天涙

雨が降り続いて、今日で一週間。季封宮で雨漏りが数箇所報告されたものの、大事には至っていない。
しかし民たちの生活はどうだろうか。
気になった私は調査官を数人伴って様子を聞いて回った。やはり雨漏りが幾つか報告されたが、幸いな事に大きな被害は出ていないようだ。
しかしこのまま降り続けば、作物に影響が出てしまう。
いったいいつ止むのだろうか、この異常降水には何か原因があるのだろうか、とそんなことを考えながら季封宮へ帰ってくると…
見慣れない格好の子供がいた。
年は十歳程度だろうか。若草色のゆったりとした外套を纏い、灰白色の豊かな髪を一本の三つ編みにして垂らしている。足元はすっきりとしていて、旅人のような印象を受ける。
きょろきょろと辺りを見回しているが、誰かを探しているのだろうか?もしかしたら親と逸(はぐ)れてしまったのかもしれない。
しかし、はたと気付く。
この子はどうやってここに入ってきたのだろう?
季封は周囲を結界で覆った清浄の地。許可無き者が入ることは許されない。
いや、入る方法が無い訳ではないのだが、しかしあの子が季封の結界を潜り抜けられる程の力を持った術者とは思えない。
やはり誰かと一緒にここへ入り、そして逸れた…?

そんなことを考えていると、あの子が振り返り、視線がぶつかった。
お互いに視線を外せないまま暫く見つめていると、不意にあの子が周囲を見渡し自分の後ろを見遣り、最後に自分を指差しながら私に小首を傾げた。

「あなたは何者ですか。」

予断なくいつでも刀を取れるよう、身体に緊張を走らせながら誰何する。
この距離なら一瞬で詰められる、相手が攻撃の素振りを見せても先手を取れる。―負けはしない。
しかし子供は照れたように『見付かってしまいましたか』と笑ったあと、膝を付き頭を垂れた。

「季封の地を治める主、玉依姫とお見受け致します。突然の訪問をお許しください。」

面を上げるように言うと、再び視線がぶつかる。
雨上がりの空のような、綺麗な青色の瞳をした少年は、“天涙”と名乗った――

「改めまして…お初にお目にかかります。私は闇御津羽神(くらみつはのかみ)を祖に持つ慈雨一族、名を天涙(てんるい)と申します。」

数刻後、神謁殿に集まった私たちを前に、天涙様はそう自己紹介した。
幼い見た目にそぐわずその立ち居振る舞いは落ち着いていて、内に重ねた齢を感じた。

「慈雨一族…ってことは雨のカミか!」

そう喜色を示したのは胡土前様だ。
胡土前様の問いに、天涙様は笑顔を以って“はい”と答えた。

「その通りです。雨の一滴一滴が私の力、そして私の一部。」
「うわ…なんかそう考えるとすごいな、季封中に降りしきる天涙殿…」
「秋房、言葉に気を付けろ。」
「構いませんよ智則殿。それに秋房殿、そして皆様も、私のことはどうぞ“天涙”とお呼びください。」
「え、何で俺たちの名前を…」

天涙様は目を細め、智則、秋房、私の順に見たあと、驚くべきことを述べた。

「智則殿、秋房殿、それに姫君。私はあなた方の幼い頃を知っていますから。」

幼い頃…いったいどういうことだろうか、いやそもそも幼い頃とはどの辺りを指しているのだろう。私が玉依姫になる前?それともなった後?
もしかして、儀式のことも…【巫の渡】のことも知っているのだろうか。ふと脳裏に蘇る、青い空に白く輝く雪、赤く染まった私の手…
ぐるぐると回る思考を抑え、何とか言を継ぐ。

「それは…いったいどういうことでしょうか。私たちは天涙様とは初対面の筈ですが。」
「そうですね、こうして顔を合わせるのは初めてです。私が一方的にあなた方を知っていただけのこと。」
「貴様、何を知っている?」

