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英国の「名誉革命」という『事件』は複雑です。
自称「偉大なる革命」!(Glorious Revolution)

ここに至るまでの国王は
「ジェームズ」と「チャールズ」が2人ずつ。
J・T・T・Jの順番で即位。
まぎらわしいので、先に書き出します。

◎J:ジェームズ1世(エリザベス1世の後継者)
◎T:チャールズ1世(清教徒革命で処刑)
(護国卿クロムウェルが実権を握る)
◎T:チャールズ2世(王政復古)
◎J:ジェームズ2世(名誉革命で亡命)

名誉革命の概要はこちら!

◆1688年に起きた
◆オランダ総督である
「オラニエ公ウィレム」夫妻が
イングランド(イギリス)に渡り国王になる
◆元の国王、ジェームズ2世は退位する
◆国王が交代する大事件にもかかわらず
流血が(ほぼ)無く「名誉」な革命

…これを、仮に日本史に
置き換えて書いてみましょう。
その複雑怪奇さが際立つように思います。
(注:あくまでフィクションです)

◆1688年に起きた(当時の日本は江戸時代)
大陸の総督が日本に渡り、日本の国王になる
元の国王にあたる天皇や将軍は退位する
◆「名誉」な革命

当時の権力者は第五代将軍、徳川綱吉。
彼がいきなり他国から来た国王と
「無血で交代した」と想像してみてください。
…あり得なくないですか?
でも、そのあり得ない事件が起きたのが
イングランド(イギリス)です。

本記事では「名誉革命」を紐解いていきます。

状況を整理しましょう。

◆1688年、イギリスはジェームズ2世の治世
◆1642年には「清教徒革命」が起こっていた
◆「宗教改革」の影響で
カトリック・プロテスタント・英国教会が混在
◆1660年に「王政復古」で国王が復活
◆ジェームズ2世はカトリック教徒
◆議会はプロテスタント・国教会が優勢

舞台は17世紀のイギリス。
この頃の欧州の情勢は…。

◆フランスにはルイ14世(在位1643~1715)
「太陽王」の治世、絶対王政の最盛期!
◆オランダは1568年以後スペインから独立、
1648年ヴェストファーレン条約で独立承認。
「オランダ海上帝国」と呼ばれるほど発展!

ざっくり言いますと、

◎イギリスは革命でガタガタ・弱い…
◎フランスは太陽王が統制中・強い!
◎オランダは独立すぐで好況・強い!

そんな中で『名誉革命』が起きる。
立役者のオランダ総督は
オラニエ公ウィレム(ウィレム3世)
1650年生まれ、1702年に亡くなる。
1688年時点には38歳くらいでした。

彼の母はチャールズ1世の娘、メアリ。
彼の妻はジェームズ2世の娘、メアリ。
(メアリだらけ…)

「そんなに英国と関係が深いなら、
国王になっても不思議ではないのでは?」

いや、そう簡単ではない。
というのも、当時のイギリスとオランダは
『英蘭戦争』で戦った「敵同士」だったから。

1642年からの「清教徒革命」が原因です。
国王チャールズ1世、処刑。
革命後に実権を握ったのは
プロテスタントのクロムウェルでした。
1652年、彼は「航海法」という法律で
オランダにケンカを売り、
「第一次英蘭戦争」が勃発します。
オランダは準備不足もあって敗れた。
1653年、講和。この時にクロムウェルは、

「オラニエ公ウィレム(3世)を
オランダ総督にはしないでね!」

とオランダ側に念を押しました。
…当時、ウィレムは3歳の幼児。
なぜ、こんなことを言ったのか?
それは、自分たちが処刑した
チャールズ1世の娘の子ども、つまり「孫」が
オランダの権力者になるのを警戒した
から。

なお、ウィレムの父親は
彼が生まれる8日前に亡くなっていました。
ウィレムは総督の座をすぐ継ぐはずだった。
しかし、イギリスの横槍を受けて、
総督の座をすぐには継げなかった…。

