きたさと。きたざと。…? どっち?!
読者の皆様はどう思いますか? 正解は…?
留学先のドイツで「きた『ざ』と」と
正確に読んでもらうために、
ドイツ語で『ざ』と発音する「sa」を使って
Kitasatoと書いた。
それが英語圏で「きたさと」と読まれ、
そっちのほうが有名になった…。
ゆえに子孫の方や出生地では「きたざと」。
北里大学やテレビ局では「きたさと」。
文部科学省の教科書検定によると
「きたざと」は誤り、だそうです。
本記事では、最近の1,000円札で
皆様のお財布にもいる細菌学者の
「北里柴三郎」について書きます。
とにかく異名が多い。
偉人伝風に書くなら、次の通り。
そんな柴三郎は1853年に
肥後国(今の熊本県)小国郷北里村で出生。
「惣庄屋(そうじょうや)」の
家の分家の出身でした。
「…惣庄屋って何?」
他の藩で言えば「大庄屋」です。
「庄屋(しょうや)」と言えば、
村を治めてまとめる。これをさらにまとめる。
肥後を治める細川藩は、藩内を
「○○手永」という小さな区画に分割し、
それぞれの手永に「会所」という役所を置いた。
それらを管轄する最高責任者として
「惣庄屋」を置いていたのです。
(いわば町内会長・村長を束ねる自治会長…)
ゆえに柴三郎の父親も
本家の下で庄屋を務めていました。
村に密着した武士、駐在さん。
村の揉め事を解決する温厚で几帳面な人でした。
母親は対照的にキビキビで厳しい人。
柴三郎を親戚に預け、
厳しいしつけを依頼したと言います。
柴三郎の性格は、温厚な父と
厳しい母によって育まれたのでしょう。
1869年、16歳頃に藩校に入学します。
「立派な武士に、俺はなる!」
…しかし世の中は「明治維新」です。
藩校、廃校。柴三郎、落胆。
地元の小学校で教師見習いになります。
しかし、ここで運命の出会いがあった。
悶々としている柴三郎を
西洋医学へと導いた人がいるんです。
マンスフェルト。1832~1912年。
オランダの軍医で、
アムステルダムの近郊で生まれた人です。
長崎附医学校において
長與專齋(ながよせんさい)と相談しながら
教育制度を改革した医学教育者。
1871年からは同じ九州の
熊本の医学所と病院で教鞭を取っていた。
…運命の出会いです。
1853年生まれ、武士になり損ねた柴三郎。
1832年生まれ、オランダのマンスフェルト。
彼らが肥後、熊本で出会った!
マンスフェルトはこういう教育方針。
熱心にオランダ語を習得しようとする
柴三郎に目を付け、才能を伸ばしていく。
夜は彼の家で語学習得、2年目から講義の通訳。
医学と語学の腕を驚異的に伸ばしていく…。
1875年、23歳で上京します。
東京医学校(現、東大医学部)に入学。
…ただ、いわゆる『肥後もっこす』で、
曲がったことは大嫌い。
たびたび教授の論文に口出し。
嫌がられて、よく留年をしていました。
1883年、卒業時の成績(31歳)は26名中8位。
ずば抜けて優秀ではなかった。
…というより、ハッキリ言えば
東大の先生に嫌われていたのだと思います。
さて、ここに同郷の恩人が現れる。
緒方正規(おがたまさのり)。1853~1919年。
柴三郎とは同じ年生まれ、タメです。
3年早く東京医学校に入学していたので、
柴三郎の先輩、上司になりました。
彼は1881年にドイツに留学している。
ミュンヘン大学で衛生学を学ぶ。
著名なコッホの弟子、レフラーに師事する。
1883年に柴三郎が卒業すると、
この緒方が彼にドイツ留学を勧めて、
レフラー宛に紹介状を書いてくれるんですね。
優しい。
こうして1885年、柴三郎はドイツに旅立つ。
…そこからの破竹の快進撃は
世によく知られるところです。
コッホと仲良くなり、
「コッホ四天王」の一人とも呼ばれる。
世界的な名声を獲得していく。
彼は各国の大学からオファーを受けますが
固辞して1892年帰国。
日本の医療体制の改善。伝染病から救う!
それが彼の志でした。
オランダから来日し、医学整備に尽くした
恩師マンスフェルトの影響もあったのでは。
…ここで、曲がったことは大嫌いという
彼の性格が災いをもたらすんです。
彼はドイツ留学中に、緒方が発表した
「脚気菌発見」の報告に対して、
『それ、間違っていますよ?』と指摘した。
あくまで医学者、科学者として
否定したに過ぎません。
彼にとってはむしろ「恩返し」だった。
…これが、大問題になったんです。
恩人の研究を『侮辱』するとは何事か!
恩人を『否定』するとは何たることか!
そう言われて黙っている柴三郎では、ない。
「情を忘れたるものに非ず。
私情を制したるものなり!」
彼は、東大と東大閥から忌避されました。
なお、緒方本人と仲が悪くなったわけではなく、
私的には交流が続いていたそうです。
周りが騒ぐ、という典型的なパターンですね。
オランダ、蘭方医学の適塾出身の
福沢諭吉がこの野人、柴三郎をサポート。
彼もまた「在野」から
有能な人材を発掘する名人でした。
柴三郎の『伝染病研究所』設立を支援。
しかし1914年、政府は突如として
この研究所を文部省に移管し、
東大の下部組織にしてしまうんです。
柴三郎は猛反発し、辞表を叩きつける。
私費で「私立北里研究所」を設立します。
(注:現在の北里大学)
…志賀潔、野口英世など
著名な学者・研究者も伝染病研究所出身。
後進を育て、日本の医学界に寄与した
「近代日本医学の父」。
慶応医学部学部長、日本医師会初代会長
などを歴任し、1931年に亡くなりました。
最後にまとめます。
本記事では「北里柴三郎」の生涯を
かいつまんで書いてみました。
ぜひ、新1,000円札をお使いになる時は、
彼の生涯に想いを致してみてください!
※『林太郎と柴三郎 ~脚気をめぐって~』↓
※『何が明治陸軍の脚気対策を遅らせたのか?』↓
※関川夏央さんと谷口ジローさんの漫画、
『「坊っちゃん」の時代(第2部) 秋の舞姫
―凛烈たり近代なお生彩あり明治人』では
森鷗外の生涯が描かれています↓
※北里柴三郎については
伊藤智義さんと森田信吾さんの漫画、
『栄光なき天才たち』がわかりやすいです↓
合わせてぜひどうぞ!