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きたさと。きたざと。…? どっち?!

「普通に考えて『きたざと』では?
なかざととか、やまざととか、
濁って読むんじゃないですか?」
「いや、北里大学という学校があって
確か『きたさと』だったような…」

読者の皆様はどう思いますか? 正解は…?

『最初は「きたざと」だったけれど
後から「きたさと」にした』でした。

留学先のドイツで「きた『ざ』と」と
正確に読んでもらうために、
ドイツ語で『ざ』と発音する「sa」を使って
Kitasatoと書いた。
それが英語圏で「きたさと」と読まれ、
そっちのほうが有名になった…。

ゆえに子孫の方や出生地では「きたざと」。
北里大学やテレビ局では「きたさと」。
文部科学省の教科書検定によると
「きたざと」は誤り、だそうです。

本記事では、最近の1,000円札で
皆様のお財布にもいる細菌学者の
「北里柴三郎」について書きます。

◆日本のパスツール
◆日本のドクターX
◆近代日本医学の父
◆感染症学の巨星
◆ドンネル先生
◆破傷風の父
◆ペスト博士

とにかく異名が多い。
偉人伝風に書くなら、次の通り。

「『近代日本医学の父』の細菌学者。
1889年に破傷風菌の純粋培養に成功。
1890年に血清療法を開発。
1894年にペスト菌を発見。
第1回ノーベル生理学・医学賞で
最終候補者まで選ばれた」

そんな柴三郎は1853年に
肥後国(今の熊本県)小国郷北里村で出生。
「惣庄屋(そうじょうや)」
家の分家の出身でした。

「…惣庄屋って何?」

他の藩で言えば「大庄屋」です。
「庄屋(しょうや)」と言えば、
村を治めてまとめる。これをさらにまとめる。
肥後を治める細川藩は、藩内を
「○○手永」という小さな区画に分割し、
それぞれの手永に「会所」という役所を置いた。
それらを管轄する最高責任者として
「惣庄屋」を置いていたのです。
(いわば町内会長・村長を束ねる自治会長…)

ゆえに柴三郎の父親も
本家の下で庄屋を務めていました。
村に密着した武士、駐在さん。
村の揉め事を解決する温厚で几帳面な人でした。

母親は対照的にキビキビで厳しい人。
柴三郎を親戚に預け、
厳しいしつけを依頼したと言います。

「度量がありつつ、細かいことを着実に重ね、
かつ言うべきことは誰が相手でも厳しく言う」

柴三郎の性格は、温厚な父と
厳しい母によって育まれたのでしょう。

1869年、16歳頃に藩校に入学します。
「立派な武士に、俺はなる!」
…しかし世の中は「明治維新」です。
藩校、廃校。柴三郎、落胆。
地元の小学校で教師見習いになります。

しかし、ここで運命の出会いがあった。
悶々としている柴三郎を
西洋医学へと導いた人がいるんです。
マンスフェルト。1832~1912年。

オランダの軍医で、
アムステルダムの近郊で生まれた人です。
長崎附医学校において
長與專齋(ながよせんさい)と相談しながら
教育制度を改革した医学教育者。
1871年からは同じ九州の
熊本の医学所と病院で教鞭を取っていた。

…運命の出会いです。
1853年生まれ、武士になり損ねた柴三郎。
1832年生まれ、オランダのマンスフェルト。
彼らが肥後、熊本で出会った!

