何を残すか、残せるか
「十人の中、五人が賛成するようなことは、
たいてい手おくれだ。
七、八人がいいと言ったら、やめた方がいい。
二、三人ぐらいがいいという間に、
仕事はやるべきものだ」
大原孫三郎さん(1880~1943)の言葉です。
彼は岡山県の倉敷村(現倉敷市)で、
「倉敷紡績(クラボウ)」という
繊維製品会社の創業者の次男に生まれました。
ですがこの方、若い頃は放蕩三昧だったそうです。
東京専門学校(現早稲田大学)に進学するものの
なんと今のお金で一億円ほどの借金を抱えます。
中途退学、倉敷に連れ戻され、謹慎させられました。
まあ、地方の小金持ちの社長の
ドラ息子、という感じですね…。
彼のこの借金を返済するため、
彼の義理の兄が高利貸したちと交渉するなど
奔走してくれます。
しかしこの義兄、過労が原因で急死…。
「自分のせいだ」
彼はおおいに反省し、改心し、
リスタートすることを決意します。
さて、1906年(明治39年)のことです。
社員寮の中で感染病が発生、
社員数名を死亡させた責任をとって、
父親が社長を辞任します。
クラボウの二代目社長に、
彼はわずか二十七歳で就任することになります。
彼は、五つの改革を進めていきました。
1、飯場制度の解体(直営の食堂・売店設置)
2、寄宿舎の改革(すし詰めの大部屋の解体)
3、幹部人事の刷新(若い人の登用)
4、M&A、新規事業の拡大、多角化経営
5、労働者への利益還元
…これ、明治とか大正時代の話ですよ。
現在ならさておき、当時は
「労働者はガンガン使い倒してナンボ」という
工場経営が主体でした。
彼は、これを真っ向から改革していきます。
「労働者の人間性」を向上させるような
会社経営を実施していったのです。
果ては、日露戦争で増えた孤児のために、
会社の利益を使って
「孤児院」まで作ってしまう…。
当然ながら、株主たちからは
反論、異論、批判が相次ぎます。
「何をやってるんだ、社長!」
「ちゃんと本業に専念して、利益を出せ!」
しかし、彼は、全く動じません。
「わしの眼は十年先が見える!」
こう抗弁し、周囲の反対をものともせず、
次々に改革を実施していくのでした。
その改革が徐々に実って、
クラボウは大企業へと発展していきます。
人を大事にする企業に、人は集まります。
…彼が進めた「多角化経営」によって、
残されたものは、たくさんあります。
少しだけ、例を挙げましょう。
①『倉敷アイビースクエア』
②『大原記念労働科学研究所』
③『倉敷中央病院』
④『岡山大学 資源植物科学研究所』
⑤『石井記念愛染園』
⑥『大原美術館』 …この他、多数。
①は、倉敷本社工場を
ホテル・文化施設に作り変えたものです。
倉敷を代表する観光名所の一つになっています。
②③は、労働者の健康問題、QOL向上に
力を尽くした、彼ならではの施設。
④は、モモ・ナシ・ブドウなどで有名な
「果物王国」としての岡山に、
とんでもなく寄与していきました。
⑤は、孤児院を設立した石井十次という人の
精神と事業に共感し、
彼の志を継いで設立した福祉施設。
⑥は、西洋、古代中国、エジプト、
さまざまなコレクションで有名な
日本有数の美術館です。
この他にも、学校をつくったり、
奨学会をつくったり…。
彼の業績は、数え切れません。
そろそろまとめましょう。
新しい年度です。
新しい船出、仕事をする、事業をする、
その目的はさまざま、規模もさまざま。
自分が食っていく、生きるために働く。
もちろんこれは、最も大事なことです。
ですが、「そのためだけに」お金を稼ぎ続け、
老いた後、死んだ後に、何が残るのでしょう?
墓場にまで
お金を持っていくわけにはいかないのです。
「自分の家族」のために、残す。
「地域の人」のために、残す。
「周りの人がより良い人生を
送れるようなもの」を、残していく。
大原孫三郎さんは、数えきれないほどの
多くのものを、この世に残してくれました。
観光名所、病院、学校、福祉施設、
果ては特産品研究に、美術館…。
目先のことしか見えていなかった反対者に、
果敢に立ち向かってまで。
「わしの眼は十年先が見える!」
◆『大原孫三郎人物伝』こちらもご参考まで↓
https://www.kurabo.co.jp/sogyo/
…さて、読者の皆様におかれましては、
どこまで先を見据えていますか?
周りの人の意見を聞きすぎて、
十人いたら、十人賛成することしか
やってなくないですか?
何を残すことができるのでしょうか?
私もつい、新年度の忙しさにかまけて
今日・明日のことくらいしか
見えてないことが多くなりそうです。
自戒を込めて、本記事を書いてみました。