自覚

 それは審神者の定例会でのことだった。

 数週に一度、私たち審神者は政府塔に集められ、お偉いさんから注意事項を聞いたり、特に中身のないお言葉を頂戴したりする。そのあとは審神者同士で意見や情報を交換をし合い、銘々好きなタイミングで本丸に戻る。
 この定例会では、希望を出せば刀剣男士を一振だけ連れていくことができるのだけど、まあ長谷部の多いこと多いこと…。あんまりにも同じ顔を見るものだから最初のうちは頭が痛くなった。今ではもう慣れたけど。
 私は、長谷部が苦手だった。何を期待しているのか、何を想っているのか、彼が向ける〝主〟への視線が煩わしかった。頼み事をすれば「主命とあらば」と恭しく頭を垂れる。他の刀剣たちから漏れ聞く彼の働きにも、まるでバカの一つ覚えのようにその言葉が出てきた。
 当時私が知っている長谷部の情報と言えば、彼が自分で言った通り、命名しておきながら直臣ではない者に下げ渡した前の主を、織田信長公を良く思っていない。ぐらいの簡単なものだった。
 だから今度は〝主の命〟に応えることで〝主〟にとっての無二になりたいんだろうなと、もう二度と手放されたくないんだろうなと。そう思っていた。
 だからこそ大して重要じゃない頼みも恭順にこなしていく姿に苛立ちを覚えた。そんなことをしても私はお前の期待に応えないし、望みがあるなら口にしないと私は知らんぷりを続けるぞ、と。
 そうやって段々と長谷部を避けるようになっても、彼は変わらず従順だった。そしてそのことがまた、私の苛立ちを募らせていた。
 さすがに定例会で見かける他の本丸の長谷部に苛つく程見境なしではないけれど、それでもどこを向いても視界に必ず長谷部がいるものだから、みんなそんなにあの〝主命とあらば〟が好きなのかと思わず零した時、一緒に寛いでいた審神者仲間がそれに応じた。「それはそうでしょうね」と、朗らかに。そしてふと考え込んだあと、一つの質問を投げ掛けた。

「霞月ちゃんは長谷部が嫌いなんだっけ」
「嫌い…と言うか、苦手なんです。あの真っ直ぐな目が、私には…」

 煩わしい。それは変わらない。けどそれだけじゃない。
 あの目は、いつも恭しい彼の目は、悲しい。どうしてかあの目を見ると胸がすごく締め付けられる。それなのに長谷部は、悲しいことなど何もないと言う。自分で気付いていないのか、私の思い過ごしなのか、悲しさの原因が判らない。判らないから、煩わしく思うのかも知れない。
 そう答えると彼女は朗らかに微笑んだまま、ねぇ霞月ちゃんと問い掛けた。

「もし、長谷部が死んでしまったらどうする?」

 ―…何だって?

「もし、長谷部が。戦いではなく自殺でこの世を去ってしまったら」
「…何を言ってるんですか、冗談だとしても笑えないです」
「それは死んでほしくないってこと?苦手なのに?」
「それとこれは別です!苦手だから死んでほしいとか、そんなこと思いません!」
「そう」

 戦いに死は付き物。犠牲のない戦などない。だとしても、私は誰にも死んでほしくないし誰も失いたくない。誰も、何も。
 憤る私と彼女の目線は絡んだまま、互いに沈黙だけが交わされた。周囲の喧騒はどこか遠く、探るような彼女の目がじっと私を射抜いていた。
 私は長々と怒っていられる程の持久力がない。怒りが薄れれば、当然別の感情が表立つ。怒りが薄れた今は、戸惑いと、彼女から伝わってくる僅かな不安が胸を占めていた。しかし彼女はその不安を表には出さず、細めた目でただ私の目を、その奥を見つめていた。私がしている面など見えていないかのように。
 どれ程沈黙していたかは判らないけれど、彼女があまりにもそのままの姿勢で動かないものだから、何かあったのかと思って声をかけようとした時。

「霞月ちゃん、ちょっとおいで」
「何ですか?」
「さっきの質問の意図、気になるでしょう?でもここでは教えられないから、少し歩きましょう」

 彼女に続いて立ち上がると、後ろで控えていた歌仙が腰を浮かせた。が、それを彼女は手で制した。

「ごめんなさい、この先は私たちだけで。―兼定、あとよろしくね」
「…向こうも〝兼定〟連れてんだからよ、呼び方には気を付けろっての」
「ああ、つい。ごめんなさい、霞月ちゃんの歌仙さん」
「いや、構わないよ。…長くかかるのかい?」
「三十分くらいかしら。もしかしたらもう少しかかるかも知れないけれど、心配しないで」

 そして彼女は「行きましょうか」と促し、歩き始めた。
 彼女は―ミオウさんは、審神者になりたての私にいろいろなことを教えてくれた大切な先輩だ。いつも笑顔でちょっと掴みどころのない人だけれど、心長閑で、一緒にいると不思議と落ち着く。時々とんでもないことを笑顔で言うから、実はこわい人なのかも知れない。けど理不尽な行動は取らないし、変にごまかしたり嘘を吐いたりしないから信頼できる。背がすらりと高く、長い黒髪を躍らせながら歩く姿がかっこよくて、つい見入ってしまっていたところに声を掛けられたのが最初だった。あの時と同じく、先を歩く彼女は姿勢正しく、黒髪を揺らしながら真っ直ぐ進んでいく。
 そして会場の奥に陣取る政府役員の一人に声を掛けた。

