告解(改稿)

 ふと白いものが視界の端に映り、振り向けば吐く息よりも尚白い風景が目の前に広がっていた。
 遠征に出る頃に降り始めた雪は戻った時には止んでいて、二月らしい雪化粧が城に施されていた。
 今は地を撫でる風にその欠片を散らし、月明かりを受けて昼よりも明るく庭を照らしている。先程視界に映ったのはこの風で巻き上げられた一欠片だろう。見上げれば空は綺麗に晴れ、月が煌々とその光を注いでいた。
 黒、白、藍の世界。寝静まった本丸は実に粛然としていた。
 雪が音を消してしまうのか、何の音も聞こえてこない…と思ったのだが誰かが起きているらしい。厨の方から僅かに物音がする。こんな時間に起きている者と言えば、例によって酒飲みのあの大太刀ぐらいだろう。

 そう言えば、いつだったか今日のような夜に主と次郎太刀が飲んでいた日があった。
 主は綿毛の姿でどうやって飲むのかと思ったが、食事の時と同じように、口にしたいものの上に浮かぶだけで飲食していることになるらしい。だが思い返せばそうか、普段の食事の際もそうやって飲み物を飲んでいた。次郎太刀曰く、猪口に注いだ酒もいつの間にか空になっていたと言う。
 あの時はふたりとも上機嫌で酒を飲んでいた。次郎はいいとして、主には風邪を引いてほしくない。〝どうか程々に、風でお体を冷やされないようお気を付けください〟と進言すれば、主はただ―

「解った、気を付けよう」

 とだけ答え、後は黙ってしまった。それまでの上機嫌もどこかに消え、ついには次郎にまで「アンタが来ると主が沈んじゃうからどっか行った行った!」と言われる始末。

 ―解っているのだ、自分が主に好く想われていないことなど。それでも主は俺に使命を、それを果たせる力を、自分で自由にできる体を与えてくれた。どうして嫌いになれよう。
 主にどう思われようが俺は主に忠義を尽くし、御守りするのみ。立ちはだかる者がいるなら斬り伏せる。主命とあらば何でもこなしてみせる。そう思っている。そう、思ってはいるのだが。

 胸の奥が軋むのは何故だ。

 加州清光のように愛を求めていないし、大倶利伽羅のように孤立を望んでいるわけでもない。
 だが主が俺と話した後…最近では俺を見掛ける度、厭うように顔を伏せるのを見るとどうしても胸が絞まる。
 やはり…嫌われたくない、ということだろう。
 主は何故俺を嫌うのだろうか。無自覚に何か気に障ることをしてしまったのなら解るが、それならそうと言うだろう。あの方はそういう方だ。
 …一度、主は俺を〝悲しい〟と評したことがあったが、もしやあの時の返答がいけなかったのか。悲しい目をしている、何かあったのか、と問われ、何もないと答えたが…あれが原因なのか。だがあなたの元に在れるのに悲しいことなど―

「長谷部」

 突如聞こえた声に驚き、はっと振り向いた先に見たことのない少女が立っていた。寝間着に身を包み、髪を高い位置で一つに括っている。整備士や職人ではない。何より〝綿〟と書かれた布で顔を隠してはいるが、この声は。

「主…ですか?」

 殆ど確信を持って誰何すれば、少女は安心したように息を吐き、肯定を示した。

「そうだよ。珍しいね、お前が私に気付かないなんて。…何か考え事?」

 小さな足音を立てながら近付き、主は俺を見上げた。
 主は普段、人の姿をとらない。〝楽だから〟という理由で、手に乗る程度の大きさの綿毛姿で過ごしている。人の姿になるのは審神者の定例会がある時のみであり、それすら会場に着く直前に姿を変えるのだと言う。
 今まで本丸内で人型になったことはない筈だ、少なくとも俺がここに来てからは一度もない。
 初めて見る人の姿の主は思っていたよりずっと小柄で、身長は俺の肩ぐらいだろうか。目の前に立たれると、自然と見下ろすかたちになってしまう。
 その視線の先で、主は首を傾げた。

「もしかして、綿毛じゃないから戸惑ってる?私がいつもの綿毛と同一人物であることを示してみせた方がいい?」
「ああ、違います。疑っているのではありません」

 沈黙していたのを疑っていると取られてしまったらしい。
 確かに平時と比べれば気配の質が変わっているものの、根本は同じものだと判る。この徒人ならざる気配を持つのは主だけであり、姿が違うというだけで主を疑うことはしない。
 そう返せば主は「そうか」と呟いた。そこに以前ような拒絶は感じられない。…が、萎れるように俯いてしまった。
 珍しく主が嫌厭することなく接してくれたというのに、何か悲しませるようなことを言ってしまっただろうか。それともやはり、主は俺をどうしようもなく嫌っているのか。
 主が俺を忌避するのであれば、俺は今後主に近付かないようにする他ない。側にあれずとも忠誠は示せる。……だが、叶うのであれば、せめて理由が知りたい。あなたが俺を厭う、その理由を。

