「関東八屋形」から「つながり」を考える
宇都宮、小田、小山、佐竹、千葉、長沼、那須、結城。
これらの言葉に共通することは?
近いですが、違います。
答えは『関東八屋形』です!
室町時代の関東地方において
「関東公方を支える家」として
「武家の名門認定された一族」の名前。
すなわち、
『宇都宮氏、小田氏、小山氏、佐竹氏、
千葉氏、長沼氏、那須氏、結城氏』。
本記事では、
この『関東八屋形』について紹介しながら、
「つながり」について考えます。
まずは場所から確認。
どのあたりに本拠地にしていたのでしょうか?
千葉氏は、千葉県の千葉市です。
宇都宮氏は栃木県の真ん中、宇都宮市。
那須氏は栃木県の北のほう、那須高原。
この三つはわかりやすい。
一方、茨城県では北と南に分かれます。
北のほうに佐竹氏。水戸市や常陸太田市。
南のほうに小田氏。筑波山やつくば市。
残りの小山氏・長沼氏・結城氏は、
「茨城県と栃木県の境目周辺」です。
栃木県小山市、真岡市の長沼、
茨城県結城市のあたりが本拠地でした。
(ちなみに、この三氏は
「実の三兄弟」が家の祖となっており、
一族同士は親戚でした)
簡単に言えば「北関東+千葉」です。
関東地方の周辺、端のあたり。
東京とか神奈川、
埼玉や群馬に、彼らはいません。
…これには理由があります。
神奈川にはご存知「鎌倉」があります。
室町時代には「鎌倉府」が置かれ、
京都にある幕府の言わば「支店」として
「足利氏」が本拠地にしていました。
その補佐役、関東管領の「上杉氏」は
埼玉・東京・群馬のあたりを抑える。
だから、このあたりに
関東八屋形はいなかった。
「中央」は足利氏と上杉氏が押さえる。
あくまで「端っこ」を押さえていた構図…。
では、なぜこの八屋形が生まれたのか?
1400年頃のお話です。
時の将軍は、室町幕府の三代将軍、
足利義満。義満と言えば、
「イザクニまとめる足利義満」で覚える
「1392年」に南北朝合一を行った超大物。
アニメ「一休さん」の将軍様!
この義満に対して、西国で反乱が起きる。
大内義弘、という大名が
義満に反旗をひるがえすんです。
1399年「応永の乱」と言います。
(1467年「応仁の乱」と
一文字違いなので間違えやすいですが)
この時に、東国の鎌倉府を治めていたのは、
足利満兼(みつかね)という人。
第三代目の鎌倉公方。
何とこの人、大内義弘に呼応して兵を挙げ、
京都の足利義満を挟み撃ちにしようとする。
東西から幕府を攻める、雄大な戦略。
これが見事に決まれば、幕府は滅亡!
…ですが、京都の足利義満、
ただものでは、ない。
まず、西の大内義弘を撃破する。
挟み撃ちにされる前に個別撃破!
驚いたのは満兼です。
このままじゃ、自分も個別撃破される…。
満兼、幕府に謝りました。
義満も、東に鎮圧に向かったところで
また反乱が起きてはたまらない。許す。
…この騒動が収まった背景には、
鎌倉公方の補佐、関東管領である
上杉朝宗(ともむね)が
奔走したことが大きかった。
「関東八屋形」を定めたのは、
この「足利満兼・上杉朝宗」コンビだと
言われています。
1399年、応永の乱が起きた年でした。
…なぜ、関東地方の周辺の武士たちを
「関東八屋形」に定めたのか、
これでおわかりでしょうか?
そう、当時の日本は、京都の将軍に対して
西から反乱、東も呼応、という臨戦態勢で、
ピリピリしていた時期です。
何が起こるか分からない乱世。
少しでも味方を増やし、
背後や足元を固めておくべき、ですよね。
そう言われて悪い気はしない。
こうして、鎌倉の偉い人、
足利氏のお墨付きももらえたこともあり、
八屋形は各地域において
強力な支配を行うことになるのでした。
…ただ、このあとの関東地方は、
鎌倉公方の足利氏が分裂、
関東管領の上杉氏も分裂してしまい、
ばらばら状態の「戦国」に突入します。
群雄割拠。
そんな中で関東八屋形は
各地域で存在感を示していく…。
しかしそんな彼らの前に、強敵が現れた。
北条早雲(伊勢宗瑞)をはじめとする
「後北条氏」です。
今で言う伊豆、神奈川、東京、埼玉、群馬、
そのあたりにいた足利・上杉たちをなぎ倒し、
関東地方の覇者になっていきます。
(あまりに急成長し過ぎて、
上杉家を継いだ越後の「上杉謙信」から
攻められたりしますが)
…と、全員で手を結べば良かったんですが、
そこは悲しいかな、お山の大将。
ばらばらでした。まとまりがない。
その辿った運命も、ばらばらです。
要するに、残ったのは次の4つ。
しかし彼らが後北条氏と対決している間に、
西のほうから全国レベルの超大物、
豊臣秀吉がやってきます。
徳川家康まで従えて、小田原城を攻める。
1590年、秀吉が後北条氏を滅ぼしました。
…この後、さらに、
残った四家の運命は分かれていきます。
生き残ったのは、二家。
しかし関ヶ原の戦いの後には、
こうして「関東八屋形」として
関東地方の端に君臨していた八つの家は、
いずれも江戸時代には
関東地方から姿を消していったのでした。
最後に、まとめます。
本記事では「関東八屋形」の誕生と
その運命の変遷について書いてみました。
…この故事から、色々な教訓が得られるように
私は思うのです。
子孫の方々はいらっしゃいますが、
今は「地名」にしか残っていない
「関東八屋形」。
関東の武家の名門。
千葉県や宇都宮市、
那須や筑波山などに行く時がありましたら、
彼らの運命に想いを馳せてみてください!
※本記事は以前に書いた
記事のリライトです↓
「『関東八屋形』の運命」
※画像は北関東の益子(ましこ)でいただいた
とても美味しい珈琲です。
益子には、関東八屋形のひとつ、
宇都宮家の墓所があります↓
合わせてぜひどうぞ!