「ついそうのきりはなをご存知かしら?」
「…いや、もう忘れた」
「もえつきのふねなら憶えているわ」
「所属と名前を」
「相模の深桜」
「そっちは?」
「周防の霞月、です」

 目の前で行われた謎の遣り取りに目を丸くしながらも、深桜さんに倣って所属国と名前を役員に告げる。すると役員は端末を取り出し、何か操作を始めた。数秒後、ふむと声を漏らすと私に向けて面を取るよう言った。どうやら顔が見えないのは駄目らしい。
 面を外すと、役員は一つ頷いて再度端末を操作し始めた。いつの間にかその足元にこんのすけが座っている。

「このクダギツネのあとに付いて行けば辿り着ける。戻ったらまた私に声を掛けるように」
「ええ、ありがとうございます。―よろしくね、こんのすけ」
「はい。それではご案内します」

 いったい私はどこに連れて行かれるんだろう。
 〝もし長谷部が自ら命を落としたら〟
 あの質問の意図を知るにはここでは駄目だと言う彼女に従って付いて行ったら、今は何故かこんのすけに付いて行くことになっている。そしてこんのすけに付いて私たちは会場を抜け、人気のない明るい廊下を進み、壁とすっかり同化して見分けがつかなくなっている―まるで隠されているかのようなエレベーターに乗り込んだ。
 本当に、どこに連れて行かれるんだろう。


 霞月が深桜と連れ立ったあと、残された二振の兼定は暫く無言で茶を啜っていた。
 主たちが戻ってくるまで凡そ三十分、それならば歌を詠んでいる間に帰ってくるだろう。そう思った歌仙兼定は会場をゆっくり見回した。何か歌の題材になりそうなものはないかと。だが正面を向いた時、もう一振の兼定が何やら沈鬱な面持ちをしているのに気が付いた。

「…おい、そっちの歌仙よぉ」
「なんだい和泉守?」
「たぶん、うちの主が戻ってきた時。あいつから謝罪があると思うが、オレからも先に謝っておく」
「どういうことだい」
「あいつは…お前んとこの主を傷付けて帰ってくる」
「詳しく話せ」
「――…」


 駆動音も静かなエレベーターに乗り込んで数十秒、ゴゴンと低い音を響かせてエレベーターが止まった。私たちを包む空気は重く、話をして場を盛り上げようという雰囲気ではなかった。呼吸さえ、潜めてしまう程に緊迫した空気。何かとんでもないことに巻き込まれている気がする。
 扉が開いてこんのすけが歩き出すと同時に、目の前の闇が掃われて手前から奥に向かって灯りが点っていく。エレベーターが止まった時の感覚、どこか冷たく湿り気を帯びた空気、窓のない廊下。どれだけ深くかは判らないが、恐らく相当に深い地下へと下ろされたのだろう。真っ直ぐに伸びる廊下は果てが見えず、等間隔に並んだ扉がずっと続いている。窓も把手も飾りもない扉からは威圧感のようなものを感じた。手を触れてはならない、という警告を。
 人の出入りを拒み、時の流れからも隔絶されたような空間に、ただ深桜さんのブーツの音だけがこつこつと響く。

「あの…深桜さん、私たちはどこに向かっているんですか?」
「対歴史修正主義者資料保管庫、其七十三番」
「資料保管庫?」
「着いたら解るわ」

 少し悲しそうに深桜さんは微笑み、私はそんな彼女と並んでこんのすけの後ろを歩いた。
 見れば扉の上にはプレートが嵌め込まれていて、それぞれ〝四十九〟や〝百三十六〟といった数字が記されていた。どうやらこれが保管庫のナンバーであるようだけど、扉の並びは番号順ではない。百五の隣は九十一で、更にその奥は九十九だ。しかも九十九はさっきも見た気がする。どういう法則で並んでいるのやら。
 そうこうしている内にこんのすけが足を止めた。その扉の上には〝七十三〟と記されたプレートが嵌まっている。

「着きました、こちらです」

 こんのすけはそう言うと前足で扉に触れた。その瞬間、鈍色の扉の表面を光が走り、瞬く間に金の装飾が施された真白く美しい姿へと変わっていた。

「どうぞ」
「ありがとう」

 深桜さんに続いて部屋に入ると、中は想像していたよりもずっとシンプルだった。
 十五畳程の空間の中心にガラスケース一つが置いてあり、ピンスポットで照らされていた。まるで展示室のようだ、と思う。
 背後で扉が閉まると光源はそのスポットライトだけになり、視線は否が応にもケースへ向く。その傍で深桜さんが手招きしていた。
 近くに寄って見ると、中のものには見憶えがあった。どうしてここに、と首を傾げる。

「霞月ちゃんのところには、もういるかしら」
「はい、たぶん今頃ご飯の支度でもしてると思います」
「ああ、彼は料理上手だものね」

 しっとりした艶のある黒い鞘、深紫の下緒、鈍く光る黄金の鍔、同じ黒と金で彩られた柄。刀身は鞘に収まったままだが、その存在感は充分。
 これは、〝彼〟だ。
 でも自分のところで見る彼とはどこか違う。見た目は同じなのに、何かが違う。…空気だろうか?拒絶するような冷たさが漂っている。