空疎様が天涙様を睨みつけるのと同時に、場が俄に殺気立つ。
秋房と智則が私をかばうように前に進み出で、幻灯火様、古嗣様、胡土前様がその左右に控える。
一触即発の空気―些細なきっかけで、すぐ戦いに発展してしまうだろう。

「私は……何か禁句を発してしまったのでしょうか?」

悲しそうに顔を曇らせた天涙様はどこか苦しそうでもあった。

「私が憶えているのは、楽しそうに野山を駆けるあなた方の姿と、それから数年後…どこか無機質な日々を送るあなた方の姿。この二つです。他は何も知らないのですが…でも確かに、見知らぬ者に“あなたの過去を知っている”などと言われて良い気はしませんね。」

“考えが至らず申し訳なく思います、軽はずみな発言をどうか許してください。”
そう言って土下座をする天涙様を、私は困惑しながら見つめていた。
皆はまだ変わらず疑惑を以って彼を警戒していたけれど、少なくともこの方の言には嘘も敵意も無いように思われた。ただ、私が勝手に反応してしまっただけ。
もう【剣】は無いのだし、檻からも開放された筈なのに、心は未だ記憶に囚われている。これではいけない。
静かに深呼吸し、気を落ち着ける。

「いえ……いえ、天涙様。私が勝手に思い過ごしをしただけなのです。どうかお顔をお上げください。」

顔を上げた天涙様はどこかほっとした顔をしていた。皆も警戒を解き、私の周りに控える。

「良かった、私はまた期せずして誰かを傷付けてしまったのかと…」
「また?」
「ええ、以前にもあったのです。何気なく発した私の言葉が、大切な方を傷付けてしまった。……古い記憶です。」

一瞬、天涙様の瞳が暗く翳ったけれど、すぐに穏やかな笑みに取って代わった。

「しかし天涙殿、あなたは二度この地を訪れたと言っていますが、ここは結界に覆われています。それはどうやって解いたのですか?」
「私は雨そのものですから、いくら結界と言えど雨を阻むことはできないでしょう?」
「なるほど…それで結界を通り抜けたのか…すごい力だな。」
「とは言え、こうして人の形を保てるのは雨が降っているところでだけ。万能ではないのです。」
「それでも十分すごいと思うな、結界が効かないということなんだし。」
「あの…ところで天涙様、先程私があなたを見付けた時、どなたかを探していらっしゃるようでしたが…?」

半ば強引に話を戻す。確かに結界の件も気にはなっていたけど、ともすればこのまま話が脱線しかねない。

「実は…会いたい方がいるのですが、所在が掴めず…」

曰く、この季封の山に棲む風のカミと友人なのだが、棲処に寄ったところ大変荒らされており、姿を消してしまっていたとのこと。
残る微かな気配によると最近までいた筈であり、力の及ぶ限り捜索してみたものの、それらしい気配が見付からない、ということらしい。

話す内に天涙様はしょんぼりとうなだれ、心なしか三つ編みも萎れている。何だか大きさも幾分、小さくなっているような。
その様子があまりにも可哀想で…、気が付いたら私は彼の頭を撫でていた。

「!」
「!」
「!」
「!」
「!」
「!」

皆が驚く気配を背中に感じ、私の手が止まる。手の下から空色の瞳が私を見つめていた。

「あ……も、申し訳ありません!」
「あたたかい…」
「つい手が……って、はい?」
「姫君は、温かいのですね。」

柔らかに笑まれて、私は頬に熱が集まるのを感じた。
可愛らしいお顔立ちなのに、こうして近くで見るとどこか大人びた雰囲気も感じられて、思わず目を惹き付けられる。

『…燃やす。』
『…切り裂く。』
『落ち着けお前ら、気持ちは解るが。』
『…羨ましい。』
『…羨ましいね。』
『ああ、うらやまし…って違う!秋房に古嗣殿、しっかりしてください!』

