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巣鴨プリズンの闇と光 ~どこにあった?~

「地名」は、歴史を映し出してくれます。
その格好の「教材」の一つがあります。

◆巣鴨プリズン

と呼ばれていた施設です。プリズン=監獄!

本記事では「巣鴨プリズン」という
その名前に隠された歴史に
光を当てていきましょう。


さて「巣鴨」と言えば皆様は、
どんなイメージがありますか?

◆「おばあちゃんの原宿?」
◆「山手線の北のあたり…?」
◆「西に行けば大塚駅や池袋駅?」

そんなイメージがあるかもしれません。

山手線は、東に東京駅、
西に新宿駅、南西に渋谷駅、
そして北西に池袋駅を有しており、
ぐるりと回る有名な環状の鉄道路線です。

「巣鴨駅」はその一つ。北のほうです。
当然ながら『巣鴨プリズン』も
巣鴨駅の真ん前あたりにあっただろう…。

そう思っていませんか?

それが、違うんです。
住所で言えば
現在の「東池袋」のあたりにあった。
巣鴨駅より、かなり西に行ったところ。
大塚駅~池袋駅の間のあたりにあった。

「えっ、そうなんですか? じゃあ、
大塚プリズンとか池袋プリズンとか、
そんな呼び名のほうが妥当じゃないですか!
なぜ『巣鴨プリズン』と呼ばれたの?」

なぜだと思いますか?

その謎を語るためには、
脳内でタイムマシンに乗っていただき、
東京が江戸だった頃に戻る必要がある。

現在の大都市、副都心の池袋からは
想像もつきませんが、江戸時代には、
池袋は文字通り「池の行き止まり」でした。
ただの何もない農村だったんです。

巣鴨のほうが、断然都会だった!

江戸時代中期のあたりから、巣鴨は
「園芸の里」として発展していきます。
江戸には大名屋敷が多いですよね。
偉い人の家。
ですから、広い庭を手入れするため、
「植木職人」たちがたくさん必要だった。
屋敷の庭の手入れを農民たちが行う…。
彼らが自然と植木職人になった、と思われます。

巣鴨では「菊」づくりが盛んになる。
この現代においても巣鴨では、
11月初旬に「菊祭り」が行われています。

また「野菜」づくりも盛んでした。
「巣鴨だいこん」「巣鴨こかぶ」など
地名を冠した野菜がつくられて、
その「種」を扱う商人も増えていく…。

それに加えて明治時代になると、有名な
「とげぬき地蔵尊」が巣鴨にやってくる。
湯島、上野のほうにあったお寺が、
区画整理で巣鴨に移転してきたんです。
土地に馴染みのないお寺が
人を呼び込むために行ったことは何か?
「縁日」です。
本来なら、地蔵菩薩の縁日は24日だけ。
しかし巣鴨では、毎月4のつく
4日、14日、24日を縁日としたそうです。

菊、野菜、それに縁日…!

人が集まらないはずがない。
巣鴨は、人で賑わう大都会になっていきます。

1903年に巣鴨駅ができる。
現在ではこの巣鴨駅・高岩寺周辺のみが
「巣鴨」と呼ばれていますが、
昔は「駒込駅~巣鴨駅~大塚駅~池袋駅」の
あたりは全部「巣鴨」だった。

そう、巣鴨は今よりも広かったんです!

「はあ、そうですか。
じゃあ、なぜ巣鴨は小さくなったの?」

…巣鴨の西のあたりにあった
「池袋」の街が大きくなっていったから。

1903年、池袋駅が開業します。
しかし当時は巣鴨駅のあたりが都会であり、
池袋駅の周辺はただの農村でした。

1918年、この池袋駅の西のあたりに
築地から「立教大学」が移ってきます。
1933年には「京浜百貨店」が
菊屋デパートの名前で池袋駅に開店。
都電も池袋駅前に乗り入れた。
若者、商人、電車にお店。
徐々に人が集まる要素が揃ってくる…。

さて、ここで本題の
『巣鴨プリズン』の話に移りましょう。

元々は「巣鴨監獄」と呼ばれる施設でした。
現在の中央区にあった
「石川島監獄」を移転するにあたり、
「巣鴨村」の西の端、現在の東池袋の
約五万五千坪もの広大な農地を使って、
新しい監獄を作ったんです。

1895年に移転してくる。
警視庁監獄巣鴨支署、巣鴨監獄署、
巣鴨監獄、巣鴨刑務所と名前が変わります。
ただ、この刑務所は、
1935年には多摩地区の府中に移転された。
跡地には市谷刑務所が移転してきて、
「東京拘置所」と呼ばれるようになる…。

1945年、戦争が終わりますと、
GHQがこの施設を接収します。その時に、
東京拘置所は「巣鴨プリズン」と
呼ばれるようになった。
主に戦犯を収容する施設になった…。

「ということは、
「巣鴨監獄」という昔の名前の流れで、
今の巣鴨駅から離れているのに
『巣鴨プリズン』と呼ばれていたの?!」

その通りです。
巣鴨プリズンは、巣鴨駅の近くじゃない。
今の住所で言えば東池袋のあたり。

「じゃあ、いつ『巣鴨の西』が
『池袋の東』になったんでしょうか?」

1966年のことです。…だいぶ後、ですね。

戦後まもなく、池袋駅には立地の良さから
「闇市」が立ち並び、人が集まってきた。
その後は百貨店がたくさん開店していき、
どんどん都会になっていきます。

一方の巣鴨は、そこまでは発展しない。
昔からの伝統や歴史があるために、
新しいお店が入りづらかったんでしょう。
池袋のほうが「伸びしろ」があった。
巣鴨と池袋が逆転していく…。

ゆえに「巣鴨の西」だった地域が、
「池袋の東」と呼ばれるようになるんです。
1966年「東池袋」へと改称…。

日本がサンフランシスコ平和条約で
独立を果たしますと、
「巣鴨プリズン」は「巣鴨刑務所」となり、
1958年には最後の戦犯が釈放されて閉鎖。
東京拘置所も
1971年には葛飾区の小菅へ移転されました。

後に残ったのは、広大な跡地です。

「さて、この広い土地を
どうやって活用しようか?」

…そろそろ、話が見えてきましたか?

巣鴨監獄、巣鴨プリズン、東京拘置所。
それらがあった巣鴨の西、池袋の東の
広大な跡地にできた施設…。

それこそが、現在の
「サンシャインシティ」と
「東池袋中央公園」
なのです。

最後にまとめます。

本記事では「巣鴨プリズン」の地名を鍵に、
巣鴨~池袋の移り変わりについて、
私なりに書いてみました。

◆元々は巣鴨のほうが都会だった
◆池袋はただの農村に過ぎなかった
◆広い巣鴨村の西の端にできた「巣鴨監獄」
◆戦後には「巣鴨プリズン」と呼ばれる
◆戦後、池袋のほうが発展する
◆巣鴨の西が「池袋の東」に変わる
◆跡地は今の「サンシャインシティ」

そのような移り変わりを知らず、
ただ『巣鴨プリズン』という言葉から
「巣鴨駅のすぐ近くにあった」
と誤解する人がいる。

…恥ずかしながら、この私もそうでした。

「池袋の東」の
「サンシャインシティ」があるところに、
かつては「巣鴨プリズン」があった…。

街は、日々移り変わっていくものです。
意識しないと歴史はどんどん忘れ去られて、
闇の中、記憶の外へと隠れていきます。


読者の皆様の近くの地名は、いかがですか?

調べてみると、実はこうだった、という
驚きの事実に光が当たるかもしれません。
サンシャインだけに。

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