「霞月ちゃん、この刀に技を揮ってみて」
「え、でもそんなことしたら…」
「予想してることは起きないから、大丈夫」
「…解りました」

 ケースの中で顕現してしまうんじゃないかと思ったけれど、何故かそうはならないと言う。それならばと、ケース越しではあるけれど、私は刀に向かって手を翳した。そして刀に意識を集中し、いつもやっているように技を揮おうとして――
 ブツン、と意識を切り離された。


 ―目を覚ました時、私は長谷部と対峙していた。それは本丸のどこかの一室で、灯りのない部屋の中に障子越しの月明かりが柔らかく射し込んでいた。状況が呑み込めないまま、〝私〟が口を開いた。

『本気なのかい、長谷部くん』

 その声は低く、決して自分からは発せられない筈の声だった。そうして混乱に陥る私に長谷部が答え、私はそれで、状況を理解した。

『ああ。―頼む、燭台切』

 これは、〝彼〟の記憶だ。どういうわけか私は技を揮おうとして、彼の記憶に入ってしまったらしい。その結果、燭台切光忠として彼の感覚を共有することになってしまった、ということのようだ。自分から光忠の声がしたのも、視界がいつもより高いのも、右目が見えないのも、私の意思では体が一切動かせないのも、彼の中から彼の世界を見ているからか。
 じゃあ感情はどうなんだろう。さっきまで感じていた混乱は私のだったのだろうけど、今感じているこの不安は、どちらのものなんだろう。
 すごく嫌な感じがする。胸の奥が不安と悲しみでざわざわしている。この先を見たくない。見たくないのにどうやって戻ればいいのか判らない。混乱と焦燥でじわじわと息が詰まる中、声が流れてくる。

『僕じゃなくて日本号さんに頼めばいいのに。君、彼と仲良くないんだろう?』
『そうだな、あいつなら遠慮なく俺を折ったろう。だが最期を選べるのなら、俺はお前の手で…、友の手で送られたい』
『…ひどいなぁ』

 こんな時に、〝友〟って言うなんて。

 いきなり何を――最期?送る?それを友に…?いや、友達には…友達なら、そんなことを頼んではダメだ。最期だなんて、どうして。未だだろう、死んでどうする。主命は、主は、もうどうでもいいのか。

『折れたら主命果たせなくなっちゃうよ?』
『俺がいなくとも、主命は果たされる。俺がいてもいなくても主はお前たちを率いて遡行軍を討つだろう。俺がいる意味は、ない』

 ああ、君にとって主命が…君の命でなくなってしまったのなら。そんなに疲れた顔で暗い望みに焦がれるなら。

 嫌だ。そんなこと言わないで。そんな悲しいことをそんな笑顔で言わないで。お願いだから諦めないで。未だだ、共に戦って、共に生きて―

『頼む燭台切。お前の手で、俺をあの方の元へ送ってくれ』
『他に…僕にやれることはないのかい?』

 友として。
 そんなことをさせないで。

『―ない』
『…わかった』

 頭のどこかで駄目だ、やめろと声がする。それを、これは彼が望んでいることだからと捩じ伏せ、彼の首に手を掛けた。
 折るのは容易ではない。だが斬ったのでは跡が残る。だから君が望む方法で、君を送ろう。
 彼が信じる神様、どうか彼を望む場所へ連れて行ってくれ。もう二度とこんな世界で目覚めることがないように。そしていつか、僕もその場所で会えますように。
 力を籠める程に苦しげに顔を歪ませ、体が力を失っていく。膝を付いてもその手は未だ僕の手を掴んでいて、放すことを許さないとでも言うようにそこに置かれていた。

『しょくだいきり…』
『なんだい?』
『もっと、つよく…、これ…では…、死ねない…』
『っ』
『が、あ』
『これでいい、かな?』

 違う。

『ああ……やっと…ながまさ、さ…ま……』

 違う、そんなことを訊きたいんじゃない。そんな言葉を聞きたいんじゃない。
 一言だ。一言〝やめてくれ〟と言ってくれたなら、すぐにでもその通りにするのに。潰れかけた喉で喘ぎながら、何でそんなに嬉しそうに。もう目の焦点も合っていないのに。ねえ。

『長谷部くん』

 もういいだろう
 もう十分だろう
 もうやめよう やめてくれ
 お願いだから

『しょくだい、きり』

 やめろ

『ありがとう』

 聞き取るのもやっとの掠れ声でそう呟いて、さいごまで僕の手を掴んでいた手が落ちた。

 だというのに、この手は未だ彼の首を絞めていて、少しも緩まなくて、どうしてと、なんでと、答える者はもういないのに問いだけが零れ落ちて―
 ぽたりと、雫が手の上を流れていった。
 それにつられるように手から力が抜けていく。
 そして何か硬い音がして、床に彼が倒れていた。

『長谷部くん?』

 揺すっても目は閉じられたまま。

 自分でしたことなのに現実を受け止めきれなくて、何度も呼び掛ける。圧し斬るとか言いながら起きてくれやしないかと。もう解っている筈なのに。
 そうやって未練がましく足掻いていたら、ぼんやりと彼の輪郭が薄れてきた。付喪神としての死が、消滅が、彼を景色に溶かすように消していく。

