイメージしにくい。

順を追って書いていきます。

まず、ヨーロッパの植民地時代から。
最初にこの地に来たのはイギリスでした。
「ケープ植民地」と呼ばれる
アフリカ南端(ケープタウンがある)の
自国の植民地との往来のため、
ナミビアの沿岸あたりを領有したそうです。
1840年頃。

次にドイツがやってくる。

1871年「ドイツ帝国」ができた新興国。
鼻息荒く、植民地を広げようとした。
1883年、ドイツ帝国の商人である
リューデリッツという人が、
現地の首長から土地を購入しました。

この地を足掛かりに、
『ドイツ領南西アフリカ』が生まれます。
現地の人たちはこの植民地化に抵抗し、
たびたび反乱を起こす。
抵抗に手を焼いたドイツ当局は考える。

「まとめて集団で抵抗するから脅威になる。
何とかして『敵』を分割しないと…」

いわゆる『分割統治』を行います。
部族別居留地制度。
(これが後に南アフリカで悪名高い
アパルトヘイト政策につながるとも言われる)

こうして統治に力を入れたドイツによって
「ドイツ領南西アフリカ」が成立。
一方、隣国のイギリスが統治する南アフリカは
1910年に「自治領南アフリカ連邦」に変わる。

1914年に始まる第一次世界大戦では、
イギリスとドイツが戦いました。
ゆえに南アフリカと南西アフリカも戦う。
イギリスが勝利、ドイツは敗北。
こうしてドイツ領南西アフリカは、
南アフリカの支配下に入った
というわけです。

「…なるほど、要するに、

◆イギリス、次いで、ドイツがやってきた
◆南アフリカ&イギリスにドイツが負けた
◆ドイツ領の南西アフリカは、南アが支配
◆しかし1990年にナミビアとして独立した


ということですね?」

その通りです。

さて、ここで世界地図を広げて、
(お手元のスマホの地図アプリを拡大して)
ナミビアの国の形を見ていただきます。

「…何だか不自然な形じゃないですか?
北東、北を上にした地図ならば右上に、
ぴょこっと細長い線のような
国土が伸びている…
?」

通り道、回廊がある。その形から
「Panhandle(ナベの取っ手)」と
呼ばれることもあります。

ここがナミビアの『カプリビ回廊』です。

「何ですか、カプリビって?
…カプリコーンの親戚か何か?」

違います。カプリビとは人名。
それもドイツの政治家の名前です。
ゲオルク・レオ・フォン・カプリヴィ。
1831年~1899年。
ベルリン生まれの政治家です。

…しかし、なぜまたドイツ人の名前が地名に?

1871年、ドイツ帝国成立の立役者は
ご存知『ビスマルク』でした。大政治家。
ところが1888年、彼を重用していた主君の
ヴィルヘルム1世が91歳で亡くなる。
後を継いだ息子もわずか在位99日で病死。
1世の孫にあたる当時29歳の
「ヴィルヘルム2世」が即位する。

この若き皇帝に、老いたビスマルクは
解任されるんですね。1890年のこと。
その後の帝国宰相がカプリヴィ。

「どんな愚か者がビスマルクの跡を継ぐなど、
あえてするのだろうか!」

彼はこう言ったとも言われる。
偉大なる鉄血宰相ビスマルクと比べられては、
どんな政治家でも見劣りするでしょう。

…しかし彼は皇帝ヴィルヘルム2世の
信任に応えようと頑張った。
具体的にはイギリスと外交交渉を行い、
自分たちに有利になるように
アフリカでの植民地を増やそうとする。

1890年7月、イギリスとの間に
『ヘルゴランド=ザンジバル条約』締結!

これはヨーロッパの北海に浮かぶ
「ヘルゴランド島」と、
アフリカ大陸の東の海に浮かぶ
「ザンジバル」とを交換するものでした。

ザンジバルをイギリスに渡す。
イギリスは南アフリカと
東のインドをつかんでいましたから、
その間にあるザンジバルを領有できるのは
何かと都合が良かったのです。

…しかし交渉したカプリヴィは、
ただではザンジバルを渡さない。
ヘルゴランド島を獲得すると同時に、
「アフリカ大陸の東海岸」につながる道を
獲得しようと試みた。


そう、それこそが『カプリビ回廊』!

「…東側と西側をつなごうとしたというのは
わかりますけれども、
さすがにアフリカの東海岸までは
この回廊は伸びていませんよね…?
ボツワナとかアンゴラとか
ザンビアとかに接しているだけ。
獲得した意味があるんですか?」

それが、ある。
少なくともカプリヴィはそう考えた。

アフリカの東海岸、タンザニアは
1920年まではドイツの植民地でした。
南西のナミビア(当時は南西アフリカ)と
北東のタンザニアをつなぎたい!
そこで目をつけられたのが
アフリカ大陸の中央部から
東の海へと注ぐ『ザンベジ川』です。

「ナミビアの国土をぴょこっと突き出させて
ザンベジ川に接するようにすれば、
この川の水運によって
ナミビアとタンザニアをつなげられるのでは?」

そう考えたんです。

…しかし、この試みはうまくいきません。
まさに「机上の空論」でした。

なぜならザンベジ川には中流部のあたりに
『ヴィクトリアの滝』があったから。
その落差、何と108メートル…!
越すに越されぬ巨大な門。
船で航行するのは無理がある。

カプリヴィはこのことを
知らなかったのでしょうか?
あえてイギリスが隠していたのか?
滝があることは知っていたけれども
そこまで大きい滝だとは
わからなかったのかもしれません。

ともかくカプリヴィの交渉により
得た土地だから『カプリビ回廊』と呼ばれた。
ただ第一次世界大戦でドイツ帝国は負けて、
海外の植民地を失います。
それなのにこのカプリビ回廊は
ずっとそのまま残り、今でも
ナミビアの一部として残っている…
というわけなのでした。

最後にまとめます。

本記事ではナミビアの謎の国土、
『カプリビ回廊』について書きました。

ナミビアと言えば
「世界最古の砂漠」とも言われる
『ナミブ砂漠』が広がる国です。
ナミブとは『隠れ家』の意味。
砂漠や荒野だけの国…?

いや、内陸部の「カプリビ回廊」には
豊かな森林が広がっています。
野生生物もたくさん住んでいる。

砂漠と森林。
ナミビアの多様性を生む細長い国境線…。


「カプリビ回廊」は、その名前と由来により
複雑な歴史を今でも刻みつけているのです。

※JICAのアラフォー電気系
エンジニアさんの記事で、
この回廊を地図を見ながら確認できます↓

※私が以前に書いた記事、
『ナミビアの何を知っている?(自問)』は
こちらから↓

合わせてぜひどうぞ!

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