史上最強の二代目 ~オゴタイ・カアン~
世界史上「最も強い二代目」と言えば?
私は、オゴタイ・カアンを挙げたい。
この人の父親は超有名人なのに、
彼自身はそこまで知名度がありません。
その通りです。
モンゴルのジンギス・カン!
その三男が「オゴタイ・カアン」です。
(モンゴルの人名はカタカナの表記が難しく
ジンギス・カンはチンギス・ハン、
オゴタイはオゴデイとも呼ばれますが、
本記事ではジンギスとオゴタイで統一します)
モンゴル帝国、第二代の皇帝。
なのに、日本では初代のジンギス・カンや
元寇の時のフビライ(クビライ)は
よく取り上げられるものの、
オゴタイはあまり知られていない。
…ですがこの人、
あのジンギス・カンの後継者なのです。
大領土を分裂させずに
一手に支配し、さらに拡大…!
実はすごい二代目なのでした。
本記事ではオゴタイについて書きます。
まず、基礎知識から。
「モンゴル」と言えば
現在では中国の北、ロシアの南、
両国の間の「モンゴル高原」の国ですよね。
しかし「モンゴルの世紀」と呼ばれる時代、
13世紀(1201~1300年)あたりでは
東西にめっちゃ領土が広かった。
最盛期の領土は約3,300平方キロメートル。
地球上の陸地の約17%。
人口は当時で1億人超えです。
まさに「空前絶後の世界帝国」!
ユーラシア大陸の大部分を支配…。
その創始者こそがジンギス・カンでした。
1162年~1227年。
「実はジンギス・カンは源義経だった!」
そんな奇説・偽説が広まるぐらいですので、
日本史で言えば
平安時代末期~鎌倉時代のあたりの人。
彼がモンゴル高原を統一したのは1206年。
「帝国の『フレーム』つくるクリルタイ」で
覚えますけれども、
クリルタイという『会議』を開いて、
高原全体の統治者に就任した。
カン、とは「部族の王」が名乗る称号です。
それまではテムジンという名前。
それが「ジンギス・カン」と名乗ることにより
「モンゴル帝国(の部族)」の指導者になる。
(諸民族を束ねる統治者のため、実質は
『皇帝』と呼んでも差し支えないと思います)
彼はカンカン、いや、ガンガン攻めていく。
1211年、中国北部の「金」王朝と開戦。
1215年、金王朝の首都が陥落。
1218年、中国の西の「西遼」を併合する。
1219年、さらに西の「ホラズム」を崩壊させる。
1227年、中国の西北「西夏」を滅ぼす。
…しかしここまで来て、陣中で没した。
さて、彼には子どもがたくさんいました。
長男のジュチ、次男のチャガタイ、
三男のオゴタイ、四男のトゥルイ、など。
(長男のジュチは彼より先に死去していた)
モンゴル帝国は長子相続の儒教圏とは真逆で、
「末子相続」が基本です。
年が若いほど偉い。
順当にいけば四男のトゥルイが継ぐはず。
実際に、一番大きな領土は彼が継ぎました。
…ただ「帝国を統べる後継者」としては、
三男であるオゴタイが選ばれる。
これが1229年のこと。
温厚な性格で一族をまとめていたことから
父親から後継者指名を受けていたんですね。
四男のトゥルイも「オゴタイなら…」と
父の指名を受け入れたと言います。
こうしてオゴタイは
兄のチャガタイ、弟のトゥルイの協力もあり、
第二代の皇帝へと即位。
この時に「カン」でなく「カアン」と名乗る。
オゴタイ・カアンの爆誕でした。
するんですよ。カンからカアンになると…!
カンはあくまで「部族の王」。
カアンは、さらにその上の「諸部族の王」。
名実ともに「皇帝」だと表現できる!
このオゴタイ・カアンが、
1229年から1241年の在位10年強のうちに、
さらに領土を拡大します。
ジンギス・カンの野望を継ぐ!
