室町時代~戦国時代の大名、大内義隆。
おおうちよしたか、です。
大内氏と言えば、中国地方の西の端、
周防、長門、石見、それに九州地方の
豊前を治めていた大名、太守!
今で言えば、山口県、島根県、
福岡県のあたりです。
れっきとした名門中の名門。
1507年に生まれ、1551年に死んだ。
彼は、毛利元就が出てくる前の
中国地方において第一人者、
とても大きな存在だったのですが、
「暗君」として知られています。
大内氏は、彼の代で滅亡したからです。
本記事では、彼の生涯を、
ごく簡単に書いていこうと思います。
1507年、彼は大内氏の第15代大内義興の
嫡男として生まれました。
母は長門守護代の娘。
父も母も名門です。ザ・名門。
1528年、父親が死去したため、
22歳で家督を継ぐことになります。
若い当主でしたが、決して彼は
「暗君」ではありませんでした。
後継者争いも、起こっていない。
積極的に東に西へと奮戦、
領土を広げていき、ついには
大内氏最大の領土を獲得するのです。
いや、もちろん連戦連勝、
とは行きませんよ。
勝ったり負けたりはしている。
東には尼子家、まだ小さい毛利家、
西の九州には大友家に竜造寺家、
戦国時代の最初のあたりですから、
強敵揃い。
そんな中でもよく国を保っていた。
例えば、1540年には東の尼子家が
従属させていた毛利元就の城に攻めてきましたが、
陶隆房(すえたかふさ)という有能な武将を
援軍として送り込んで、勝利しています。
安芸(今の広島県)のあたりまで
勢力を拡大していく。
…このあたりまでは、良かった。
ただ、ショックな出来事が起きてしまった。
これが、大内義隆の人生を変えます。
1542年、35歳頃のことです。
毛利元就の城を攻めてきた尼子家の当主、
出雲の尼子経久が前年に死去しました。
彼は、ここがチャンスとばかり、
尼子家を滅ぼすべく、
自ら出雲に攻め入り、月山富田城という
尼子家の城を包囲しました。
毛利元就たちも攻城戦に参加した。
味方は約四万五千。
相手は約一万五千。
ほぼ三倍以上の軍勢です。
まあ、勝つだろう。
…しかし、攻めてきた敵を撃退するのと違い、
相手も負けたら滅亡ですから、
必死に、なりふりかまわず、勝ちに来ます。
要は、執念が違ったんですね。
大軍も人間ですからご飯は食べます。
尼子軍はそこを狙った。
長距離を攻めてきた大内軍の補給路を狙って、
ゲリラ戦術で食べ物を奪います。
士気が衰えたところで、
元々尼子家の配下だった者たち、
いまは大内家についている者たちに向かって、
寝返りの工作をしたんです。
食べ物は、ない。
裏切りは、続出。
これは、負け戦だ。
大内義隆は退却していきます。
尼子軍は、猛烈に追撃してきます。この時。
義隆の跡取り息子だった大内晴持が、
海から退却しようとして、船が転覆、
溺死してしまうんですよ…。
大内晴持。
義隆の実の子どもではなく、甥でしたが、
義隆はとても目をかけていた。
公家の名門、一条家の出身です。
見目は美しく文武に秀でて、
和歌、管弦、蹴鞠といった教養にも明るく、
名門大内家の跡取りにふさわしかった。
その彼が、死んだ。
享年、ニ十歳。
どれだけ義隆は落ち込んだことでしょうか…。
(ちなみに、毛利元就とその子隆元も、
自害しようとするまで追い込まれますが、
家臣が身代わりとなって退却に成功、
命からがら脱出に成功しています。
これが後に明暗を分けているんですね)
跡取りを失った義隆は、
すべてが嫌になります。
もう、外征はしない、攻めない。
内にひきこもって、雅な国ができればいい。
ああ、晴持は、もういないのだ…。
文治政治、と呼ばれる政治が行われます。
山口は「小京都」「西の京」と呼ばれ、
文化が栄えていきます。
◆1543年 イゴヨサンかかる鉄砲伝来
◆1549年 イゴヨク広まるキリスト教
の頃ですから、山口に
キリスト教を伝えた「ザビエル」も来る。
元々、中国の明や朝鮮との貿易も盛んで、
財力はとても高かったのです。
お寺や神社等にも進んで寄進したことから、
僧侶たちからの評判も高かった。
文化人、公家たちからは
「末世の道者」と称えられていた。
…ただ、時代は室町末期、戦国の世。
この方針に不満を持った者たちがいる。
それが、陶隆房たち武断派です。
「こんな乱世で、文治政治など、
いったい何を考えているんだ!」
まあ、そう考えますよね。
しかし、大内義隆、方針を変えない。
そもそも名門出身で、雅な人なんです。
跡取りも亡くし、やる気をなくしている。
(弱みを見せると襲われる
戦国の大名としては、ちょっとどうか)
…他の見方をすれば、
文治体制にすることで、文化人や内政派の
力が強くなり、武断派の権限が弱まり、
陶隆房たちの発言力がどんどん
弱くなっていった、とも言えます。
「…やるしかない」
1551年、追い込まれた陶隆房は
大内義隆に対し、謀反を起こします。
慌てた義隆、津和野に逃げようとするも、
運悪く暴風雨で身動きが取れず、
長門の日本海近くにある
大寧寺という寺に立てこもる。
援軍は、ついに来なかった。
多勢に無勢。
彼は、自害に追い込まれてしまうのです。
享年、四十五歳。
彼は家臣の謀反によって生涯を閉じました。
辞世の句は
『討つ者も 討たるる者も 諸ともに
如露亦如電応作如是観』。
最後まで文化人的な、雅な人生でした。
最後に、まとめます。
この後、下剋上を果たした陶隆房は
「陶晴賢」と名を変え、
大内家の後継たらんと君臨しますが、
毛利元就に「厳島の戦い」で敗れて
彼もまた、滅亡してしまいます。
「討つ者も討たるる者も諸ともに」
という運命をたどったのです。
その後、彼を討った毛利元就は
「中国地方の覇者」として
勢力を拡大していきます。
不慮の事態から跡取りを亡くし、
運命を暗転させていった大内義隆。
「三本の矢」の教えで有名、
後の世に一族を残した毛利元就。
義隆は中年世代で死に、
元就は、長寿を保ちます。
この二人の運命を対比させる時、
私はいかに乱世を生き残るのが難しいか、
メンタルを保つのが難しいか、
そのことに想いを馳せるのです。
※ただ近年では、
同じく非業の死を遂げた
今川義元とともに
再評価される機運もあります。
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