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同じところもあれば、違うところもある。
同じところは?

◆どちらも「島国」
◆どちらも「ユーラシア大陸の近く」
◆大陸の国・勢力の影響を受けつつ発展
◆うまく文化を取り込みつつ独自の展開
◆国王/天皇というトップの存在がある
◆議院内閣制で、独裁政治は馴染まない

…では、違うところは?

「まず、使う言語が違います。
英語と日本語は語順も表現も違う。
大陸との距離も違う。
日本海を泳いで大陸まで渡るのは困難ですが
ドーバー海峡は泳いで渡れる、と言います。
イギリス料理と和食も違う。
あと、歴史の展開でも、
英国には『大英帝国の繁栄』がある。
英語は世界の標準語になりました。一方、
日本語は世界的にはローカルな言語…」

離れた距離にありますから、
両国は文化も歴史も全然違います。
…しかし、幕末・明治維新を経て、
日本が「近代化」を行う時、日本は
英国の制度や文化を参考にして、
部分的に取り入れようとしました。

いわゆる「文明開化」です。

ただ、イギリス一辺倒ではなく、
フランス・ドイツ・アメリカなど
他の国の要素も取り入れていきます。
「良いところ取り」を目指した。

その結果、近代化以降の日本は
独自の文化、社会を土台にしながらも
洋服を着て英語を学校で学び、
議院内閣制を採用する…という
「英国風」を取り入れることになりました。
和風、他国風も折衷する。和魂洋才。

東大の安田講堂も、
英国発祥のネオゴシック様式です。

それぞれ独自に発展してきた日本と英国…。
その共通点と相違点を探ってみることは
世界の様相を探る上で
様々なヒントになると思うのです。

本記事は、日本と英国の
歴史と地理の比較を試みます。

まず、簡単な概略史、年表から。
(注:私なりの取捨選択です)

【日本】

645年~:大化の改新(ムシゴろし)
794年~:平安時代(ナクヨうぐいす)
1192年~:鎌倉時代(イイクニつくろう)
1467年:応仁の乱(ヒトノヨムナしい)
1590年:秀吉の天下統一(イッコクマルく)
1637年:島原・天草一揆(イロンミナだめ)
1868年:明治維新(ヒトツヤロウヤ)
1945年:敗戦/終戦

【英国】

前44年:ブリタンニア遠征のカエサル死す
(シーざーシす)→後にローマ帝国の支配下
449年:アングロ・サクソンがブリタニアに渡る
(シシキュウ多い七王国)
1066年:ノルマン・コンクエスト
ノルマンディー公国の占領(イレロムりでも)
1215年:大憲章
ジョン王が議会と約束(ヒトニヒトコト逆らえず)
1339年:第一次英仏百年戦争
大陸勢力と相争う(イサンサンキュー)
1453年:百年戦争終結
大陸の領土を失う(イシのゴサン)
1588年:スペインの無敵艦隊を撃破
(イゴハバきかすイギリス艦隊)
1642年:清教徒革命
(イチロシニ行くチャールズ1世)
1688年:名誉革命:オランダ総督を国王にする
(イチロパパ行くジェームズ2世)
1714年:ハノーヴァー朝:ドイツ領邦出身の国王
(英語がしゃべれナイヨ ジョージ1世)
1840年:アヘン戦争
(ヒトハヨレよれ、アヘンの災禍)
1945年:終戦

…無理のある「ゴロ合わせ」も添えましたが、
好きなように覚えていただければと思います。

「国内」における一番の相違点は、

◆日本:連綿と続く天皇(朝廷・皇室)の歴史
◆英国:他国の占領や革命が起きた王室の歴史

ではないか。

日本では昔から、
「単一の」朝廷・皇室が続いてきました。
南北朝時代など「朝廷が並立」した時代も
ありましたが、原則、続いている。
江戸時代には「島原・天草一揆」で
キリシタン・キリスト教文化を撃滅し、
独自の文化を醸成していくことになります。

