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逆張る私
私は髪を染めたことがない。
先日、「ハイライトにしてるのかと思った!」とついに言われてしまった。違います。白髪です。
ついでにパーマとかもかけたことがない。
理由は特にない。
「なんでかけないの?」と聞かれたときは、自分自身の髪がどうだこうだ、痛みがああだこうだ言っているが、別にあんまり思っていない。
理由を挙げるとすれば、「みんなやってたから」である。
特に意味はない。
大学に入ってから、マクドナルドに行ったこともない。栄養がどうだ、味がどうだ、ファストフード店の構造がああだこうだ言っているが、それほど強く思っているわけではない。
なんか気づいたら行ってなかった。ちなみにモスはよく行く。
まったくもって今更感があるが、タピオカミルクティーも飲んだことがない。
詳しくはこの記事に。
あ、ディズニーランドも行っていないと言いたいところだが、昨年行ってしまった。大学の友達に誘われ、夏休みに5人で行ってきた。リア充である。行ったからには、全力で楽しませていただきました。
挙げたらそこそこキリがないのだが、総じて特に意味はない。
一点、あるのは逆張りである。
とても悔しかったことがある。
某今をときめく有名な兄弟の弟さんが、『逆張り思考』という本を出版されていた。やられた。
この逆張りに市民権が与えられてしまうと、私の居場所がなくなってしまう。私はどう逆張ればいいの?
逆の逆は順。王道の道を進むしかないのか。軽くアイデンティティ・クライシスであった。
閑話休題。ご覧の通り、ここまですべてが閑話です。
ここからはちょっとまじめです。ミシシッピ川のように蛇行しますがご容赦ください。
いろんな問題について考えたり議論をしたりする中で、自分がこの「逆張り」のようなことにかなりアイデンティティを持っていることに気づきました。
ゼミでいつものように取り止めもなく議論をしていた時、ある同級生に言われました。
「あなた、アンチ・枠だよね」
たしかに。
ここから、私は自分を探す旅に出たのです。ええ呑気ですとも。
彼女の発した一言が、身体の中でじんわりと消化されていくことを感じました。
同時に、こうも思いました。
「枠ありきじゃまずくね!?」
枠がないと生きていけない、でも枠に抵抗したがる。おれは反抗期の子どもか!
では、なぜこんなかっこ悪いことをしているのか。
見る人が見たらダサいことは中学生の頃から自覚していました。それでも逆張っていたのは、無意識にでもそれなりの理由があるはず。そんなことを考え始めました。
核の問題についてよく考えます。
唯一の被爆国として、核廃絶に向けて世界に訴えなければいけない。
核の傘は有効なのだから、今日の情勢で自国を守るためには現実的に考える必要がある。
前者には強い願いがある一方で、後者にも確固たる論理があります。
どちらがいいという議論をここでするつもりはありません。便宜的に、あくまで便宜的に、前者を左、後者を右とします。いちいち書くのめんどくさいので。
私はたいてい、左側の意見が多数を占めるときは右の意見を提示し、右側が優勢のときには左の思いを述べます。
よく言えば、バランスを取ろうとします。
なぜなら、所与の前提を共有してしまっている狭まった議論には、その先がないからです。
私はYouTubeのコメント欄を見るのが好きです。極左から極右まで見ます。おもしろいです。はい、変態です。
何がおもしろいかって、動画によって世界がまるで違って見えるからです。
YouTubeに限らず、XなどのSNSでも同様です。こうした同じ意見を持つ人のみで構成されるエコーチェンバーに入ってしまうと、物事をメタに見ることが難しくなってしまう。
これは、先の都知事選で顕著だったように思います。
他にも、例えば今すぐ行動すべき社会課題があったとします。そこに行動派が多数であれば、慎重な意見を述べる。慎重派、無関心層が多ければ、自分が旗を振る。
ミーティング内にリーダーがいれば、フォロワーになって意見を述べる。いなければ、ぶん回す。
毎回それができるほどできた人間ではありませんが、そんな行動理念があります。
同じ意見を持つ人で集まるのはとても気持ちのいいことです。共感できるし、居心地がよい。
しかし、何かの答えを求めたり、何かを変えようとするなら、内部で気持ちよくなっている場合ではない。そこに解決策が見出せる気はしない。
なぜなら、語る理想が実現してない理由は、その外にあるからです。
だからか、私はあくまで逆を述べたくなる。
一方で、これはずるい立場です。
自分を特権化している。
ともすれば、見下されていると感じる人もいるかもしれません。わかっています。
でも、こんな人間も必要だったりするのではと思ったりします。こういう回りくどい人間も。
人間はひとつの物語でまとまりやすい。これは仕方のないことです。だからこそ、ホモ・サピエンスなのです。
ただ、私は怖いのです。
その場が一色に塗り尽くされ、そこだけで完結してしまうことが。我々の見る世界が、2つや3つに分かれてしまうことが。世界観と世界観がぶつかり合うことが。
こうした同一性への拒否感、分断への不安感が、私をして逆張りに走らせているのかもしれません。
なんて思ったりもしますが、たぶんこれとマックに行かないことは違う話です。ああこんな意見の人もいるんだなと、やさしく見守ってやってください。