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BeRealについて考えていたら、人間の本質の話になってしまった

はじめに

ついにこれについて書くときが来てしまった。
私は今、そんな心持ちでいる。

BeRealについてである。
大変今更である。

当然、私は、やっていない。
こんな感じの人間だからだ↓

なお、このnoteには少々具体的な例も出てくるが、それが「いい・悪い」「使うべき・べきでない」と言ったことが言いたいわけではない。現象として、こんな風に考えることもできるかしら?というささやかな好奇心ですので、悪しからず。

さて、そんなBeReal。毎日ランダムな時刻に通知が届き、ユーザーは2分以内に前後カメラで撮影・投稿する、一見シンプルなSNSだ。"Real"の名の通り、加工や演出のない等身大の日常を共有することを重視している。
より自然な、盛らない自分を投稿できるという文脈で紹介されている(気がする)。

そして興味深いのは、このアプリの「強制力」だ。他人の投稿を見るには自分も投稿しなければならず、通知から2分という制限時間も設けられている。
(とても単純化しています。通知を気にせずマイペースでやっている方もいらっしゃると思います。すみません。一旦落ち着いてください。)

実際、私の友人も多くが利用している。日記のように思い出記録として使っている人も少なくない。
私は完全にタイミングを逃したのと、ここまで逆張りをしてきたので今更やるわけにもいかないような気がするという本末転倒な理論によって利用を妨げられている。別にやりたいわけではない。ほんとだもん。

では、なぜBeRealはここまで広がったのか、という問いがある。

さまざま分析が可能だし、実際にされているが、ここでは私の主観的な解釈を試みたい。

BeRealが人気なのは、それが「強制力をともなっているから」だと私は考えている。そう、一度も使ったことのないこの私が、そう思っている。
本noteでは、様々な例を見ながら、この主張のそれっぽさを後押しする。


外部化の時代

寿司チェーンの迷惑行為とAIによる監視

2023年、回転寿司チェーン店での客の不衛生な悪戯動画が出回った。
これを受けて、ある寿司チェーンは、AIカメラを導入した。

批評家の東浩紀の論がとても面白かったので紹介したい。
東は、ここでAIカメラという発想が出てくるのは、「人間が人間を管理すること」への躊躇ゆえではないかと指摘してる(東浩紀『訂正する力』朝日新書、2023年、169項)。
寿司屋でのAIカメラ導入を受けて、教育現場での活用を訴える人が出てきたことに彼は注目する。

寿司屋ではスタッフが、学校なら教員が目を光らせるという方法もあるし、実際はそう行われてきた。しかし、現代においてそれらは暴力やハラスメントと批判を受けかねない。
それなら、客観的な証拠を提示できる機械に判断させてしまおう。そんな論理が背後にあるのではないかと東は指摘している。

「人間が人間を管理すること」はよくない気がするから「機械に人間を管理してもらう」。
いわば、「強制力の外部化」が行われている。

BeRealが描く新しい「強制」の形

この観点からBeRealを見てみよう。

大学生をしていると、おもしろい光景を目にする。稀に、教室内の学生が一斉に自らのスマホを確認するタイミングに出くわすのである。

そう、BeRealの時間が来たのである。通知が来ると、2分以内に取ることが求められる。幸い弊学は良識的なBeRealユーザーが多いので、バッシャバッシャと撮りまくることはあまりないが、そんなところもあると聞く。その2分間を逃すわけにはいかないからだ。

話をしている時、遊んでいる時も、BeRealのタイミングは空気を読まずやってくる。そうすると、みな口を揃えて「BeRealが来ちゃった」と言う。
そして申し訳なさそうに、いつもBeRealに対してグチグチ言っている私の方を見る。ごめん。ほんとごめん。

この「来ちゃった」という感覚が大事なんだと私は思っている。

冒頭でも述べたが、BeRealとInstagramを始めとするSNSとの違いは、「強制力」にあると思う。
インスタのストーリを上げたり投稿したりすることには、ある程度の能動性が求められる。
つまり、「私はこれをやっている、見てくれ!」と思って指の運動をしなければならないのだ。