しかし、同じ感覚で英国はとらえられない。
上記した年表の中だけでも、
国王は島出身の人「だけ」ではない。

◆ブリタンニア遠征:ローマ帝国の支配
◆ノルマンコンクエスト:ノルマン人の支配
◆名誉革命:オランダ総督からの国王誕生
◆ハノーヴァー朝:ドイツ出身の国王誕生

イタリア、フランス、オランダ、ドイツ。
血縁上の関係が深い国王もいますが、
「王室/朝廷」が入れ替わってきた。
ジョージ1世は日本史で例えれば、
日本語を話せない人が天皇になるようなもの…。

(誤解を避けるために書きますが、
良い悪いの評価ではなく、単なる比較です。
「他の地域の文化を取り込んできた」
「連綿と続く同じ伝統を守ってきた」
このことそのものに優劣はないと思います)

また、英国は「連合王国」です。
単一の王国「だけ」ではない。

正式名称は「グレートブリテン及び
北アイルランド連合王国」です。
United Kingdom of Great Britain
and Northern Ireland。
イングランド、ウェールズ、
スコットランド、北アイルランド。
4つのカントリー(「国」)が、
「同君連合型」の形式で
単一主権国家を形成している。

日本の地理で無理やり例えれば、
北海道・東日本・西日本・沖縄などの
別々のカントリーが
「同君連合」しているようなもの…。

「日本とは国の成り立ちや構成そのものが
全く違うことは分かりました。
日本史の感覚で英国史を捉えてはいけませんね。
なぜ英国はそうなったのでしょう?」

それは一言ではとても言えませんが、
「王権が議会によって制限されてきた」
「国王の『権威』が日本とは少し違う」
ということは言える、と思います。

1215年の『大憲章』は、そのはじまり。
マグナ・カルタ、Magna Cartaとも。
これは、イングランドの
ジョンという王様の時代に成立しました。
人呼んで「失地王」「欠地王」。
…ずいぶん酷い呼び名ですね。

「獅子心王(ライオンハート)」で名高い
リチャード1世の弟。
フランス国王、フィリップ2世との戦いに
ことごとく敗れ、1214年には
フランスの領土をほとんど失ってしまう。
だから「失地王」。

「この国王、頼りにならぬ…」

イングランド国内の諸侯は反発します。
国王はやむなく貴族や聖職者の権利を
認める、という約束を結んだのです。

英国の歴代国王の歴史を見ていくと、
「名君」もいますが
評判の悪い人も出てきます。
そのため「諸侯」や「議会」の力が伸び、
革命も起き、「衆議」で政治を決める、という
議会制度が発達してきたのではないか?

もちろん日本の古代からの天皇の歴史にも
「名君」もいれば評判の悪い人もいる。
「摂関政治」「幕府」などの歴史を通して、
実際に直接「政治の実務」を行うことは
少なくなっていきます。
ただ、天皇や朝廷そのものは存続してきた…。

この違いは、なかなかに興味深いところ。
なぜこの違いが生じたのか?
ぜひ、皆様にも探究していただければ幸いです。

最後にまとめます。

本記事では、
日本と英国の歴史と地理の共通点と相違点を
「一部のみ」クローズアップして探究しました。

興味の出てきた方はぜひ、リンクから
英国の歴史や地理の記事をどうぞ!

※『英国の初代内閣総理大臣』↓

※英国の名誉革命についてはこちらから↓
『名誉革命 ~穏やかな革命あるいは乗っ取り~』

※17~18世紀に欧州で起こった
「革命」のまとめはこちらが参考になります↓

※「名誉革命」以前の
英国王朝の移り変わりはこちらから↓
『分断の時代のヒント ~英国王朝史~』

※「百年戦争」以前の
大陸と混合・分離を繰り返していた
英国史についてはこちらの記事をぜひ↓
『「イギリス」の中と外 ~大陸との混合と分離~』

※日本史と比較しながら読むと
さらに立体的にイメージがつくと思います↓
『中と外との日本文化史 ~風をどう通すか?~』

合わせてぜひどうぞ!

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