「教師は学校にいて直ちに
学生を医者に仕立てるものではない。
学生をしてその研究上行くべき道を指示し、
かつ学生自ら研究すべき方法を教えるものだ」

マンスフェルトはこういう教育方針。
熱心にオランダ語を習得しようとする
柴三郎に目を付け、才能を伸ばしていく。
夜は彼の家で語学習得、2年目から講義の通訳。
医学と語学の腕を驚異的に伸ばしていく…。

1875年、23歳で上京します。
東京医学校(現、東大医学部)に入学。

…ただ、いわゆる『肥後もっこす』で、
曲がったことは大嫌い。
たびたび教授の論文に口出し。
嫌がられて、よく留年をしていました。

1883年、卒業時の成績(31歳)は26名中8位。
ずば抜けて優秀ではなかった。
…というより、ハッキリ言えば
東大の先生に嫌われていたのだと思います。

さて、ここに同郷の恩人が現れる。

緒方正規(おがたまさのり)。1853~1919年。
柴三郎とは同じ年生まれ、タメです。
3年早く東京医学校に入学していたので、
柴三郎の先輩、上司になりました。
彼は1881年にドイツに留学している。
ミュンヘン大学で衛生学を学ぶ。
著名なコッホの弟子、レフラーに師事する。

1883年に柴三郎が卒業すると、
この緒方が彼にドイツ留学を勧めて、
レフラー宛に紹介状を書いてくれるんですね。
優しい。
こうして1885年、柴三郎はドイツに旅立つ。

…そこからの破竹の快進撃は
世によく知られるところです。
コッホと仲良くなり、
「コッホ四天王」の一人とも呼ばれる。
世界的な名声を獲得していく。

◆1889年:破傷風菌の純粋培養に成功
◆1890年:血清療法を開発

彼は各国の大学からオファーを受けますが
固辞して1892年帰国。
日本の医療体制の改善。伝染病から救う!
それが彼の志でした。
オランダから来日し、医学整備に尽くした
恩師マンスフェルトの影響もあったのでは。

…ここで、曲がったことは大嫌いという
彼の性格が災いをもたらすんです。

彼はドイツ留学中に、緒方が発表した
「脚気菌発見」の報告に対して、
『それ、間違っていますよ?』と指摘した。
あくまで医学者、科学者として
否定したに過ぎません。
彼にとってはむしろ「恩返し」だった。

…これが、大問題になったんです。

恩人の研究を『侮辱』するとは何事か!
恩人を『否定』するとは何たることか!

◆「師弟の道を解せざる者」(東大総長)
◆「識ヲ重ンセントスル余リニ
果テハ情ヲ忘レシノミ」(森林太郎/鷗外)

そう言われて黙っている柴三郎では、ない。

「情を忘れたるものに非ず。
私情を制したるものなり!」


彼は、東大と東大閥から忌避されました。
なお、緒方本人と仲が悪くなったわけではなく、
私的には交流が続いていたそうです。
周りが騒ぐ、という典型的なパターンですね。

オランダ、蘭方医学の適塾出身の
福沢諭吉がこの野人、柴三郎をサポート。
彼もまた「在野」から
有能な人材を発掘する名人でした。

柴三郎の『伝染病研究所』設立を支援。

しかし1914年、政府は突如として
この研究所を文部省に移管し、
東大の下部組織にしてしまうんです。
柴三郎は猛反発し、辞表を叩きつける。
私費で「私立北里研究所」を設立します。
(注:現在の北里大学)

志賀潔、野口英世など
著名な学者・研究者も伝染病研究所出身。
後進を育て、日本の医学界に寄与した
「近代日本医学の父」。
慶応医学部学部長、日本医師会初代会長
などを歴任し、1931年に亡くなりました。

最後にまとめます。

本記事では「北里柴三郎」の生涯を
かいつまんで書いてみました。

ぜひ、新1,000円札をお使いになる時は、
彼の生涯に想いを致してみてください!

※『林太郎と柴三郎 ~脚気をめぐって~』↓

※『何が明治陸軍の脚気対策を遅らせたのか?』↓

※関川夏央さんと谷口ジローさんの漫画、
『「坊っちゃん」の時代(第2部) 秋の舞姫
―凛烈たり近代なお生彩あり明治人』では
森鷗外の生涯が描かれています↓

※北里柴三郎については
伊藤智義さんと森田信吾さんの漫画、
『栄光なき天才たち』がわかりやすいです↓

合わせてぜひどうぞ!

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