「主」
「長谷部」

 つと顔を上げた主と声が重なった。

「どうぞ、主」
「…長谷部の方は?何か訊きたいこと?」
「はい。ですが俺は後で構いません。主こそ、俺に何か御用でしょうか」
「話がしたいんだ。…遠征帰りで疲れてるとは思うけど、お前に話したいことがある。ちょっと付き合ってくれないかな」

 遠征の疲労など、あなたの頼みの前では無いも同然と言うのに。

「喜んで」

 面で表情は見えないものの、安心したように笑ったのが判った。
 そしてそのまま、主は縁側に腰を下ろ―

「主!こんな冷たい床に座っては体を冷やしてしまいます、話ならば部屋の中で…!」
「大丈夫だよ、少しすれば温かくなるから。お前もさっき庭を見ていたでしょう」
「俺は立っていましたし、そもそも主と俺では体のつくりが違います」
「そう言われても、もう座ってしまったし。細かいことは置いておこう。ほら長谷部も座った座った」
「……では、せめてこれを」

 寝間着一枚に裸足という格好の主をこんな場所に留まらせては、きっと風邪を引いてしまう。そう思って自分の羽織を主の肩に掛けると、今度は主が慌てた。

「待って、お前も同じような格好でしょうに。私がこれを受け取ってしまったらそっちが風邪を引いてしまう」
「俺たちは人間より丈夫ですから、そう簡単に体調を崩したりしませんよ」
「でも」
「俺のことなら気にしないでください。一晩くらいこの格好でいても平気です」
「……寒いと思ったら言ってね」

 小柄な主に男物は大き過ぎ、裾が床に少し擦ってしまっていた。だが冷気を防ぐには充分なようだ。
 主は羽織を纏うと「ありがとう」と呟き、後は時折雪を散らす風が吹くだけで会話はなく、深々と静かだった。
 気まずさはない。ただ時が流れてゆく。
 隣に人がいるだけで見える景色が変わると聞いたことがあるが、なるほどこういうことかと実感する。月の光も雪の白さも広がる闇も変わらないのに、今は壮麗さが目に映る。
 月見をするには絶好の天気であることだし、雪が瞬く庭というのも悪くない。加えて、晴れた月夜は主の好むところ。
 ふと主の方を窺えば、やはり面で表情は見えないものの真っ直ぐ前を向いている。
 この景色に見入っているのだろうと思ったが、その手は膝の上で強く握り締められていた。指先が真っ白になる程に。何かに耐えるように。

「主」

 見ていられず、少し躊躇った末に自分の手を重ねた。片手で覆えるくらいに小さな主の手は、もう何時間も外にいたのではと思う程に冷えきっている。

「手が冷たいですよ、やはり中で話しませんか」
「あ…いや、大丈夫」

 唐突に触れたことで驚かせてしまったのか、主は一瞬肩を跳ねさせた。ただ手を振り払われることはなく、俺は主の両手を包むように自分の右手を乗せていた。
 大丈夫、の言とは裏腹に主の纏う空気は重い。俺に話があると言っていたから、その内容が関係しているのかも知れない。或いは、今日の定例会で何か重大な指令が下ったか。

「……無理に聞き出すことはしませんが、どうか抱え込まないでください」

 その悩みが、誰にも話せないものだとしても。
 あなたが壊れてしまうことがありませんように。

 手の下で、主から力が抜けていくのを感じた。固く握られていた拳が緩み、安らいだ息と共に呟きが零れる。

「…温かい」
「斬ることしか知らない手ではありますが、こうしてあなたを温める役には立てますよ」
「うん。ありがとう、長谷部」

 そう言って微笑んだ主はこちらに向き直り、両手で俺の手を挟み胸の前で祈るように組んだ。
 目を伏せ、暫しの間沈黙する。
 纏っていた空気は、陰鬱としたものから真摯なものへ変わっていた。

「…これから話すことは、お前を傷付ける内容だと思う。でもどうか、途中で去らないで。最後まで聞いてほしい」
「畏まりました」

 顔を上げ口を開いた主は僅かに逡巡し、やがて淡々と告げた。

「私は…、お前が苦手だった」

 それは、図らずも訊ねようと思っていた内容。そしてその答えを予想できていたとは言え、実際に突きつけられると胸が痛んだ。
 しかし滔々と胸の内を明かす主の声もまた、沈んでいた。

