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「人生を変えた経験」が苦手だ。

モラトリアム期の学生の内省と言い訳です。 あたたかく見守ってやってください。

私はいま、イギリスのマンチェスターに留学している。 それなりにしょうもない心配をする質なので、留学後にプレゼンをすることになったらどうしようとそわそわしています。

同時に、ぼちぼち就活をしています。
一番困るのが、「挫折した経験は?」や「人生に最も影響を与えた経験とは?」といったものです。

パッと出てこない。

前者については、そこそこうまく生きてきてしまったので困っています。そりゃ探せばあるかもしれないけど、そんな華麗なビフォーアフターなんてない。あんまり本気で困ったり悩んだりしたことがない。正確に言えば、現在地から見ると、それらは困難として解釈していない。 まあ目的論的なアレです。本筋じゃないので機会があったら別で書きます。

後者についても、そんなハッキリと覚えてない。わからん。自分の思考のパラダイムシフト的なことはよくある(影響はされやすい)けど、それは概して哲学的だったり抽象的だったりするので、誰にもわかりやすく言うことはできない。単純に力不足かもしれない。

要は、これまで歩みの中で、急激な転換点を見出すことができないということです。

なんでだろうと思いました。
なんとかフォーラムに出てくる人はエピソードを美しく鮮明に話すことができるし、卒業生の声みたいな投稿にはイケてる、グッとくるような一貫した体験がある。

実際私も、イケイケで華々しい文章やプレゼンをつくったことがあります。
メタ・私から殺気を感じました。彼曰く、今すぐ口を閉じて聴衆にひれ伏せとのことでした。

なんとなくら自分はそういう類の人間ではないとは感じていました。中2くらいから。マセガキでした。
いやあ、どうしたものかと思いつつ、ネタに走ったりアホっぽくしたりしていました。 どうしてもどこか、快刀乱麻を断つように話すことができない。

いささか話がずれ、いつの間にか口調も変わっていました。おもろいので直さないでおきます。


「世の中には2種類の人間しかいない。〇〇な人間か、〇〇でない人間かだ」という謳い文句が好きです。もちろんネタです。
カラマーゾフの兄弟やら、クリント・イーストウッド的なやつやらローランド的なやつまで。

このコピーに敬意を表しつつ言語化してみることにします。

この世には2種類の人間しかいない。 日常の人間か、非日常の人間かである。

私は、非日常を消化し、日常と馴染ませるのが好きなんだと思います。

どういうことか。 「ええ、やはり思い出は世界一周ですね。自分はこんなにちっぽけな存在なんだと思い知らされました。今も刺激的な非日常を楽しんでいます! 成長!!」みたいなことでは決してありません。具体的すぎました。これを貶しているわけではありません。本当です。

非日常を非日常にしておかないということです。

例えば、カレーライスをつくるとします。 カレーには煮崩れのしにくいメークインが合います。特に、北海道は帯広が産地の大正メークインがおすすめです。試される大地北海道に試され続け、甘味もたっぷりです。
失礼。
煮崩れしにくいメークインではなく、男爵を使うとしましょう。 じっくりコトコト煮詰めると、じゃがいもは原形を失い、カレーに溶け込みます。液体のように全体に行き渡り、カレーの具というよりは、カレーそのもの構成要素になります。
いもがカレーの一部になるように、私たちが食べたモノが、咀嚼や消化・吸収をへて血肉になるように。

あるいは、春先の雪解けを思い浮かべてください。 冬の間、確かな白い存在だった雪は、春の訪れとともにその輪郭を失っていきます。最初は固く、はっきりとした形を持っていた雪が、陽を浴びて少しずつ形を変え、大地に吸い込まれていく。
もう雪としては見えないけれど、溶け込んだ水は確かに土の中で命となって循環している。見えなくなったからといって、消えてなくなったわけではない。ただ、大地の一部となっただけ。

同様に、私の中の体験も原形をとどめていない。煌めく「原体験」は、雪解けのように大地に溶け込み、もはや個別の記憶として取り出すことはできません。
それらは私の養分となって吸収され、あるのは、私だけです。

ノルウェーからマンチェスターに帰る飛行機の窓から見える雲を眺めながら、そんなことを考えています。

人は劇的な転換点を求めがちだ。
でも、私の中には何か強烈な体験も、すさまじい経歴も形を持っていない。 ただ、日常的に思いを馳せ、旅先で思考を深めているだけ。
それは実にゆっくりで、しっとりしている。 春の雪解けのように、確実に、けれど穏やかに。安定的で恒常的。 副交感神経が上がるやつ。マイナスイオン的な。

私はそんな人間なんだなと、朧げに感じました。




【余滴】物語にならない。

ここまでが、この文章を書こうと思ったときに考えていたことです。

しかし、こうした人は実際のところ、少なくもないんじゃないかなとも感じました。感じていたことを思い出しました。

というのも、人生の先輩方からじっくりじっくり話を聴くと、彼らへのイメージがほぐされていくからです。

余所行きの一張羅、晴れ着姿でない顔を見せてもらうと、実は自分と変わらないように思えるものでした。

私たちは、一貫した人格があると思い込む。 いい人はいい人。悪い人は悪い人。

夜空に無数にある星を見上げると、そこに意味のある形を見出してしまう。本来はバラバラに存在する点と点を結び、「北斗七星」や「オリオン座」という物語をつくる。実際には、それぞれの星は遥か遠く離れて存在しているのに。

古い地図には、未知の領域に想像上の怪物が描かれていた。点と点の間の空白を、人は空白のままにしておけない。わからないことは、わかることで埋めようとする。

そうやって私たちは、バラバラな出来事を無理にでも意味のある線で結ぼうとする。
自分の物語に、当てはめていくわけです。持っている棚に分類できないものは捨てられてしまう。


それを解体していく営みもまた、おもしろかったりするのではないかと。

実はそんなんじゃない。ぶっちゃけ勘だよ。なんとなく周りに流されて。運命を感じてしまって。

私は、そんな話を聞いていたい。

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