平安時代の権力の動き

今回は少しTwitterで話が上がっていたもので、これは批判ではなく、間違い(解釈)の指摘という形になる(諸研究に関しては賛否両論あると思いますので、もし新しい研究成果が出ている等あればご意見・ご指摘いただけた幸いです。)。この間違い(解釈)は割と多く、中学校や高校の日本史でも以下のように認識している生徒がいるのも事実であるため、ここでは教科書も利用しながら示していく。

・どのような間違い(解釈)か
 天皇中心の政治だった平安時代初期から、藤原氏の摂関政治が全盛を迎える平安時代中期(実はこの平安時代中期という表記も様々な意見がある)、藤原氏に変わって上皇が政治の実権を握る院政がはじまる平安時代後期、そして平氏政権の平安時代末期、これが大きな平安時代全体の権力の動きである。

 ここでよくある間違いが、①藤原氏が天皇(朝廷権力)を抑えて政治の実権を握る、②藤原氏から天皇が実権を取り戻す(院政)、というもの。また、朝廷が二重権力対立構造(院と貴族か?)により武家の力が必要になる、その結果、平氏の台頭、という流れになる。

 まず①に関しては、藤原氏は天皇(朝廷権力)を抑えたのではなく、藤原氏が他の貴族の力を抑え、相対的に藤原氏が他の貴族よりも高い地位になったこと。これは、842年の承和の変にはじまり、866年の応天門の変、887〜88年の阿衡の紛議、901年の昌泰の変、969年の安和の変と続く藤原氏と他の貴族の権力争いからも伺える。この権力争いでは順に、伴健岑・橘逸勢失脚、大納言伴善男失脚、宇多天皇に対しての藤原基経の建議、菅原道真の太宰府左遷、源高明の失脚となっている。これが史実に残っている藤原氏の他氏排斥である。阿衡の紛議で藤原基経の意見が通ったこともあり、天皇権力を抑えているように見える。しかし、これで天皇権力を抑えているとなると、菅原道真の遣唐使停止の建議も通っているので天皇権力を抑えたことになるのではないか。この間、藤原良房が人臣で初の摂政、藤原基経が関白となり、藤原氏一族も朝廷内での高位高官を占めていく。その結果、天皇の補佐ができる立場に浮上した(天皇に意見できる一番近い貴族)ことになる。藤原氏一族内では、今度は誰が藤原氏のトップ(これを「氏の長者」という)になるかの争いが始まる。これに勝利したのが10世紀末の藤原道長、そしてその子である頼通となる。藤原道長は娘を天皇の妃に、子を皇太子(そしてのちの天皇に)することで権力を安定させた。天皇を抑えてという表現が使われるのは摂関政治を貴族が行っている政治(藤原氏が行っている政治)という解釈のもと、天皇の権力を抑えて貴族が権力を握ったと意味ではないかと推測(道長・頼通親子は法成寺、平等院鳳凰堂も建立していること、当時末法の世が訪れるとされていたことなどの要因も重なる?)。ちなみに、摂関政治の説明に関して、山川出版社日本史Bでは、「摂政は天皇が幼少の期間にその政務を代行し、関白は天皇の成人後に、そのこう倹約として政治を補佐する地位である。」と記述されていることからも、天皇権力を抑えて藤原氏が独裁、といった内容は伺えない。

 次に②について。藤原氏から権力を取り戻したわけではない。これは頼通に子(男の子)が生まれなかったということと、藤原氏を摂関家としない後三条天皇が即位したことが大きい。当時、藤原家との関係も悪化していた。外戚に藤原家とつながりがなく、1069年に荘園整理令を出したことなどがあげられる。取り戻したわけではないのは、元々、政治の実権は天皇家(朝廷)が握っていたということ。摂関政治期は藤原氏の意見が他の時期と比べると強く通りやすかったが、それでも政治の実権は天皇家(朝廷)にあったこと。つまり、最終的な決定権は天皇家(朝廷)がもっていたということ。鎌倉時代のように、武士が実権を握って全国を支配というものではなく、平安時代以降のことにもなるが、武士と貴族・天皇家(朝廷)は分かれている。鎌倉時代以降、武士が実権を握るが、貴族や天皇家の地位が下がったり身分が武士の方が高くなったりということはおこっていない(貴族に関しては相対的な地位変動はあったかもしれないが、天皇家はない)。

補足:武士に関して
 武士のスタートは奈良時代末期。当初は武装した農民。武装理由については、墾田永年私財法以降、土地の永代所有が認められ公地公民制が崩壊した。その結果、貴族・寺社がこぞって開墾し領地を広げていく。しかしその中でも有力な農民はおり、彼らは自分の土地を奪われないために自治として武装し土地を守った。これが武士のスタートである。

≪山川出版社 日本史Bの記述≫
 11世紀になると、開発領主たちは私領の拡大と保護を求めて、土着した貴族に従属してその郎党となったり、在庁官人になったりしてみずからの勢力をのばし、地方の武士団として成長していった。彼らはやがて中央貴族の血筋を引く清和源氏や桓武平氏を棟梁と仰ぐようになり、その結果、源平両氏は地方武士団を広く組織した武家(軍事貴族)を形成して、大きな勢力を築くようになった。

 この記述からもわかるように、武装した有力豪族・農民が武士、中央でも清和源氏・桓武平氏が武士(軍事集団とでもいうべきか)を組織。地方の有力豪族・農民は天皇家の血筋を引いている清和源氏・桓武平氏のもとで組織化されていく。以上のことからも、武士が出てきたのは早くとも8世紀末、遅くとも清和天皇在位の9世紀半ばには登場している。また、当時の貴族の身辺警護に当たった武士を「滝口の武者」、院の警護に当たった武士のことを「北面の武士」という。

以上のことから、天皇家(朝廷)が藤原氏から実権を取り戻した、奪われたというわけではなく、あくまでも実権は天皇家(朝廷)にあり時期によって藤原氏の意見が通りやすかったり、天皇家の意見が強かったりしたことになる。

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