後に母親は彼を置いて英国に渡り、
まもなく死去します。
父はいない。母も亡くした。
彼はオランダで祖母に育てられたそうです。
その心境、いかばかりか…。

そこに「第二次英蘭戦争」が起こります。

1665年~1667年。
イギリス国王のチャールズ2世は、
オランダの北アメリカの植民地
ニューアムステルダムを占領、
勝手に「ニューヨーク」と改名しました。

これに反対し、オランダは宣戦布告。
今度はオランダが大勝利を収める。
テムズ川の支流をさかのぼり、
イギリス海軍基地を壊滅させたりする。

この戦争の講和によって、オランダは
ニューヨークをイギリスに渡す一方、
南米のスリナムを獲得しました。
スリナムは砂糖栽培もでき、金鉱もあった。
当時のニューヨークより数倍の価値があった。

さらに「第三次英蘭戦争」が起こる。

チャールズ2世がフランスの「太陽王」
ルイ14世と密約を結んだのがきっかけです。
フランスとイギリスが手を結んだら
オランダは一気に厳しくなる…。
1672年、イギリスと開戦。

この戦いを主導したのが、
当時22歳のウィレムなのです。

彼はデ・ロイテルという名提督を説得、
英仏連合艦隊と戦わせた。
ロイテルはウィレムの期待に応え、
英仏両艦隊を撃破していきます。
17世紀のオランダ海軍は、強い。

一方のイギリス側は、苦しい。
イギリスでは「議会」の力が強いんです。
第3次英蘭戦争のための支出を認めない。

…こうして1674年、両国は講和。
その講和の証として、
ウィレムに(後の)ジェームズ2世の娘、
チャールズ2世にとっては姪に当たる
メアリを嫁がせました。


ウィレム夫妻は「英蘭講和」の象徴になった。

その後、チャールズ2世が
1685年に亡くなりますと、
弟のジェームズ2世が王位に就きます。
カトリック教徒です。
一方、ウィレムに嫁いだ娘メアリは
英国国教会の信者。

「…カトリックのジェームズ2世より、
英国国教会の娘と結婚した
ウィレム3世
のほうが良くないか?」

議会はそう考え出した。
そんな矢先、1688年、ジェームズ2世の
後継者として男子が生まれる。
彼はこの子にカトリックの洗礼を受けさせる。

「この子が国王になったらまずい…。
カトリック復帰を阻止するため、
先手を打って国王を追放する!」

こうして英国議会は
オランダの総督、ウィレム3世夫妻に
イギリス国王になるように要請
するのでした。
ウィレムはこれに応え、
100年前の1588年に英国に撃破された
「スペイン無敵艦隊」の
四倍もの規模の大艦隊を組織する。

「イギリス上陸作戦」を決行!

圧倒的なオランダ側の戦力に、
国王のジェームズ2世は戦意喪失…。
抵抗せずに妻子とともに
フランスへと亡命していくのでした。

最後にまとめます。

本記事では「名誉革命」について
詳しく書いてみました。

「英蘭戦争を有利に戦ったウィレムが、
英国の議会を味方につけて、
圧倒的な戦力で英国王家を『乗っ取った』」

そんな解釈もあり得そうです。

ウィレム夫妻はその後、
「ウィリアム3世」&「メアリ2世」として
イギリスを統治していったのでした。

…読者の皆様は、この事例から
どんなことを感じましたか?

※17~18世紀に欧州で起こった
「革命」のまとめはこちらが参考になります↓

※「名誉革命」以前の
英国王朝の移り変わりはこちらから↓
『分断の時代のヒント ~英国王朝史~』

※「百年戦争」以前の
大陸と混合・分離を繰り返していた
英国史についてはこちらの記事をぜひ↓
『「イギリス」の中と外 ~大陸との混合と分離~』

※日本史と比較しながら読むと
さらに立体的にイメージがつくと思います↓
『中と外との日本文化史 ~風をどう通すか?~』

合わせてぜひどうぞ!

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