『待ってくれ、未だ駄目だ、いかないでくれ』

 いかないでくれ、頼むから
 お願いだ
 いかないで

 おいて いかないで

『だめだ、いくんじゃない、待ってくれ、待って―…! 長谷部!!』

 最期に笑ったまま、彼は消えていった。
 部屋の中には、ただ、月明かりと、僕だけがあって
 彼は もう どこにも

『あ、ああ…』

 そうだよ だってこの手が、僕が

『――ッ』

 ころしたんだから


『ああああああああああああああああああッ‼」


「霞月ちゃん!」

 景色はいつの間にか無機質な薄闇の小部屋に戻っていて、僕はガラスケースの傍に呼吸も荒くしゃがみこんでいた。涙が止まらないまま震える手を見つめる。素手なのに、黒い手袋が見えた。

「僕は、ぼくは…!この手で彼を、長谷部、を…ッ!」

 彼の首を絞めた時の感触が蘇る。喘ぐ彼の喉が、空気を吸おうと変な音を立てながらこの手の中で潰れていって。でも潰したのは、殺したのは―

「―っ」
「混ざっちゃダメ、霞月ちゃん。あなたは燭台切じゃない」

 あなたは誰も殺してない、しっかりして、と彼女は僕を強く抱き締めた。そのままゆっくり呼吸をするよう促される。でもうまくいかなくて、涙が彼女の肩を濡らしていった。深い悔恨に何もかもが焼かれていくようだった。心はぐちゃぐちゃに荒れて、訳が分からないままに涙が溢れてくる。
 どうして彼を殺してしまったんだ、踏み止まれたろう、これからも一緒に主を支えて…ああでもそうか。君はもうあの世界に絶望していた。望みもなくただ在ることは苦痛でしかないから、それならいっそ送ってやろう。あんなに悲しい顔で日々を過ごさせるより、彼が望む場所へ、彼が望む人のところへ。そう思った。
 でも嫌だ、死んでほしくなかった。殺したくなんかなかった。友達だって言うなら一緒に生きてほしかった。笑っていかないでほしかった。いかないで 一緒に もういやだ 僕もそこへ ひとりは 置いていかれるのは もう

「ごめんなさい、やっぱりあなたには刺激が強過ぎたのね」

 頭も心も壊れそうになる直前、誰かの声が聞こえた。その意味は理解できなかったけれど、労わるような憂うような響きが辛うじて意識を繋ぎ留めてくれた。
 それから、ゆっくりと、なだめるように背中を撫でていく手を感じた。何度も何度も。そのやさしさに、温かさに、不思議と呼吸が落ち着いていく。
 ぼやけた視界から月明かりが消える。肩越しの広くない薄闇が映る。
 彼女の腕の中で、もう夜気は感じない。この身は焦がれていない。
 背中を滑る手に合わせて心が少しずつ凪いでいく。喪失感も、痛みも、絶望も、少しずつ小さくなっていく。あの嵐のような感情は消え去ったわけじゃない、今も未だここにある。
 それでも、最後にただ一つ残ったこの感情だけは、彼のじゃない。

 その悲しみを抱いて、私は、彼を想い声をあげて泣いた。

 どれくらいそうしていただろう。
 夢中で泣いて、涙が止まる頃にはだいぶ落ち着きを取り戻していた。

「すみません深桜さん、羽織り、だいぶ濡らしてしまいました…」
「いいのよ、それより落ち着いた?」
「はい…」

 深桜さんは私が泣いている間もずっと撫でてくれていた。温かくて優しくて、まるでお母さんのようで。…まあ、それでまた泣けてしまったのだけど。
 洟をすすりながら顔をあげると、深桜さんが安心したように笑っていた。心配をかけてしまった、と思う。けど―

「深桜さん。私が見たのは何なんですか?あれは…本当に起きたことなんですか?」

 ケースの中の刀は依然として冷気を纏っていた。最初に感じたあの感覚は、確かに拒絶でもあった。でも今なら判る。この冷気は絶望だと。目を閉じてしまった彼の悲しみだと。

「…ええ。どこの本丸で起きたことなのかは判らない。けれど本当にあったことなの。この燭台切はあの日以来姿を消して、審神者が自分に技を揮う度、自分の最後の記憶をその審神者に見せる。霞月ちゃんが見たのは、彼の最後の記憶よ」
「何でこんな…光忠の記憶なんて…」
「霞月ちゃん、言ったでしょう?」

 長谷部が死んでしまったらどうする?
 戦いではなく自殺でこの世を去ってしまったら、どうする? って。

「正しくは自殺ではなかったけれど、それでも長谷部が死を望んだことには変わりないわ。この光忠の記憶を見せないままに〝長谷部が死を望んでる〟って言っても、きっと信じなかったでしょう?」
「それは…でも」
「ここの長谷部だけが死を望んだわけじゃないの。長谷部は…きっとどの本丸の長谷部も、あの世に焦がれてる」

 それぞれの本丸で、性格に少しの差はあれど、その刀剣の性質に違いは生まれない。であれば当然、光忠の記憶の中の長谷部が死を望んでいたのだから、他の本丸の長谷部もあの世に焦がれていることになる。
 でも何で。そんなこと、一言も言っていなかった。悲しいことなんて何もないと、つらいことなんてないと、そう言っていたのに。

