松平頼徳の悲劇 ~宍戸藩の運命~
茨城県の笠間市、その駅である
「笠間駅」と「友部駅」の間に、
小さな駅があります。
宍戸駅です。ししど。
ここには江戸時代に「宍戸藩」という
小さな藩がありました。
本記事では、この宍戸藩にまつわる
切ない話を書いてみます。
そもそもが「水戸黄門」で有名な
水戸藩の第二代藩主、
徳川光圀にまつわる藩です。
以前は秋田氏という一族がいましたが、
奥州の三春(福島県三春町)に
転封になりまして、
徳川光圀は、自分の末の弟である
松平頼雄(よりかつ)を
この宍戸藩の領主にしました。
大きな藩である、水戸藩。
小さな藩である、宍戸藩。
水戸藩主である自分の弟を宍戸藩主にした。
これ以来、宍戸藩の藩主は、
水戸藩を西からサポートする役目を
負うことになります。
(注:常に水戸藩は財政難に苦しんでいます。
詳細はこちらをご参照↓)
…幕末、江戸時代の末期でも
それは変わりませんでした。
第八代藩主の松平頼位(よりたか)は、
水戸藩の第九代藩主、斉昭(なりあき)の
心強い支援者の一人!
斉昭の藩主就任以前から支援しています。
斉昭は、1800年生まれ。
頼位は、1810年生まれ。
十歳違いの二人です。
ただ、水戸藩の斉昭は、やり過ぎた。
「烈公」とも呼ばれる激しい気性です。
幕府からにらまれて、隠居させられます。
斉昭は、長男の慶篤に藩主の座を譲る。
(徳川慶喜のお兄さんですね)
1844年のことです。
この水戸藩第十代藩主、慶篤は
1832年生まれ。
藩主の座に就いた時、わずか12歳…。
二十二歳年下の水戸藩主を、
宍戸藩の頼位が補佐していきます。
ただ、この頼位も、隠居する。
1846年のこと。
息子の松平頼徳(よりのり)に
宍戸藩主の座を譲るのです。
頼徳、1831年生まれ。
ほぼ慶篤と同じ年。
「あとは若い者に任せて…」
という気分だったのかもしれません。
社長の座を若い息子に任せて、
会長として後見していくイメージ。
水戸藩主、慶篤(よしあつ)。
宍戸藩主、頼徳(よりのり)。
…この若い二人を、
悲劇が襲っていきます。
1853年、ペリーの黒船来航。
1860年、桜田門外の変。
水戸藩の内乱、派閥争い、ついには
1864年、天狗党の筑波山挙兵。
幕末の大事件が次々と勃発して、
水戸藩・宍戸藩も対応を迫られていく。
幕府からは水戸藩に
「おい、筑波山に挙兵したという
天狗党とやらを鎮めてこい!」と
命令が下る。
徳川慶喜は、京都に向かっています。
徳川慶篤は、江戸で留守を守っている。
そこで水戸藩の慶篤は、
宍戸藩の頼徳に向かって
「ちょっと水戸に行って
天狗党を鎮めてくれない?」と
お願いをするのです。
頼徳は、慶篤をサポートする立場です。
水戸藩主の代理、
名代として水戸に向かう。
おともに、武田耕雲斎という
水戸藩の重鎮を連れていきます。
彼らを「大発勢」と言います。
大発とは、大勢、という意味。
水戸に着くころには3000人ほどになっていた。
ところがですね。
水戸城に着いても、城に入れなかった。
なぜなら、武田耕雲斎と
派閥争いをしていた
市川三左衛門という人が実権を握っていたから。
やむなく頼徳は、東の海の近く、
現在のひたちなか市の
「那珂湊」というところに向かいます。
おそらく、ここで武器や弾薬を
手に入れようと思ったのでしょう。
ところが、水戸城の市川三左衛門は、
大発勢を追って来て大砲で攻撃してきた!
やむなく、頼徳たちは応戦します。
そこに、筑波山からやってきた
「天狗党」の軍勢が来る。
「水戸城の市川と戦っている!」
「頼徳様は、天狗党の味方だ!」
頼徳たちも、水戸城の市川勢と
戦っているところです。
敵の敵は、味方。
なんと、天狗党を鎮めに来たはずの
大発勢、頼徳たちは、
この天狗党と合流するのです。
この両勢は那珂湊のあたりで
烈しく戦っていましたが、
じきに、援軍がやってきます。
幕府から。
幕府の追討軍、39藩の連合軍。
その数、約13,000名。
圧倒的な戦力。
率いる武将は、田沼意尊(おきたか)。
あの田沼意次の子孫です。
この圧倒的な戦力を背景にして、
両軍にプレッシャーをかける。
じきに、頼徳に使者が来ます。
武田耕雲斎たちは、頼徳に言います。
「…これは罠です、行っちゃいけません!」
頼徳、答える。
「ちょっと説明してくるよ。
話せばわかる。
休戦して、私からの連絡を待っててくれ」
はい、頼徳は田沼意尊の下に向かいます。
彼に会う前に、戸田五助という
市川三左衛門の一派の男に会う。
どうも行き違いがあったようだけれども、
話せばわかるだろう、と。
ワンクッション置くんですね。
…これが良くなかった。
戸田五助は、田沼に
どう対応するかを相談します。
「この人たち、どうします?」
田沼は答える。
「こいつら、天狗党と一緒になって
水戸城の人と戦っていたよな。
危険すぎる。実は天狗党じゃないか?
江戸に帰しちゃいけない」
…実はこの裏には、天狗党を鎮めに来た
頼徳たちを水戸城に入れなかったことを、
藩主に知られたくなかった市川三左衛門の
謀略があった、とも言われます。
こうして、頼徳は罠にはまった。
彼は、捕まった。
天狗党の仲間と断じられて、逆賊扱いされ、
「切腹」させられるのでした。
最後にまとめます。
江戸時代で藩主が切腹させられるのは
ほとんどありません。
たとえ幕末であっても。
宍戸藩は、その悲劇に遭った。
宍戸藩はお取り潰しに遭います。
武田耕雲斎は、やむなく天狗党に合流し、
その首領となって、悲劇的な最後を遂げます。
…ただ、明治維新後には、
この行き違いも明らかになり、
宍戸藩は復活しました。
後を継いだのは、父親の頼位です。
息子の跡を継いだ彼の心中、
いかなるものだったのか。
ちなみに、この頼位の子孫の一人に、
文学者で有名な三島由紀夫がいます。
(彼もまた、悲劇的な最後を遂げました)
宍戸藩。
水戸の西にあった、とても小さな藩。
そこには、天狗党の争乱に巻き込まれた
悲劇の歴史があったのでした。