黄金色の夕日
「こっち!」
そう言って幼い玉依姫―道満の不完全な術によって玉依姫を継承する前の姿に戻されてしまった詞紀は、綾読(あやよみ)と智則の方へ駆け寄った。
「私たち、ですか…?」
顔を見合わせる綾読と智則。
神産巣日神が彼女を元に戻す儀式の準備をする間、彼女を守る五人の守護者たちは、彼女と遊ぶ組と不逞の輩を足留めし彼女を守る組とに分かれることになった。
幻灯火と秋房の二人か。古嗣、胡土前、空疎尊の三人か。彼女自身にどちらの組と遊びたいのか選んでもらい、選ばれなかった方は足留め組となる。
ある意味運命の一瞬とも言える瞬間、彼女が選んだのは守護者たちではなく、近くにいた綾読と智則なのであった。
正直、守護者たちよりも自分たちが選ばれるとは考えにくいのだが…選ばれてしまったことに変わりはない。
それは守護者の五人も同じ考えのようで…
『やはり秋房では魅力が足りなかったか…』
『何で俺の所為にしようとしてんだよ!というか智則に負けた…』
『うーん、お菓子だけじゃ駄目だったか…』
『小さい姫さんに俺の魅力は早すぎたか?…綾読、姫さんを頼んだぞ。』
『馬鹿な、玉依姫が我を選ばないだと…?』
などと、思い思いに傷付いている。
「どうやら大役を頂戴してしまったみたいですね。玉依姫、何をして遊びたいですか?」
「えっとねー」
「ちょっと待ってください綾読殿。申し訳ありませんが私にはまだ仕事が残っていますので…」
綾読殿と一緒にいるなら貞繁殿もアテルイ殿も妙な気は起こさないだろう。そう判断して退室しようとした智則を、友の声が止めた。
「待てよ智則、姫様がお前と遊びたいって言ってるのにそれはないだろ。」
「…そうは言うがな、今片付けねば仕事は溜まるばかりだ。俺の怠慢で大火祭に不祥事など起こってみろ、そっちの方が姫が悲しむだろう。」
俺だって姫と共にいたいとは思う。しかし人には役割というものがある。
今、姫に少し寂しい思いをさせたとしても、それが後の大きな喜びに繋がるのなら。俺は俺の為すべきことをしよう。
「智則、君の言うその仕事は、僕らではできないものなのかな?」
「俺らでできるものがあれば代わりにやるぜ?姫さんに寂しい思いをさせてやるな。」
「古嗣殿、胡土前殿…」
「我を差し置き、玉依姫は貴様らを選んだ。気は進まんが貴様が負う仕事程度、我が片付けてやろう。」
「智則、玉依姫を悲しませるのであれば私は容赦しないぞ。」
「空疎殿、幻灯火殿…」
「ほら智則、皆もこう言っているんだし、俺たちを頼ってくれよ。それで姫様が笑ってくれるなら、俺たちだって嬉しいしな!」
「秋房…」
智則は胸に温かいものが広がるのを感じた。皆、姫を喜ばせたいのは同じなのだ。
ならばここは言葉に甘えよう。
それにしても、皆が皆仕事を代わりにやってくれると言うが、それではいったい誰があいつらを止めに行くというのか。
苦笑しながらも智則は彼らに礼を述べた。
「ありがとうございます皆さん。それでは空疎殿と古嗣殿、お任せしてもよろしいでしょうか?」
「もちろん。」
「仕方あるまい、頼まれてやろう。」
「残りの方々には、周りの警護を。」
「心得た。」
「任せときな。綾読、姫さん泣かせんなよ?」
「それじゃあ智則、姫様を頼んだぞ!」
皆そう言って笑いながら神謁殿を出て行った。
後に残された綾読が玉依姫と手を繋ぎながら近付いてくる。綾読は面をしているので表情が読めないが、どこか安心しているように思える。
「おはなしおわったー?」
「はい、お待たせ致しました。何をして遊びましょうか?」
小さい玉依姫の視線に合わせてしゃがむ。
きらきらと輝く大きな紫紺の瞳、ふっくらとした頬、つやつやの唇に、顔の横に程好く掛かり輪郭を形作る黒髪。
先程皆も言っていた通り、とても可愛い。この子の笑顔が見られるなら、何だって頑張れる、そんな気さえしてくる。
やがてその大きな瞳が弧を描く。
「おりがみ!母様からおそわったの!」
「折り紙ですか…それなら私の部屋に行きましょうか、あそこなら紙がたくさんありますからね。」
「僕、折り紙初めてです。楽しみだな。」
御機嫌な玉依姫と、同じく何故か御機嫌の綾読を連れ、智則は自室へ向かう。