後ろで皆が小声で何か話しているようだけれど、私には聞こえない。しかし異様な殺気だけは異常に伝わってくる。

「ふふ、皆様ご安心を。私は姫君をどうこうしようとは思っていませんよ。」
「て、天涙様?!何を?!」

背後の殺気が増したような減衰したような。

それから、何故か天涙様を燃やそうとする幻灯火様や風を纏った空疎様、斬り掛かろうとする秋房と一悶着あり…
それでも何とか皆が落ち着いた頃。

「つまりあれか、俺たちにその知り合いを探すのを手伝って欲しい、ってことだな。」
「え…?」
「おや、違うのかい?僕はてっきりそうだと思っていたのだけど。」
「…情報を、誰か持っていないかと思いまして…彼女にまつわる話を聞ければ、それを元に私が探そうと考えていました。」
「ここまで話を聞いたのだ、迷惑でなければ私たちも協力して探そう。」
「迷惑だなんてそんな…ありがたい話です。……あ、あの、空疎殿!」

天涙様は一つ深呼吸すると、意を決したように空疎様へ話し掛けた。空疎様は怪訝そうに顔をしかめ、“何だ”と聞き返す。

「気吹(いぶき)姫、と言う名に心当たりはございませんか?!」
「気吹姫…?いや、無いな。というより貴様は何をそんなに緊張しているのだ。」
「はっはっは、珍しいな鴉。お前が子供に怯えられるなんてよ。」
「何?」

空疎様が改めて天涙様を見遣ると、天涙様はびくりと肩を震わせた。確かに怯えている。
珍しい。空疎様は子供との相性は決して悪くない方なのに。

「うん、天涙はきっと空疎の本性を見抜いてるん……うぉぉおおおおおおおおおお?!!」
「秋房?!」
「ふむ、恐ろしい突風だな。」
「空疎、たぶん君がそういうことするから天涙は怯えるんじゃないかと思うんだけど。」
「………。」
「完全に怯えていますね…。」

天涙様は今や最初に座っていたところから三歩程下がったところに鎮座していた。
肩を竦ませながらこちらの様子を窺う様は、どこか小動物を思わせる。

「しかし本当に珍しいな、今まで空疎に懐かなかった子供はいないだろう?」
「あ、あの、皆様私を子供と仰いますが、私はこれでも結構な時を生きているのですけれど…」
「ならば堂々としていろ。我とて、何もいきなり貴様を空の彼方へ吹き飛ばしたりせん。」
「さっき“切り裂く”とか言ってた奴の言葉じゃあねえな。」
「黙れ。」
「安心しろ、天涙。空疎はこう見えて子供には優しい男だ、少しばかり短気で口が悪いだけなのだ。」
「貴様…」
「空疎殿、抑えてください。話が進みません。」

秋房が帰ってくると天涙様も落ち着いたのか、元の位置に戻って話しはじめた。

「取り乱してしまって申し訳ありません。実はここ最近皆様の様子を探らせてもらっていたのですが…空疎殿が風を操ると聞きまして、それで気吹姫のことを何か知らないかと…。しかし空疎殿は古嗣殿と睨み合ったり幻灯火殿を叱りつけたりなどしていて、その時の様子があまりに印象強く…」
「あの場を見ていたのか?いやしかし、お前はあの部屋にいなかっただろう?」
「あの時感じていた視線、あれは天涙が僕たちを見ていた時のものだったんだろうさ。」
「覗き見とは…、変態なカミもいたものだ。」
「申し訳ありません、どうしても気吹姫の手掛かりが欲しくて…、でも人の形で訊き回っては時間が掛かりそうだったので。」
「ではお前はいったいどうやって私たちの話を聞いていたのだ?」
「この雨は私の力であると同時に私自身でもありますから。」

笑顔で言っているけれど、それはとんでもないことなのでは…
つまり雨の及ぶ範囲全てに視界が及ぶということであり、そしてその力を以ってしても気吹姫を見付けられなかったということは―