「お前が〝主〟に向ける視線が、私には…解らなくて…。信長公との間に何があったのか詳しくは知らないけれど、その感情を私に向けるなと思って、最初はその苛立ちからお前を避けていた。それから他の刀剣たちとは違う、過剰とも言える強い献身性が、居場所を求めているように思えて…それが嫌で、そんなことで居場所を得ようとするその心が嫌で、もっと避けるようになった。……そんなの、思い過ごしなのに」
「……。」
「…私は、お前のその献身性を無意識に利用していた。どれだけ冷たくしようとも、私から離れはしないだろうと。無意識の内にそう思い込んでいたんだ。でも」

 祈る手は未だ冷たく、語る言葉が自身の罪であるかのように告白が続く。
 主の指に、少しずつ力が籠る。

「今日…ある本丸の、ある刀剣の記憶に触れた。その想いに触れた。その記憶の中で、〝彼〟は前の主と共に在ることを望んで―…死んだ」
「死んだ…?刀剣男士がですか?」
「そう。今の世に今の主に何も見出だせなくて、あの世に焦がれた末、友に頼んで縊死を遂げた」
「そんな…そんなこと、俺たちが戦い以外で死ぬなど…!」
「〝彼〟にはあの世こそが冀望だった。絶望したままこの世に在るのは、苦痛も越えてただ虚しいだけだから」
「だとしても、主より死を選ぶなど許されることではありません。俺たちは主の刀なんですから」
「でも、私はその記憶のおかげでやっと気付けた。失われないものはない、永遠なんてないんだと。……お前がずっと傍にいるだなんてどうして盲目に信じていたんだろう。明日にも〝彼〟と同じように往ってしまうかも知れないのに。私が遠ざけた所為で、絶望して、往ってしまう知れないのに…と」
「主、それは―!」

 そんなことはありえない、と続く筈だった言葉は、主が首を振って止めた。
 そんなこと、ありえませんよ主。俺はあなたと共に在りたい。俺は、ずっと―…

「そう気付いてから、ただ後悔した。後悔と怒りと悲しみとでどうにかなってしまいそうだった。お前がいなくなるなんて、考えたことなかったんだ。死を望む程あの世に焦がれてるなんて知らなかったんだ。……知らなかった、では済まされないことを、私はしてきてしまった」

 主はそこで言葉を切り、組んでいた手を放した。そして後頭部に手を遣ると、するりと紐を解き―月明かりの下にその素顔を晒した。
 大きな瞳と視線が絡む。惹き込まれそうな深い色の、菖蒲の瞳。
 その顔立ちはどこか幼くも、凛とした決意に縁取られていた。
 そうして目を奪われている間に主は庭に下り、正面にふわりと立っていた。

「〝気に食わないから苛める〟なんて〝離れないから大丈夫〟なんて、主としては当然…人として、心持つものとして、してはいけないことだった。謝って赦されることではないけれど…ごめんなさい、長谷部」

 深く頭を下げ、括られた髪が後を追ってさらりと流れる。
 その様を見て俺は漸く我に返った。

「顔を上げてください主!俺は―!」
「いいや…!私はしてはいけないことをした…!例え赦されても、私が、私を赦せない!」
「主…」

 赦しも何も、あなたが罪と呼ぶそれは罪などではないのに。
 俺を傷付けたと語る主の方がずっと傷付いているように、泣いているように見える。自責を負おうとするあなたに、俺の声は届かないのか。俺ではあなたを救えないのか。
 話をしようと、主は言った。だがこれでは―

「主、失礼致します」
「えっ、わっ⁉」

 雪の中で頭を下げ続ける主を抱え上げ、雪を拭い、縁側に下ろす。次いでその足元に膝を付き、目を瞬かせている主に向かって失礼を承知で願い出る。

「主、俺と〝話〟をしてください。一人で結論を抱えないでください。話をしようと言ったのは主です、結果を報告して、一人で終わらせようとしないでください。…どうか―」

 俺を置いていかないで。

「主がどんな記憶を見たのか俺には判りません。ただ、俺とそいつは違います」
「!」
「俺が主以外を…ましてあの世を望んで死を選ぶなんてありえません」

 そう俺は…あなたに会えた俺は、万に一つも死を選ぶことなどない。

 あなたの優しさを知っている。
 主たらんと努力していることを知っている。
 未来を知るが故に、過去の人々の決断を尊重していることを。
 変えてはいけないことの悲しさと厳しさを、時にそれで歯噛みする俺たちを支えようとしてくれていることを。