「深桜さんは知ってるんですか?長谷部が死を望む理由を」
「…ええ」
「教えてください、何で長谷部は死を望んで…」

 不意に〝やっと、ながまささま…〟と呟く声が脳裏に蘇った。絶望した長谷部が望んだ、ただ一人の人物。

「〝ながまささま〟に会いたいからですか?この世を捨てたい程に?」

 また涙がじわりとしみてくるけれど、私よりずっと彼の方が泣きたかっただろう。
 友の願いを叶えて、同時に友を失った光忠。
 ただ永らえることに疲れて、あの世しか望めなくなった長谷部。
 彼らの方が、ずっと。

「―そう、黒田長政。織田信長が、長谷部を渡したと云われている人物。彼と共にありたくて長谷部はあの世を望んでる。……本当は日本号か長谷部から聞くのが正しいんだけどね。霞月ちゃん、長谷部から長政さんの話を聞いたことがないでしょう?」
「はい、信長公の話なら何度かありますけど、長政殿のことは…。日本号も未だいないですし」
「それなら知らなくて当然、かしら。主命と言われても話したがらないと思うから」
「長谷部が主命を拒む?長政殿は大切な人なんじゃないんですか?長谷部の性格なら、それ程に大切な人のこと、話してくれそうな気がしますけど」
「そうね、大切だった。…大切過ぎて、過去にできなかったんでしょう。だから―」

 忘れたいと願った

 忘れたいと願う程、良き主だった
 とても良い人だったから…死後も供をしたいと
 付喪神にもあの世があるのなら ついていきたいと 思う程
 でもそれはできないことだから、忘れることにした―と

「…刀剣男士にとって〝主〟という存在は特別だけれど、たぶん長谷部はもっと強い感情を〝主〟に持っているんでしょうね。だからこそ長政さんを失った時、彼は死に焦がれた。でも自分では死ねない付喪神だから、人より永い時の中にいるから、忘れることで凌ごうとした。忘れたいから、霞月ちゃんに話せない。忘れられなかったから、より強く焦がれてしまったから、件の長谷部は死を望んだ」
「そんな…!共にあれないから忘れたいだなんて、忘れられないから死を望むなんて、そんなの…悲しいです」

 長谷部の奥に見えた悲しみはこれだったのかと、この時やっと判った。長政殿を喪った悲しみ、それを私に言っても仕方ない。だから悲しいことなど何もないと言ったんだ。
 そうやって一人落ち込む私に、深桜さんは呆れを含んだ声で返した。

「他人事だね、霞月ちゃん」
「……深桜さん?」
「件の長谷部が死に焦がれた理由は長政さんにあるけれど、死に踏み切った理由は判ってないんだよ。そこの審神者が長谷部を虐げてたわけじゃない。酷く傷付けたわけでもない。だからこそ、死へ向かった理由が判らない。…ねえ、霞月ちゃん。もう一度訊くよ」

 唇が、にっこりと弧を描く―

「長谷部が死んだら、どうする?」

 笑顔なのに、笑ってない。怒ってる。
 でも。
 深桜さんの態度の急変よりも、怒られてることよりも、何よりも。〝それ〟が怖かった。怖いからその思考から無意識に目を逸らしてた。
 長谷部が、死んだら。
 ここに来る前にも聞いた言葉。真っ白になった頭で、その言葉だけがぐるぐると回る。他に何も考えられなくて、バカのようにただじっと深桜さんの目を見つめ返していた。
 光忠の記憶を見てからそれを考えなかったわけじゃない。むしろずっと考えていた。考えて、怖くて、蓋をしていた。でも今、その蓋は開いてしまって、止まっていた思考が溢れ出す。
 死なんか望むものじゃない。でも、一部の人―心あるものたちにとって、それは何よりも心惹かれる冀望となることがある。〝あの世に行けばあの人に会える〟という思考に取りつかれた時の〝死〟というものは、決して暗くない。むしろ会いたい人に会う為の標であり光でもあるように思える。
 もし長谷部があの時の私と同じようにこの思考に囚われているのなら、死を望むのも頷ける。そうまで焦がれるその人のところへ往かせてやりたいとも思う。―けど。
 長谷部が死んだら。私がつまらない意地を張って遠ざけていた所為で彼が傷付き、いなくなってしまったら。

「…いやだ」

 ぽつりと零れた言葉はそのまま真っ直ぐ落ちていって、私の知らない心に光を当てた。
 形あるものいつかは壊れ、命あるものいつかは死ぬのがこの世の定め。なのにどうして彼の忠誠が永遠などと思えただろう。明日にも、なくなってしまうかも知れないのに。
 今彼がいなくなってしまったら後悔しか残らない。それを、死をちらつかされるまで気付かないなんてバカにも程がある。今更後悔するなんて遅過ぎる。そんなの、自業自得でしかないのに。
 それでもいやだ。そんなのいや。死なないで。いかないで。死んじゃやだ、いかないで。置いていかないで。いやだ。もう、置いていかれるのは、寂しいのは―

