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昔、利根川は「東京湾」に注いでいました。

漫画『カイジ』の利根川ではなく、
リアルな「川」の利根川のほうです。

「…言っている意味がわからない。
利根川って、茨城県と千葉県の県境の
近くを流れている川、ですよね?
銚子のあたりで太平洋に注いでいく。
東京湾とは向きが違うんじゃないですか?

そう思われましたか?

しかし、利根川は江戸時代に
「東遷事業」で東に流れを遷された川。
それまでは、東京湾に注いでいたんです。
人呼んで「坂東太郎」
坂東、つまり関東を暴れ回る川…!

本記事では「利根川の東遷事業」と
その推移について
書いてみたいと思います。

まずは利根川の基本データ。

◆流域面積:日本第一位(16,840㎢)
◆川の長さ:日本第二位(322km)

めちゃめちゃ広くて長い!
800を超える支流から水を集めています。

しかし江戸時代以前には、
この利根川、そして渡良瀬川、荒川は
南のほうに流れ、東京湾に注いでいました。
一方、鬼怒川、小貝川、常陸川は
東南に流路をとって銚子のあたりから
鹿島灘、太平洋へとに注いでいく。

利根川は、江戸(いまの東京)の
近くを通って東京湾に流れていたんです。
今の利根川の流れとは全く別…。

そのため、利根川の下流域、
戦国時代までの江戸のあたりは、
びっちょびちょの湿地帯が多かった。
なぜなら、今のように堤防も整備されず、
大雨が降るたびに氾濫していたから。
川の流れるルートもころころ変わっていた。

そもそも関東は「関東ローム」と言われる
火山灰の土壌が多い土地。
灰が積もっているので川が浅いんです。
だから、しばしば氾濫が起こる…。

歴史的な経緯を見ましょう。
1590年に後北条氏が滅んで、
代わりに入ってきたのは徳川家康。

「川を制さないと関東は治まらない!」

彼は、伊奈忠次という男を
関東郡代(代官のリーダー)に任じて、
各地の治水をするように命じます。

手始めは、早くも1594年。
「会の川」という川を締め切って
渡良瀬川に合流させている。
関ヶ原の戦いよりも前のことです。

1621年には利根川と渡良瀬川を合流させる。
1629年には荒川を西のほうに動かす。
1654年には赤堀川という川を掘削し、
利根川と東の常陸川をくっつけていく…。

総移動土砂量は「パナマ運河」をしのぐ、と
言われるほどの大規模な工事の連続です。
川を締めきっては、くっつける。
「荒川は西」に「利根川は東」に
移動して流れるようになったんです。
坂東太郎こと利根川は江戸の近くではなく、
銚子に向かって流れるようになった。

すると、どうなるか?

…湿地帯が水田地帯に代わるんです。
都市の開発や発展もしやすくなる。
氾濫が減るわけですから。
大都市、江戸の「土台」が
徐々に「固まっていく」ことになります。


ただ、ですね。

とんでもなく長く広い川ですから、
明治初期までは利根川の「本流」は
確定していなかった。

江戸時代は「水運」の時代です。
まだ鉄道はありません。
物資の運搬は陸路でなく水路を使った。
ゆえに、銚子から常陸川をさかのぼり、
江戸川へと下っていく川の流れは、
「物流の大動脈」だったんです。
荷物を大量に積んだ船が
毎日行き来をしていた。

だからどこか一本の川だけを
本流とするわけにはいかなかった。
船が円滑に移動できるよう、
どの川も水量が豊かだった
んです。

…ところが1877年(明治10年)、
川に関する大事件が起こります。
「足尾銅山鉱毒事件」です。

渡良瀬川の流れに沿って
銅山の鉱毒が流れていった事件…。
もし江戸川、東京湾のほうに
多くの鉱毒が流れると、東京のほうに
かなりの被害が及んでしまいますよね。

そのため、渡良瀬川から流れる水は
利根川方面、東の方面へ
たくさん流すことが決定されます。
明治以後には鉄道も発達したので、
水運もそれほど考えなくても良くなった。
これによって利根川の「本流」が
確定した、と言われます。


ここまでをまとめましょう。

◆戦国まで利根川は江戸の近くだった
◆ゆえに流域の大部分が湿地帯だった
◆江戸幕府が利根川の東遷を開始する
◆江戸時代は水運が物流の動脈だった
◆鉱毒事件が契機となって本流が決定

こうして、今の「利根川」の流れが
決まっていった、というわけです。

ただ、人工的に川を変えたとはいえ、
水を完全に制しきったわけではありません。
しばしば氾濫、大洪水が起こっています。

代表的なものを挙げます。

◆江戸の三大洪水(1742、1786、1846年)
◆明治43年の洪水(1910年)
◆カスリーン台風の洪水(1947年)

このうち、カスリーン台風の洪水は
戦後まもなくの1947年に起きたものですが
その被害がひどかった…。

雨台風の影響でどんどん水量が増し、
現在の埼玉県加須市(かぞし)の
堤防が決壊してしまったんです。
その結果、現在の利根川の流れ、
東方向にではなく、
「元の利根川の流れ」のほう、
つまり南方向、東京湾方向に向かって
膨大な水があふれ出てしまう…。


幸手、春日部、越谷、綾瀬、亀有、小岩、
このあたりが全部、水に浸かります。
時の東京都知事はGHQと相談、
江戸川の堤防を爆破して水を逃がすことを
試みますが、すぐにはうまくいかない…。

浸水した家、約40万棟。
台風による死者、約千人。


もちろん利根川流域だけではなく、
荒川流域や群馬県・栃木県などの
土石流や氾濫の被害も合わせての数ですが、
未曽有の大災害だったことは間違いない。

「川を制して関東を治める」

江戸幕府が始めた利根川の東遷ですが
「自然の猛威の前には
決壊することもある」
という事例です。

このカスリーン台風の洪水の教訓から、
現在では調整池や高規格堤防がつくられ、
治水がさらに進んでいきます。

…それでも、台風が来るとどうしても
利根川流域は浸水被害が出がちです。
将来的にもし、カスリーン台風と
同規模の洪水が発生した場合、
「死者最大3,800人、罹災者数160万人」
という試算もされているのです。

ただ、見方を変えると、
「利根川の東遷事業」が行われずに
東京湾にそそぐそのままの川だったら、
この数値ももっと大きなものに
なっていたかもしれない…。

江戸幕府の「利根川の東遷事業」は、
関東地方や江戸・東京の未来を
大きく変えた
、とも言えるのです。

最後にまとめます。

本記事では「利根川の東遷事業」から
その推移、影響まで書いてみました。

皆様が住む地域の川はいかがでしょうか。

昔はどのような川でしたか?
人工的に流れが変わったことはありますか?
もし万一、洪水が起きた時の
ハザードマップや避難経路は?

日本では、梅雨や台風は避けられません。
「備えあれば憂いなし」とも言います。
私もあらかじめ備えていきたい、と
改めて感じたところでした。

※「利根川の東遷事業」はこちらもぜひ↓

※漫画『カイジ』のスピンオフ、
『中間管理録トネガワ』はこちら↓

※「カスリーン台風と利根川の氾濫」は
こちらをご参考に↓

※徳川家康が入ってくる前の
後北条氏の関東についてはこちら↓

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