「天涙殿、その気吹姫とやらは本当にここにいるのですか?」

智則も同じことを考えていたようだ。
見れば智則だけではない、皆も難しい顔をして黙っていた。……唯一、秋房だけが質問の意図を飲み込めずぽかんとしていたけれど。

「それは間違い無い筈です、彼女はこの地を気に入っていますから。“どれだけ遠くまで行っても必ずここに帰ってくる。”と言っていましたし。」
「それだけこの地を気に入ってくださるというのはとても喜ばしいです。しかし私も気吹姫という方は見たことがありません、普段はどの辺りにいらっしゃる方なのですか?」
「この宮から南東の山中…崖と森に囲まれた、美しい泉に棲んでいる筈なのですが…」

この宮から南東の山中、崖と森に囲まれた美しい泉…?

「気吹姫は最近そこで何者かと争ったらしく、木々は薙ぎ倒され、地は所々穿たれ、泉は無事だったものの凄惨な有様で…」

泉は無事であるものの、その付近の森の木々が倒され、地面には穿たれた跡…

「争いを嫌う彼女が誰かと争うなど考えにくいのですが、しかし他に彼女があの泉を離れる理由が思い付かないのです。」
「天涙様…その泉というのは、崖の中腹から流れ落ちる滝の先にある泉のことですか?」
「ご存知なのですか?!」
「知っているというか……」

ちらりと空疎様と胡土前様を見る。空疎様は腕を組んだまま目を閉じているし、胡土前様はばつが悪そうに目を逸らしている。

「教えてください、彼女は、気吹姫は、生きているのですか!?」

身を乗り出し迫る彼はとても必死で――知り合いを心配するというよりは、もっと身近で大切な者を想う…

「すまねえ、天涙。気吹姫が生きているかは判らねえが、その争った跡ってのは俺と空疎が作ったやつだ。」
「なっ……」
「一週間程前か、我と蛇がその泉の近くで少々派手に暴れてな…。しかし、あの時あの場に我ら以外カミの気配はしなかったぞ?」
「空疎様、そういう問題ではありません。」

天涙様はただただ驚きに目を丸くし、二の句も継げずに固まっていた。握られた拳が膝の上で震えている。
もし気吹姫が天涙様にとって単なる知り合いではなく、とても大切に想う方で、その方が私たちの所為でこの地を去ってしまったのだとしたら―
私たちは取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。

「申し訳ありません天涙様、気吹姫が去ったとしたら恐らくその時なのでしょう。しかし彼らが争ったのも元を糺せば私が原因、どうか彼らをあまり責めないでください。」
「……詞紀様、季封の主とも言うべき御方がそう簡単に頭を下げてはいけません。どうぞ面をお上げください。」

少しの沈黙の後、天涙様はそう言って私の肩に手を置いた。ひやりとした、冷たい手。
見上げると、彼は優しく…泣きそうな笑顔で私を見ていた。

「私は、怒ってなどいませんよ、姫君。むしろその逆です。これ以上無い程に安心しているのです。」
「安心?」
「あの森で争ったのは空疎殿と胡土前殿で、気吹姫ではないのですよね?」
「ああ、それは間違い無いぜ。」
「では……では、彼女は…生きているのですね?あの場で戦い、死んだ訳ではないのですね…?私は、彼女が死んでしまったのではないかと、そればかり……!」

ぽろぽろと涙を零しながらも天涙様は笑顔を作るけれど、涙はあとからあとから溢れてくるようで―
ついには両手で顔を覆い、人間の子供と同じように泣きはじめてしまった。
“良かった…本当に良かった…”と繰り返す天涙様を、私はただ撫で、傍に控える皆も今度は殺気など出さず、どこか温かく見守っていた。

もし私に弟がいたらこんな感じなのかな、と少し不謹慎なことを考えつつ、その日の午後は緩やかに過ぎていった……

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