ここからは完全に主観だが、私のようにシャイな男子大学生には、その決断はややハードルが高い。自分をアピールすることにちょっとした気恥ずかしさを感じるからだ。
他人様のフィードに、私の顔面などが流れてくることに何の意味があるのだろう。別に嬉しくはないんじゃないか。別におれがどんなレストランに行っているのかとか興味ないだろ。

「SNSなんてそんなもんだ」と言うだろうか。
ぐうの音も出ません。

ただ、そう感じている人はゼロではないのではないだろうか。

一方で、BeRealはそうした恥ずかしさを免罪してくれる。なぜなら、「時間が来たら撮って投稿しなくちゃいけない」からだ。

「ああ、お目汚しですみません、そんなつもりはなかったんです。ああ、ごめんなさい。でも投稿しなくちゃいけないんです! 見たくないならBeRealの仕組みに文句言ってください!」

こうして、私のような引っ込み思案体質の人間でも「投稿しなくちゃいけない理由」を見つけることができるのだ。
何度も言うが、私はBeRealをやっていないのでこうしたマインドの利用者がいるのかは知らない。

「まんざらでもない強制」

能動性のない人間、私の日常にはこうしたある種の「強制による行動」が溢れている。

先ほど引き合いに出したインスタを例に取ろう。 私はこの論理をよく使う。
「旅に行ったときは投稿しようって決めてるからなんか上げとこ」
「友達にやれって言われたから」
周りも、そんなことを言っている人は見かける。
「恋人が上げろってうるさい」とか。
こうした「まんざらでもない強制された感」を出しながら行動する人は、そこそこいるんじゃないかと思う。

話を戻すと、こうした「しなければならない」という状態を用意してくれるのがBeRealだというのが、ここまでの論である。
言うなれば、投稿する理由を外部化(アウトソース)してくれているのである。

理由づけの外部化

外部化は様々なところで行われている。

例えば、恋バナ。恋愛相談において、判断を外部化している人は少なくないのではないか。
「好きな人がいるんだけど...」と友人に相談を持ちかけるとき、答えは既に心の中にある(ことが多いのではないでしょうか。違ったらすみません)。
それでも「背中を押してほしい」「お墨付きがほしい」という気持ちから、誰かの言葉を求めてしまう(私にはそんなことがありました)。

占いやタロットもまた然り。「運命の出会い」「相性診断」といった形で、自分の感情や決断を外部からの「お告げ」によって正当化しようとする。占い師は基本的に都合のいいことしか言わないのだし。

結局のところ、誰かに「そうだね、その選択で良いよ」と言ってもらうためにあるもの、と言うと言い過ぎだろうか。

くどいかもしれないが、まだまだある。
ご飯を食べるお店を選ぶ際、東京では食べログの星の数に判断を委ねることも少なくない。
「名前も知らない誰か」の評価であるにもかかわらず、星3以上でなければ選ぶのを躊躇してしまう。むしろ、見知らぬ人だからこそ、判断の責任を安心してなすりつけられる。
「みんなが良いと言っているから選んだのに」という言い訳は、自分の選択の結果に対する免罪符として機能していると言えるんじゃないだろうか。

あるいは、休日の予定を決めるとき。私たちは、天気予報に判断を委ねる。「降水確率60%だから中止」と言えば、誰も文句は言えない。「行きたくない」という本音を、数値という客観的な理由で覆い隠せるからだ。
運動会が延期になる場合、学校が休校になる場合も同様だと思う。

少々視点を変えると、資格の勉強を始めるとき、「とりあえず申し込んでしまおう」と受験料を払ってしまう行為。
自分の意志の弱さを知っているからこそ、「払ってしまった受験料」という外部の強制力を利用する。

アウトソーシング症候群

私たちは、外部の強制力を日常的に使っている。

BeReal、恋愛相談、天気予報、これらに共通するのは、本来なら自分で判断し、責任を負うべきことを、外部の仕組みに委ねているという点だ(価値判断は含んでいない)。

