標をなくした男
其の人は泣いていた。
誰にも気付かれぬようひっそりと、おそらくは自分でも気付かぬ裡に。
その涙を止めたいと願った。瞬く度にはたはたと落ちる涙を、その煌めきを、別の耀きに変えたいと。
私は、其の人の笑顔に救われていた。彼女の愁いない咲くような笑顔に、ただただ救われていた。
何故、彼女に憂いが無いと思っていたのか。その胸にあるのは耀きだけだと思っていたのか。
その胸に巣食う悲嘆が、彼女の胸を詰まらせていると、何故気付けなかったのか。
煌めきを残し消えた涙を目にしてから、私は彼女の笑顔を見る度苦しくなった。
何故笑えるのか。何故そんなにも明るく振る舞えるのか。
何故―何も話してくれないのか。
そうしてまた、影で涙を流す彼女を見た私は、堪らず問いかけた。
答えは拒否であった。彼女は懸命に笑おうとし、涙を落としながらも緩く首を振った。
「貴方を巻き込むわけにはいかないから。」と。
優しい人だと思った。そして残酷な人だ、とも。
ならば、と。
苦しみを共に負うことが許されないのであれば、せめて彼女に伝えたい。
貴女の往く道を案じていると。そしてどうか…、どうか笑顔で―
私の腕の中で俯く彼女は華奢で、数多の苦しみがここに詰まっているのだと思うと、悲愴感と無力感とで私は気が狂いそうだった。
彼女は「ありがとう」と呟くと、そっと体を離した。
それが別れの言葉だった。
共に在ることが許されないのだとしても私は―
貴女の選ぶ道の先、貴女の心が安らかであることを希う。
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