 そして、この世界を愛しているのだと知っている。

 そんな主の下に在れるのに、どうして死など選べますか。

「贖いなどしなくていいんです。嫌いならば俺を熔かすこともできた筈なのに、しなかったじゃありませんか。それどころか俺の力を信じ、敵を斬る機会を与えてくださった。主、俺は〝主に傷付けられた〟と思ったことは一度とてありません」
「長谷部…それでも、私は―」
「自分を赦せないから自責をすると言うのなら、俺に止める術はありません。ですが俺の声が届くなら、どうかお願い致します。主が悲しむのを、傷付くのを、俺は望みません」
「…なら私は、どうすればいい。この気持ちを、してきたことを、贖うなと言うなら。どう浄罪すればいいの」

 根が真面目なのだろう。主は自責の念から、自身を赦せる時まで贖いをするつもりでいるようだった。
 だが主の性格上、そんな時が来るとは思えない。
 自身を苛み、その都度〝罪〟を想起してより深く自分を呵責する。そんなのは悲しいだけだ。俺も、主も。
 そして俺が何を言ったところで、主は自分を赦さない。ならば―卑劣な手段だと思うが、これで主を救えるのなら。

「それでは主。代わりに…と言うと心苦しいですが、俺の質問に答えて頂けませんか」
「質問?」
「俺も、ずっと抱えている想いがあります。それに決着をつけたいんです」
「…解った、何でも答えるよ。なに?」

 この問いの答えは、先程聞いている。
 だがあれから心境が変わったと言うのなら、答えも変わっている筈。例え変わっていなくとも俺のすることは変わらないが、それでも確かめたい。確かな言葉で聞きたい。
 微かな緊張から、知らず手に力が入る。それから真っ直ぐに主を見上げ、一つだけ問う。

「主は今も俺を嫌っていますか?」

 主は目を見開くと、直後に顔を歪めた。今にも泣きそうな顔で首を振る。

「そんなことない、もう…そんなこと思わない。大切だよ長谷部、嫌いなんかじゃない。好きだよ」

 ――ああ、その言葉が聞ければ充分です。

「あ…でもあの、えっと…、好きとは言ったけど、恋愛感情じゃないよ?親愛と言うか友愛と言うか…そもそも長谷部だけじゃなくてみんな好きだし…」
「主と恋愛など畏れ多いです。が、そうですか…皆ですか」
「うん、みんな大切。長谷部も、みんなも、誰も失いたくない。私の大切なひとたち。…これが答えではダメ?」
「いいえ充分です、ありがとうございます」

 今晩ここであなたに会うまで、俺はあなたに嫌われていると思っていた。事実、嫌われていた。
 だがそうではないと知れた。大切だと、失いたくないと想ってくれていると。
 どう想われていようが構わないと思っていたと言うのに。嫌われようが避けられようが忠誠を示すことはできるからと、そう思っていたのに。単純なものだ。
 胸の奥で「好き」だと言った主の言葉が熱を持つ。
 もう迷いはない。

 不意に、主が俺を呼んだ。
 憑き物が落ちたような顔つきで、こちらを見据えている。

「正直、自分を赦せない気持ちは未だある。でもそれだと前に進めない。私が過去に囚われているわけにいかない。だから」

 見ていて―と。
 贖いではなく、自分が成長する為に、前に進む為に。
 〝主〟として役目を果たせているか。
 数多の刀剣を束ねるに相応しい者として、恥じない言動を取れているか。
 過去はやり直せないから、過誤を繰り返さない為に。

「私の傍で〝全て〟を、見ていて」

 瞳に、深く力強い決意が灯る。
 自責でも贖罪を請うものでもない、摯実な願い。
 それは何物にも代え難い、いや何物にも代えられない、俺たちでは持ち得ない力。
 過ちを受け入れ学び、先へ進む為の推進力と成す。己が為すべきことを、為すために。
 〝導く者〟だけが持つ器量。どうしようもなく惹き寄せられる〝主〟の器。―その眼差しに背筋が震え、自ずと頭が垂れる。

「主命とあらば」

 きっと俺は、今、この方に惚れたのだろう。

「もし私が間違えたら、その時は私を斬り捨てて」
「それは…!」
「主命ではない、けれどきっと他のみんなじゃできないから」
「…ならば、主が過ちを犯さないよう尽力致します」

 時にふざけ、時に気儘な行動を取ろうとも、その裏でいつも俺たちを気にかけてくれている。
 俺を避けていたことを悔い、俺を失うことを怖れてくれた。
 無邪気で気紛れで、その実繊細な主。
 あなたの傍に在って、あなたと共に在る為に。

「何かあれば、その時は俺にお申し付け下さい」
「うん、ありがとう長谷部」

 控えめな、綻ぶような笑みを浮かべ…主の告解は、こうして誓いへと姿を変えた。

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