 私は…知らないフリをしていた醜い執着を、自覚してしまった。

「いなくなってほしくない…死んでなんてほしくない…!私はそんなことさせる為に技を揮ってるんじゃない…! 私は、もう大切な人に置いていかれるのはいやだ!」

 涙声になりながらも、深桜さんの目を見て真っ直ぐ伝えると、彼女はふっと力を抜いた。そしてもう一つ質問を投げ掛けた。

「もう答えを聞いた気がするけれど…、それなら霞月ちゃん。未だ、長谷部は苦手?」

 ―私は、長谷部が苦手だった。

「もう、そんなこと思えません」

 彼の闇を、知ったから。
 私の答えを聞いた彼女は、漸く相好を崩した。

「良かった。これでも未だ苦手なら、本当に駄目なんだと諦めなきゃいけなかったわ」
「深桜さん、私に自覚させる為にこんなことを?」
「んー…そうね、大体は。荒療治でごめんね。でも霞月ちゃん、長谷部の話をする時厭な顔じゃなくてつらそうな顔をするから、嫌いじゃないんだろうなと思って」
「お見通しですか……って、大体は?」
「さあ戻りましょう、兼定たちをだいぶ待たせてしまっているわ」
「あの、深桜さん、他の理由が気になるんですが」
「こんのすけお待たせ、帰り道もよろしくね」
「お任せください」
「深桜さーん!」

 そうして悲しい記憶を持つ彼に別れを告げ、私たちは再びあの威圧的な廊下を進んだ。不思議なことに行きと同じ方向に歩いて…つまり戻っているのではなく文字通り〝進んで〟、エレベーターに辿り着いた。そして乗り込んだその箱の中で、深桜さんがゆっくりと唇を開いた。

「もしかしたらこれから先。感覚的に〝合わないな〟と思う刀剣男士と会うかも知れない。でも、だからと言ってすぐには嫌わないで。彼らは私たちより永くこの世にある、その分抱えてるものも沢山あるから…。博愛しろとは言わないけれど、でもせめて、彼らが抱えるものを知ろうとしてあげて」

 諭すようなその響きに、私は当然「はい」と返した。


「――そっちも気落ちして戻ってくるんじゃねえかと思う。あいつとお前んとこの主は似ているらしいからな」

 政府役員に帰還報告を済ませて戻ると、二振が何やら真剣な顔で話し合っていた。いつの間に仲良くなったんだろう。それとも兼定同士、本丸は違えど通ずるものがあるのだろうか。主がいない間に弾むような話題が、何か。
 そう思って足を止めるも、深桜さんがそのまますたすたと歩いていってしまい、結局続きは聞けなかった。

「ただいま、お待たせしたわね」
「おう深桜、戻ったのか」
「…ただいま歌仙、何だか仲良しだね?」
「主…おかえり」

 あれ、何だろう。歌仙が元気ない。いや、いつも元気よく迎えてくれるわけじゃないけど、いつも通りふわりと穏やかに迎えてくれてるけど、何か沈んでる。というよりこれは心配されてる?心なしか、ふわふわのアンテナも萎れてるような。何を話してたんだ、ダブル兼定で。

「歌仙、元気ない?どうしたの?」
「それは僕の言葉だよ。きみは大丈夫かい?」
「うん?大丈夫だけど」
「……兼定、話したわね?」
「おう」

 視界の端で深桜さんと和泉守が話し合ってる。私だけ仲間外れな気分なんだけど、いったい何があったんだ。相変わらず歌仙は心配そうだし。面越しとは言え、そうまで見つめられると恥ずかしいんだけどなぁ。

「私なら平気だよ、歌仙の方がつらそうに見えるもの。私がいない間に何かあったの?」
「…いいや、こちらでは何も起きてないよ」
「えっと…それなら何がそんなに心配なの?言っとくけど何でもない顔してても判るんだからね!」
「僕のことはいい、きみが―」
「よくない。不安になるから、隠さないで」

 憂いを、隠さないで。今は気になってしまうから。気付いていながら放置することを、したくないから。そう思ってじっと見ていると、歌仙がその口を重たく開いた。
 と、同時にきゃっきゃとした声が聞こえてきた。

「兼定、痴話喧嘩よ痴話喧嘩…!」
「おい止めとけ深桜、ああいうのは犬も食わねえぞ」
「何よ、そう言いつつ兼定も動向見守ってるじゃない」
「オレはあれだ、同じ兼定の誼でだな」
「いいわよね、仲良し。霞月ちゃんと歌仙さん、いい感じになってくれたら私が嬉しい」
「聞けよ」

 ……聞かなかったことにしよう。
 深桜さん、普段は心長閑で落ち着く人なんだけど。今はとても輝いてる。桜吹雪も見えそう。まさかこんな一面があったなんて。
 苦笑しながらちらと窺えば、歌仙も呆れた顔でふたりを見ていた。袖を引くとこっちを見てくれたから、帰ろうかと合図する。

「すみません深桜さん、私たち、先に失礼しますね」
「あらっ?そ、そう…。うん、そうよね。お疲れさま霞月ちゃん。またね」
「はい」


 しっかりとした足取りで会場を出ていく霞月を見送って、深桜は息を零した。あの子は大丈夫だろう、今はむしろ、あちらの歌仙の方が堪えているように見える。ちゃんと支えてあげてね、お互いに。深桜はそう心の中で呟いた。

