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電車にキレ、ザピエカンカを食し、ガザとウクライナに思いを馳せる【クラクフ旅・裏】

本編に書き損ねたことを雑にまとめます。
統一感はゼロです。


はじめに(ボツ)

私のクラクフ旅は、東京のビル風も真っ青の向かい風から始まった。

まずはマンチェスター空港に、バスと電車を乗り継いで向かう。
ところで私は現在イギリスのマンチェスター大学に交換留学をしている。

まず、バスが来ない。これは想定内。これくらいでオロオロするような私ではない。
20分くらい待つと、ようやくやってきた。
「わたしも今来たばかりですけど?」感を出しながら、心の中で胸を撫で下ろす。

バスから降り、問題なく駅にたどり着くと、なんと電車がキャンセルされているではないか。アプリでチェックすると、そもそもこの駅に来る電車がなくなっている。
まあ、ハプニングの一つや二つは考慮に入れて行動するのが大人というものだ。まだ楽しめている。

再度バスに乗り、先の少し大きな駅に向かう。Google Mapとの関係性の悪さからバス停から駅までの道に迷ったが、早歩きすることで無事、出発の1分前に駅のホームに辿り着いた。これくらいで自律神経を乱すわけにはいかない。

待つこと3分。まあ、数分くらいの遅れはわかってますよ、はいはい。いつの間にか出発時間が5分遅れになってるけどね。サイレント遅延してんじゃないよ。

待つこと10分。まあ、こうなると思ってましたよ。もう2か月住んでますからね。
おもむろにホームの電子時刻表に目をやると、見覚えのある文字が並んでいた。

“Cancelled”

キャンセルは聞いてない。

いや、キャンセルって何?
職務放棄? あと3分で着くんじゃないの? 交通機関にドタキャンっていう概念あるの?
キャンセルなら先に言えよ! なんでギリギリなんだよ!

目をこすった。薄目にした。メガネもかけた。
それでも、「Cancelled」の表情は変わらなかった。

心の声はそう叫びながら、「もうしょうがないなあー、おれじゃなかったら怒ってるぞ☆」という澄ました表情をする。

次の電車は1時間後である。
ギリ、間に合うか。
国際線ということもありかなり余裕を持って出ていたので、走れば間に合うことに可能性を賭け、ゆっくり待つ。

間に合った。よかった。




はじめまして、クラクフさん

無事クラクフ空港に着いた。

何気に心配なのが、空港から宿泊先のホステルまでの道のりだ。何しろ、私には電波がない。イギリスで使っているキャリアのEUローミングで通信できるはずが、まったく反応がない。Wi-Fiがないところでは、スマホなしには何もできない哀しき現代人に落ちぶれてしまう。(ちなみに、最終日に設定をミスっていたことが発覚し、無事電波にありつきました。)

電波なし状態は個人的にトラウマがあるのだが、それはまた別のお話。

あまりにも冗長なので割愛するが、見事に空港から中心部までのバスも遅延に遅延を重ねた。ポーランド語やロシア語を話す家族に囲まれながら、無心で本を読んだ。

駅のショッピングモールでWi-FIに繋がった時はテンションが上がりすぎて、ポーランドの民族音楽をイヤホンに大音量で流しまくった。




カジミェシュ地区とガザとウクライナ

本編でも書いたが、カジミェシュ地区にはユダヤコミュニティの記憶が強く根付いている。私は主に歴史について勉強しているが、その中でも「記憶」という分野にかなり強く関心がある。
クラクフを選んだ理由のひとつは、その地に根差した記憶にじっくりと触れるためだ。

ここからは戦争の記憶の話をします。
もしかしたら気分を悪くする人がいるかもしれない。何かの考えを押し付けるつもりは一切ないということ、それにこれはあくまで私個人の考察であることを申し添えておきたい。

ユダヤとホロコーストの記憶

ポーランドのストリートフード、ザピエカンカを食べたあと、「ユダヤ人コミュニティセンター」みたいなところに行ってみた。
その入り口を見て、私は思わず後ずさりをしてしまった。

Jewish Community Centre

少し見づらくて恐縮だが、前からウクライナ、イスラエル、ポーランドの国旗が掲げられている。
その横に目をやると、老若男女の写真がある。

「KIDNAPPED」は「誘拐」や「拉致」という意味。

2024年10月7日、ハマスに人質に取られたユダヤ系の人々だ。

正直なところ、私はいまガザで起きていることに対して多くのことを知っているわけではない。
ただただ、人が苦しむ姿は見たくない。人間が、人間を人間でないかのように扱うことはあってはならないと思っている。

あえて乾いたように、思ったことを記しておきたい。

まずは、上の写真に戻ろう。
右下には、「NEVER AGAIN IS NOW!」と書いてある。「彼らを返せ!」と強く訴えかける。

この「Never Again」というスローガンは、ユダヤ人コミュニティの間で1940年代後半から使われてきた。つまり、「ホロコーストを2度と起こしてはいけない」という意味であり、「反ユダヤ主義と戦う」という決意表明になっていきた。(一方、現在ではより広い文脈でも使われている。参照:Emily Burack, ‘How “Never Again” Evolved from Holocaust Commemoration Slogan to Universal Call’, The Times of Israel, 9 March 2018, https://www.timesofisrael.com/how-never-again-evolved-from-holocaust-commemoration-slogan-to-universal-call/ [accessed 15 December 2024].)