途中視界の端に幻灯火やアテルイが映ったが、見なかったことにして宮中を歩くこと一刻半。
自分の部屋は書物で溢れかえっているので近くの客間に二人を待たせ、紙だけを持って再び客間へ。
折り紙をするのは初めてだと言う綾読に手解きをし、うまく折れないとぐずつく玉依姫を宥めながら一緒に鶴を折る。
三人の間を少し熱気を含んだ風が吹き抜ける。
思い返せばここのところずっと政務に追われていて、心を休める時間を取れていなかった。
――久し振りに味わう、穏やかな時間。
手先の器用な綾読は智則から教わったことを要領よく吸収し、もう一人で幾つもの折り紙細工を作っていた。
紙でできた小さな花を贈られ、歓声を上げる玉依姫。
その笑顔に、智則も綾読も自然と笑顔になった。
折り方を教えてと言う玉依姫に、今度は綾読が彼女に手解きをする。
恐らく完成、未完成品含め幾つもの花が作られるだろうから、その間に花を入れる籠でも折ろうかと顔を上げた時、廊下の向こうに誰かの姿が見えた。あれは……
「どうかしましたか?智則さん。」
「綾読殿…申し訳ありませんが少し庭の方を見てきてもらってもいいですか?」
「庭、ですか?」
「ええ。見間違いでなければ、道満殿がいました。」
「道満さんが…解りました。玉依姫の姿を元に戻せないか聞いてきます。」
それは恐らく無理だろうな、と考えつつも口には出さない。
玉依姫から“いってらっしゃい”と笑顔で差し出された花を受け取り、綾読は庭先へと出て行った。
「あやよみ、あしがはやくて、せもおおきくて、かっこいいね!」
「そうですね、大蛇一族の方はきっと背の高い一族なんでしょう。」
「とものりもおおきくなってる、かっこよくなったね!」
「ふふ、ありがとうございます。」
この歳の男の標準身長には届いていないが、今の玉依姫から見れば十分高いのだろう。
自身の身長を少しだけ気にしている智則にとって、中々に嬉しい言葉だった。
今からの成長は見込めないが、諦めないこととしよう。そう密かに思った智則だった。
「智則、ここにいたんだね。」
二人で綾読の帰りを待ちながら花を量産していたら、客間に入ってくる者がいた。
「どうしました古嗣殿。」
「ちょっと君じゃないと片付かないものが出てきてしまってね…申し訳ないんだけど一旦こちらに来てもらえないかな?」
「もちろんです、と言いたいところですが、姫をお一人にする訳には……」
「だいじょうぶ!おるすばんできるよ!」
「姫…」
「お姫様を連れて行けばいいんじゃないかな?」
「それは少し難しいかも知れません。古嗣殿も先程まであそこにいたなら解るでしょうが、あそこは忙しなく、時折怒号も飛びます。この時季は特に、殆ど皆自分のことで手一杯なんです。…道満殿なら容易に姫を攫えてしまう程に。」
「……そうだったね。」
「姫、私は少しの間お傍を離れますが、すぐに戻りますのでご安心ください。」
「うん、はやくもどってきてね。」
「はい。…もし、誰もいなくて心細くて、助けてほしい時があったら名前を呼んでください。」
そう言って、玉依姫に作ったばかりの折り紙の花を握らせる。
「これを握って、私でも、綾読殿でも、誰でもいいです。助けに来てほしい人の名前を呼んでください。」
「わかった!いってらっしゃい、とものり!」
玉依姫の笑顔に見送られ、智則は客間を後にした。
気を引き締め、少し足早に廊下を進む。
「ところで綾読はどうしたんだい?」
「綾読殿には道満殿を追ってもらっています。先程庭の方で姿が見えたので。」
「なるほど。…それにしてもいっぱい折ったんだね、その花。」
智則の手の中にある紙の花、これには術が掛かっている。
玉依姫が智則を呼んだら、この花が彼女のいる方向を示してくれるのだ。
自分を呼んだ場合は、その者の近くの花か紙が反応する。
「姫が気に入りましたから。」
そう穏やかに微笑む智則を、古嗣は珍しく思って見ていた。
…………。
……。
智則も綾読もいなくなって、玉依姫は部屋で一人折り紙をしていた。
母様が教えてくれた、鶴の折り方、風船の折り方、山や船、折り紙で作れる世界。
でもその手はすぐに止まってしまった。
一人はつまらない。
さっきまで智則がいた。綾読がいた。
前に折り紙をした時は母様がいた。
母様はどこへ行ってしまったんだろう?