「あんま無理すんなよ、深桜」
「あら、兼定が私の心配?明日は日本号が降るわね」
「怖ぇよ。そういう時に降るのは雨だろうが。…じゃなくてだな。お前、なーに考えてやがる」
「何って…そうね、今日の晩ごはん何かしらとか、明日本当に日本号が降ってきたらどうし―」
「お前がオレの方を見ようとしない時は何か隠してる時だ、って何回言やいいんだ。何抱えてる、オレに言えないことか」
「……、兼定」

 深桜はそこでやっと、和泉守の方を向いた。
 女性にしては身長がある深桜と高身長の和泉守が並ぶと、髪型と格好が似ていることもあって、傍から見れば兄妹のように見える。けれど今、その凛とした眼差しは泣きそうに揺れていた。

「私、霞月ちゃんに嫌われちゃったかしら」
「帰り際、お前の〝またね〟に頷いてたじゃねーか」
「兼定、社交辞令って知ってる?」
「お前オレを馬鹿にし過ぎだろ。あっちの審神者に嫌われるようなこと何かしたのかよ」
「あの光忠の記憶を見せて、自覚を促した」
「それで何で嫌われるんだ?」
「ちょっと苛ついて当たってしまったし、私があの子に記憶を見せた理由、全部は話してないのよ」
「その理由ってのも、あっちの長谷部が死なねえように、ひいてはそれであっちの審神者が悲しまねえように。だろ?」
「大部分はそう」
「小部分は?」
「いい加減あの子の長谷部嫌いがうざったく思えて一度ちょっと痛い目見た方がいいな、って」
「殆ど八つ当たりじゃねーか!でもまぁ、それ言ったところで傷付きはするだろうが嫌われはしねえだろ」
「えーん、そうかしらー。もし嫌われたらどうしましょう、ショックで私が泣きそうだわー。あの子妙に鋭いところがあるから実は気付いてたりして。うわーん」

 子供の泣き方を真似する深桜を、和泉守はげんなりした様子で見ていた。いい年して、とか思わない。一瞬思うがそれを口にしたが最後、瞬く間に組み伏されて締め上げられるだろう。深桜の柔術の腕は高く、こういう時の彼女の勝率は百を超える。負け戦に突っ込むようなことはしない。
 とはいえこのまま放置していても面倒くさいだけなので、早々に助け舟を出す。

「運がいいと言うか、かわいそうと言うか。気付いてなかったみてえだけどな。完全に信頼してるぜ、あの様子は。良かったな」
「本当?」

 途端にけろりとして「良かったー」などと笑う深桜である。こんな厄介な奴に気に入られて、かわいそうだな、あっちの審神者。と和泉守は思った。同じ深桜にいじられる被害者として、シンパシーを感じたのかも知れない。

「ところで何であっちの審神者に嫌われたくないんだよ」
「かわいいじゃない、小さくて、とことこ付いてくるし。私きょうだいがいないから、妹ができたみたいで楽しいのよ」
「妹ねぇ…。まあ、かわいいかは解らねえが、確かに小せえよな」
「かわいいのよ?今度よく見てらっしゃい。…私の周りにはいろんな人がいたけど、今まであんなサイズの子いなかったからもうかわいくて」

 異常な熱量を放出する深桜を見て、やっぱかわいそうだな、あっちの審神者。と一振勝手にしみじみとする和泉守だった。


 会場を出て本丸へ戻る道すがら、私は長谷部にどう謝ろうか考えていた。未だ私が見限られていなければ、きっと長谷部は許してしまうだろう。けど…、許されない方がいい。その方が自戒をしていられる。許されたら、甘えてしまう。
 そうやって深く深く沈みかけていた思考を歌仙が呼び戻した。振り向こうとすると頭に手を置かれて、そのままさらさらと撫でられる。

「え、え、あの、歌仙?」

 いきなりのことで何で撫でられてるのか解らないし、そもそも撫でられるなんて思ってなかったしで、軽い混乱状態に陥る。驚いて足を止めても、向き合っても、歌仙は手を止めなかった。その手つきは穏やかで労わるようで、私は恥ずかしく思いながらも徐々に安らいでいくのを感じていた。
 なんだか今日はよく撫でられるなぁと思ってそのまま撫でられていると声が降ってきた。落ち着いていて、少し沈んだ声。

「きみが何を見てきたのか、和泉守に教えてもらったんだよ」
「…そっか」

 だからあんなに不安そうにしていたのか。私が意気消沈しているんじゃないかと、それを隠して何でもない風を装っているんじゃないかと。―まったく、よく解ってくれている。
 事実、深桜さんがいなければあのまま光忠の心と同調して戻ってこれなかったかも知れない。そしてもっと沈んでいただろう。そんな私がいつもと同じように振る舞っていたら、それはまあ心配もするか。
 その心配を溶かすように撫でていた手は止まり、今はただ頭の上に置かれていた。温かさが心地好く沁みる。

「和泉守も実際に見たわけじゃなく、僕に至ってはその又聞きだ。僕が受けた衝撃なんて、きみが感じたものに比べれば些細なものでしかないだろう。…無理を、していないかい。主」
「――…」