ユダヤの人々には、歴史的に迫害を受けてきたという集合的な記憶がある。それはホロコーストに限った話ではない。紀元前から絶え間なく続いてきた。
だからこそ彼らは、イスラエルを建国し、軍事や経済で守りを固めようとした。
反ユダヤ主義は「もう2度と」起こしてはいけないからである。

ここからはかなりの程度私の主観が入る。
「NEVER AGAIN IS NOW!」は、今の国際社会に強く訴えかけている。
あなたたちは、また私たちを迫害するのか。
また、見て見ぬ振りをするのか。また、私たちは関係ないと言うのか。
今こそ、あのナチのホロコーストを思い出し、反ユダヤ主義に対して行動すべきだ。
ゲットーとなったこの地は、確かにそれを訴えていた。

過度な一般化はしたくないが、こういう記憶が少なからずあるのは確かだと思う。

しかし、イスラエルに同情的な声は、国際的に決して多くはない。国家レベルではイスラエルに同情的な国も、国民みなが支持しているわけではない。
それは、現在のイスラエルのガザへの攻撃が、あまりにも苛烈だからだろう。


ロシアの記憶

国旗に話を戻したい。
私は、ウクライナの国旗を見たとき、人質となってしまった人々の写真を見たとき、不意に昨年の夏の記憶が蘇った。

モスクワに行ったときのことである。noteには書いていないが、強く印象に残った景色があった。

モスクワのアルバート通り。
そこでも同じように、「被害者」という記憶が、強く訴えかけていた。

「Пусть всегда будет мама, Пусть всегда буду Я!——ДЕТИ ДОНБАССА」

日本語にすれば、「いつもママと一緒に、いつも私と一緒に!——ドンバスの子どもたち」となるだろうか。

「ドンバス」というのは、ウクライナ東部の地域名だ。2022年に始まったロシアによるウクライナの侵攻で連呼されたので、聞き覚えがある方もいるかもしれない。

日経新聞記事より。

そもそもロシアがウクライナに侵攻した口実の一つは、「ドンバス地域のロシア系住民・親ロシアの保護」である。
したがって、ロシアの言い分としては、「ドンバスにいる私たちの仲間がウクライナによって迫害を受けている!助けなくてはいけない!」となる。


なお、ロシア・ウクライナの戦争については、以下の朝日新聞の記事がとてもわかりやすいのでおすすめです(佐藤達弥・石橋亮介「【そもそも解説】ロシアはなぜ侵攻したのか? ウクライナ危機の背景」朝日新聞デジタル、2022年3月23日)。

より詳しく知りたい人は、現代の専門家であれば小泉悠さんや高橋杉雄さん、キャスターであればテレ東の豊島晋作さんなどの解説や書籍がわかりやすいと思います。COTEN RADIOもおすすめです。


せっかくなので、この展示をもう少し詳しく見ていきたい。

写真の奥側に見えるのは子どもたちの顔写真とエピソード。これが延々と続いている。いくつか抜粋しよう。

ディーマ - 8歳
「戦争が始まった日、彼は母親と公園にいました。爆発音を聞いたとき、最初は花火だと思いました。しかしすぐに、それが航空機の攻撃だと分かりました。」

ヴィオレッタ - 9歳
「少女はアレクサンドロフカ集落に住んでいます。居住地の一部は『グレーゾーン』にあります。子どもたちは破壊された家の庭で杏を集めることができ、100メートル先の端では時々銃撃戦が起きています。自動小銃の発砲音と混ざり合う子どもたちの笑い声 - これが前線の本当の姿です。」

イリヤ - 9歳
「3年間の戦争で、少年たちはますます兵士のようになっています。イリョーシャは、彼の家のガレージに地雷が落ちた場所を知っています。彼は地雷がどこから飛んできたのかを永遠に覚えています。」

ウクライナによる迫害を受けていると主張する展示には、(正当性は一旦置いといて、)子どもたちの生々しい日常が綴られている。

こう聞くと、どうしても被害者に同情せざるをえない。私も単純に、子どもたちがこんな目に遭ってはいけないと強く感じた。




「被害者」という強い記憶

ユダヤコミュニティセンターの展示も、モスクワの展示も、「私たちは被害者だ」と訴える。「こんなことを許していいのか」と。

あえてバイアスのかかった言葉遣いをすると、「被害者という口実を使って、機を逃さず責め立てる」。
この構造は似たようなものではないかと感じてしまった。

記憶は時に人々を結び付け、時に分断する。
記憶は、過去を物語化し、単純化する。覚える事実があれば、忘れ去られていく事実もある。集団的な記憶にそぐわない事実は忘却されてしまう。

これは何も、他人の遠い話ではない。
東アジアにも、厳然たる問題として残り続けている。

異なる記憶を持つ人々が、わかりあうことはできないのか。
わかりあうためには何が必要なのか。

長い間をかけて積み上げられてきた多層的な記憶は、一夜にして転換するわけではない。

若干重い気持ちになりながら、私はまた石畳を歩き始めた。


今度の電車はキャンセルされませんように。


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