こうした傾向のことを、アウトソーシング症候群と勝手に呼びたい。
なんか最近よくアウトソースするじゃないですか。

アウトソーシング症候群とは、個人の判断や責任を外部の仕組みや制度に委ねることで安心感を得ようとする、現代社会に特徴的な心理・行動傾向である。ということにする。

レビューサイトの評価に頼った店選び、AIによる行動監視、SNSの「しなければならない感」による投稿。これらを延長線の上で理解する。
つまり、自分たちで決めることの不安や責任の重さから逃れるため、何らかの外部の力を借りているということだ。

では、このアウトソーシング症候群を、社会的に文脈づけてみよう。


長いですよね。もうすぐ終わります。

個人化の時代

個人と社会

現代社会は、いうまでもなく個人化が進んでいる。

家族の形、会社や地域のあり方も個人化への志向が続いている。いわゆる「血縁、地縁、社縁」が弱まってきていることについては広く認識されている通りである。
なお、コミュニティづくりなどの個人と個人を結ぼうとする新たな動きについては、ちょっと無視させてください。

これらの個人化は、言い換えれば「選択機会の増加」である。
これまでは家族や地域、会社の人間関係に左右されていた決断も、個人の判断で行えるようになってきた。個人の裁量は広がっている。性自認や性的指向も、社会的規範から抜け出し、個人の選択が重視されるようになってきている。

前述のように、「人間が人間を管理すること」への忌避感が広がっている。人が構成要素となる社会が人間を管理しようとすることもまた、疑われつつある。それは多数者の暴力であり、マイノリティによるハラスメントになりうるからだ。

「個人の自由」というものが、最も重視された価値観のひとつになっている。

人は自分を信じられるか

現代の都市は、個人が個人の責任のもとで行動をする。そこに他者の介入は、原則として存在しない。個人が選択できることは、ある種の最上位目標になっているように見える。

しかし、「自分の人生は自分で決める」という個人主義的な価値観が浸透する一方で、人々は様々な形で心の支えを求め続けているのもまた事実である。

どれほど選択肢が得られようと、結局人は何かにすがらざるをえない。私はそう感じている。現代の社会が個人を分節化し、人間は無限の責任をひとりで担っているとすれば、ここに歪みが生まれることは避けられない。

宗教は、その最も古典的な例だろう。人知を超えた存在への信仰は、不確実な人生における道しるべとなってきた。
現代でも、神社仏閣での祈願や、パワースポット巡り、お守りを持ち歩く習慣として、その名残が見られる。必ずしも強い信仰心を持っているわけではなくとも、何か困ったときに頼れる存在を求める気持ちは、私たちの中に深く根付いているのかもしれない。
ちなみに私は、おみくじは猛烈に信じるタイプである。今年はイギリスに留学していておみくじを引けていないので、大変心許ない。

また、「運命の赤い糸」や「天職」といった概念も、人生の選択における重要な決定を、自分以外の力に委ねたいという願望の表れではないだろうか。「これは運命だから」と言えば、その選択に迷いがあったとしても、何かしらの後ろ盾を得たような安心感が得られる。
私はそうだ。運命を信じるタイプ。

言ってしまえば、結局、人は救いを求めるのである。

実際のところ、完全な個人主義とは相容れない「依存」への欲求は、むしろ人間の本質なのかもしれない。
アリストテレスが「人間は社会的動物である」と述べたように、アレントが「人間関係の網の目」と言ったように、私たちは他者との関係性の中でしか生きられない。
だからこそ、個人主義が進展する現代において、人々は新しい形の「依り代」を求めているんじゃないだろうか。

おわりに

簡単な気持ちで書き始めたら、なんだか大きな話になってしまった。
ここまで辿り着いてくださった方には感謝してもしきれない。
BeRealのアカウントを作ったら、ぜひとも交換させていただけたらいいのに(反実仮想)。

私たちはいま、奇妙な時代を生きているような気がする。

かつてないほど選択の自由を手に入れ、「個人の意思」が最大限に尊重される時代。しかし同時に、その重圧から逃れるように、判断の根拠を外部に求め続けている。

イギリスに留学中の私は、ちょうど今日から冬休み。
たくさん旅をして回る予定です。

偉い人たちに「若いうちは旅をしておけ」って言われたから。

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