 大丈夫、と答えるつもりだったけど、そう答えたらこの手は離れてしまうんだろうか。それはちょっと…ちょっとだけ、惜しい。だから「ごめんね」と呟き、一歩近付いてその胸に頭を預けた。結局手は離れてしまうけど、代わりに彼に触れている額が温かい。
 歌仙は一瞬驚いて体を強張らせたものの、拒絶はしない。

「―大丈夫…と言いたいんだけど、少しこうしててもいいかな」
「きみが素直なのは珍しいね」

 背に手が回されて、それを了承の意味として受け取った。
 こんなこと、他に誰も通る者のない次元の道だと知っていなければ絶対にやらなかった。でないと恥ずかしさで爆散してしまう。

「もうね、思いっきり泣いたから今は殆ど平気なんだ。だからそんなに心配することはないんだよ」
「…僕の主は無意識に溜め込む上にそれを隠そうとする困った人でね、僕は気苦労が絶えないんだよ」
「わあ、そんな人がいるんだ。世の中広いね」
「思ってるよりは狭いと思うけどね?主」
「ははは、大変だね」
「ああ、だが悪くない。稀にこうして表に出してくれるからね」
「…心配かけてごめんね、歌仙…」
「……主?」
「……歌仙、私はとんでもないことをしてきたよ。取り返しがつかないことを、ずっと」

 言わないでおこうと思ったのに、一度甘えてしまうと止められなかった。温かいと甘えたくなってしまう。誰かの温もりなんて、普段触れることがないから余計に。するすると口から弱い言葉が出ていく。
 主が、数多の刀剣を束ねる審神者がこんなことではいけない。しっかりしなきゃ、もっと心配させてしまう、不安にさせてしまう。それでも。

「死にたいと願ってるなんて知らなかった。死ぬ程に焦がれてるなんて知らなかった。知らなかったのなら仕方ない、では済まされないことをしてきてしまった。…私は、彼の死を後押ししていたのかな。彼の望みを強くしていたのかな?もう、ここにはいたくないと思ってしまっているのかな…!」

 収めたいのに、止めたいのに、誰かに弱いところを見せるなんてしてこなかったから、どう止めればいいのか判らない。歌仙の胸に額を押し付けながら、心のままに言葉が飛び出していく。

「いやだよ、そんなの。いなくならないで、死にに行ったりしないで…!誰も失いたくない、誰にも死んでほしくない!みんな、大切なんだ…みんながいないと、私は…!」

 そうして、自分の中の不安をすっかり吐き出してしまうまで止まれなかった。
 私の胸中を全て聞いたあと、歌仙は「それを伝えればいい」と言った。彼の手に従って顔を上げると、どうしてか彼は柔らかく微笑んでいた。こんな頼りない私に、失望する様子はない。

「きみに〝大切だ〟と言われて喜ばない者はあそこにいないよ。長谷部なんてその筆頭じゃないか。例え死を決意したあとだったとしても、その言葉で彼を連れ戻せる。きみの言葉だけで足りないようなら、僕も手伝うよ」
「どうやって?」
「文系なりのやり方で、さ」
「……ふふ、どうせ力任せでしょう、それ」
「おや。文系の底力を見縊らないでくれよ、主」

 ああ、いつの間にか心が軽くなっていた。笑った所為か、歌仙が励ましてくれたおかげか。今度こそ本当に〝大丈夫〟と言える。
 ありがとう。でも、新しい気掛かりが一つできてしまった。

「歌仙、あの……こんな弱い主でごめんね」

 もっとちゃんとみんなを支えられるようになるから。そう思って告げれば、俯きかけていた顔を、今度は両手で挟んでしっかりと上を向かされてしまった。笑顔は消えて、真摯な目が真っ直ぐ見据える。面をしているのにどうして過たず私を捉えられるのか。彼の揺らぐことのない視線が、目を逸らすことを許さない。

「さっきも言ったろう、僕の主は溜め込んだものを外に出そうとしなさ過ぎると。〝主〟というのは配下の使い方をよく知る者のことだ、何でも自分一人で片付けてしまう者のことではないよ。―もっと頼っていいんだ。悩みを、一人でどうにかしようとしないでくれ」

 甘えるのと頼るのは違うことだと、彼は言う。私には…その違いが未だよく判らない。けれど言ってることは理解できる。だから。

「ありがとう」

 と素直な気持ちを返した。そして体を離し、頬を挟んでいたその手を引いて本丸までの道を歩き出した。後ろから溜息交じりに「まったく、強情な主だ」とか何とか聞こえたけれど、聞かなかったことにしよう。

 それでもあなたはこの手を解かないから、私は安心して進めるんだよ―と心の中で呟く。
 今は未だ、私が悩みを相談できそうなのはあなただけだけど、それを言ったらきっとまた心配させてしまうから。悩みを打ち明けられる人数は、多くなくて構わないでしょう?
 と、そんないろいろを籠めて手を握れば、問い掛ける声が返ってきた。その声に何でもないよと答えて帰り道を進む。

 歌仙のおかげで向き合う覚悟が決まった。私は私の我儘を通す覚悟を。それが、長谷部が望まない結果となったとしても。
 私は誰も失いたくないから。
 どれだけ頼りなく揺らいでも、この手を放さないで支えてくれる者がいるから。だから、手遅れでないのなら、あなたの手を私が掴む。ここにいてくれるよう、手を尽くす。

 そう決めて、私は本丸の入り口を潜った。

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