弟トゥルイの力を借り、金軍を倒す。
1234年に中国北部の金王朝を完全に滅ぼす。
(南部にはまだ南宋が残っています)
1235年には首都「カラコルム」を建設、
南方(南宋方面)と西方(東欧方面)に向けて
大遠征を行うことを決定します。
「南方遠征」は自分の子ども、
三男クチュたちに進軍させる。
「西方遠征」は自分の甥っ子、
長兄ジュチの子どもバトゥを総大将にして、
自分の長男グユクや
トゥルイの子どもモンケたちと一緒に
どんどん西へと向かわせる…。
実はオゴタイより先、1232年に死去した。
金王朝の軍勢を打ち破り、
オゴタイ本軍と合流して帰還する際に
「突然」亡くなった、と言われている。
『病気にかかったオゴタイの
身代わりとなるため、
呪いのかかった酒を飲み干して死んだ』
史書はそう伝えますが、何だか怪しい。
皇帝であるオゴタイ側が
カアンよりも実力のある
「国内野党」のトゥルイ家を押さえるために
謀殺したのでは?という説もある。
このトゥルイの遺産は、彼の子どもである
モンケ、フビライ、フレグ、アリクブケ、
などの子どもたちに分割されます。
トゥルイの死去により、
オゴタイの実力と権威は盤石になったのです。
内政面も整える。
ウイグル人の財務総監チンカイや
耶律楚材といった優秀な人材を使いこなして、
広すぎる領土を治めていく…。
ですが、懸念もありました。
南方に向かわせた三男の
クチュが早世したんですね。
そのため、クチュの子ども、
シレムンを後継者に指名。
…ただ、さすがに「孫世代」となると、
それよりも年上の王子たちは納得しない。
1241年、オゴタイは「突然」亡くなります。
享年56歳。
これにより、西に向かったバトゥの軍は
進撃を中止せざるを得なくなった。
…もし、オゴタイが長生きしていたら?
東欧のみならず、西欧、イギリスまで
モンゴルに征服されていたかもしれない…。
その後の世界史は
違ったものになっていた、と思われます。
最後にまとめましょう。
本記事では「史上最強の二代目」
オゴタイ・カアンについて書きました。
彼の死後、モンゴル帝国では
皇后の一人ドレゲネが奔走し、
1246年には「長男」のグユクが後を継ぎます。
(注:それまでの5年間は
ドレゲネが国を預かって動かしている)
そしてグユクの後は
トゥルイの子ども、モンケが継ぐ。
その次は「元寇」のフビライ。
…この間、オゴタイ系とトゥルイ系などが
後継者の座を巡って熾烈に争うんですね。
オゴタイから後継者に
指名されていたシレムンは、
モンケ即位の後に粛清されてしまう。
広かったモンゴル帝国は統一が失われ、
各地の「〇〇ハン国」や中国の「元」へと
分裂していくのでした。
このオゴタイ・カアンと、
モンゴル帝国に恨みを持つ女性との対立を
軸にして描かれているのが、
漫画『天幕のジャードゥーガル』。
読み始めたら止まらない。
「モンゴル版大奥」的なドラマチックな展開…。
ぜひ、どうぞ!↓
※手前味噌で恐縮ですが、
600年頃~1600年頃までの
遊牧民国家、モンゴル帝国、ロシアなどの
歴史の概略はこちらでまとめています↓
『100年ごとの北アジア史、中央アジア史』
13世紀のモンゴル帝国が
「東から西」に進軍したとすれば、
17世紀からのロシアの拡大は
「西から東」に進軍していった感じ。
つまり『逆』の方向に
「歴史は繰り返した」と言える、と思います。
果ては、日本が江戸時代の間に
「野生動物の毛皮」を求めて「東の果て」、
ベーリング海峡、アラスカにまで
到達していきます。
(ただし1867年に
アメリカにアラスカを売却している)↓
合わせてぜひどうぞ!