「そうだ、母様をさがしにいこう。」
玉依姫は客間を出た。紙の花を一輪、胸に抱いて。
…………。
……。
最低限の政務を片付け客間に戻った智則が目にしたのは、大量の紙の花が積まれた誰もいない空間だった。
「――ッ!!」
「智則さん?どうしたんですか?」
一瞬混乱と焦燥とに陥りそうになった智則を、頭上から降ってきた声が引き留めた。
振り返ればそこに綾読が立っていた。近くに道満がいないから、逃がしたか誤魔化されたかのどちらかだろう。
綾読に状況を説明しながら自分も脳内で情報を整理するが、如何せん手掛かりが無い。
「あなたの持つ花にも呪いを掛けました、これで姫があなたを呼んだ場合、この花が姫の場所を示してくれます。」
「智則さん、同じ呪いをこれらにもお願いします。」
綾読の手の中には紙の花が五つ。
「皆さんにも手分けして捜してもらいましょう、その方が早いです。」
「しかし、騒ぎを大きくは…」
「そんなことを言っている場合ですか!!大切な人なんでしょう!!?」
その一言が智則の中で熱を持つ。
そしてその反対に頭は冷えていく。
「………。」
「智則さん!!」
「すみません綾読殿、気が動転していたようです。」
一度深呼吸をし再び目を開けた智則の瞳には―いつもの怜悧な光が宿っていた。
手早く五つの花に呪いを施しながら薄く笑う。
玉依姫の側仕えともあろう者がこれではいけない。…秋房を笑えないな。
「呪いを施しました、空疎殿と古嗣殿には私が渡しに行きます。綾読殿は秋房たちにお願いします。」
「任せてください!」
「姫を……見付けましょう、必ず。」
…………。
……。
春香殿にも、冬師殿にも、庭にも…宮には母様はいなかった。
お山で木の実を取っているのかとも思ったけど、どこにもいない。
「母様、どこ…?」
いつも傍にいるって言ってたのに…
「母様いない…」
もうすぐ日も暮れる。
母様はいない、誰もいない。自分一人だけ。
「う…」
泣きそうになるのを堪えて胸を押さえると、胸元で何かが“くしゃり”と音を立てた。
紙でできた一輪の花。
『…もし、誰もいなくて心細くて、助けてほしい時があったら名前を呼んでください。』
脳裏に蘇る幼馴染の声。
助けてほしい人の名前を呼んで――
「とものり、とものり!」
じっと耳を澄ませても、聞こえてくるのは風の音だけ。
遠くに宮が見える。智則はあそこにいるのだろう、こんなところで呼んでも届きはしない。
「わたしひとりだ…だれもいない……だれもこない…」
目に涙が溜まっていくのを止められない。ついにはしゃがみこんで泣き出しそうになった時―
「私がいますよ、姫。」
夕日を背に受け立つ幼馴染がそこにいた。
「とものり…」
「お待たせしてしまって申し訳ありません。どこか具合が悪い所などはございませんか?」
自分と目線を合わせてしゃがむ智則は、むしろ自分よりもずっと泣いているように見えた。
「とものり、母様がどこにもいないの、いっしょにさがして!」
「………記憶が、玉依姫を継承する前に戻ってしまっているのか…」
「とものり?」
「…卯紀様は…あなたのお母様は、今は遠い所にいらっしゃいます。」
「いつかえってくるの?」
「暫くは…まだ。でもいつの日か、必ずあなたを迎えにいらっしゃるでしょう。」
「母様…」
零れそうになる涙を、智則が指先でそっと拭う。
「いつか卯紀様があなたを迎えに来るその時まで…俺があなたを支えます。あなたの傍で、あなたの仕事を、あなたの心を。」
「とものり…」
「あなたが笑っていてくれること、それが俺の望みです。あなたの心が誰に沿おうとそれは…、それだけは変わらない。」
あなたが笑顔でいられる未来の為なら、俺はこの命すら―…
その言葉はさすがに飲み込んだけれど。
「俺は、あなたがとても頑張り屋でとても強く…泣き虫だって知っている。あなたがつらい時、悲しい時、寂しい時、俺はあなたの傍であなたを支えよう。」
だから―と言を繋ぐ。
「笑ってくれ、詞紀。」
幼い玉依姫は、彼の言った言葉の意味全てを理解はできなかっただろう。
それでも彼の気持ちは十分に伝わっていた。
二人は夕日の中で互いに微笑みあっていたのだから――
…………。
……。
見慣れた天井が視界に入る。ここは春香殿の私の部屋だ。
「目を醒ましたか、玉依姫。」
「姫、お気付きになられましたか。」
「神産巣日様、智則…」
ゆっくりと身を起こす。私はどうして寝ているのだろう?
確か大火祭の為の食料を確認していて、そのあと驚く程美しい殿方に声を掛けられ、それから…
それから、どうしたのだっけ?
「あの、何故私は寝ているのでしょう?」
「ふむ、やはり記憶は失われているか…」
「少々働き過ぎたのでしょう。祭りも近いことですし、今日はそのままお休みください。」
「智則」
部屋を出て行こうとする智則を、私は無意識の内に引き留めていた。
「如何しました、姫。」
「ありがとう、智則。傍にいてくれて。」
そう笑顔で言う私に、智則は一瞬驚いた顔をしたけれど――すぐに同じ笑顔を返してくれたのだった。
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