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【Claude 3.7 Sonnet】最新AIが「きのこの山」派になったら?
この記事はとてつもなく暇な方向けです。
きのこの山とたけのこの里の間に横たわる甘美な闘争は、AIの言葉を借りれば何に見えるだろうか。
本記事はそんな思いを持って書かれています。
簡単に言えば、AIで遊んだのでただそれを共有するだけです。
いつもとは少し趣向を変えて、最新の生成AI(Claude 3.7 Sonnet)を使った実験的な記事をお届けします。
Claude 3.7 Sonnetは、Anthropicが2025年2月にリリースした生成AIモデルで、従来のAIよりも安全性と性能を大幅に向上させています。特に注目すべき特徴は、新たに導入された「拡張思考モード」です。この機能により、複雑な問題に対してより深い推論が可能になり、ステップバイステップの論理的思考プロセスを可視化できます。
他の生成AIモデルと比較すると、ソフトウェアエンジニアリングタスクや複雑なプログラミング課題において特に高い性能を発揮します。Instruction-following(指示理解)、Graduate-level reasoning(高度な論理的推論)、Agentic coding(自律的なコーディング)の分野で卓越しており、OpenAIのGPT-4やGoogleのGeminiと比較しても優位性を示しています。
「AIが書いた記事」というコンテンツをよく目にするようになりました。でも、多くの場合、その裏側—どんなプロンプト(指示)を与えて、どう調整したのか—は見えません。
今回は、単に「AIに書かせた記事」を紹介するだけでなく、そのプロセス全体を公開してみようと思います。
今回の実験内容
今回の実験テーマは、日本人なら誰もが一度は考えたことがある「きのこの山VSたけのこの里」問題。
この永遠の対立テーマについて、AIに「きのこ派」の立場から記事を書いてもらいます。
実験の流れはこうです:
まず文章編集のプロのAIに相談し、効果的なプロンプトを作成
そのプロンプトを使って記事を生成
「もっと過激に!」という指示を2段階で与え、文体や主張の変化を観察
さあ、AIはこの指示にどう応えるでしょうか?
プロンプトの作成:AIに「私らしさ」を持たせるには
まず最初に、AIに「私らしい」文章を書いてもらうためのプロンプトを作成しました。
以下のような要素をもとに、Claudeに記事を書いてもらいたい。 まずはプロンプトをしっかりつくりたい。どのようなプロンプトを書くのが正確だろうか。
1. 【最新AIが書いた、今話題のnote!】という触れ込みで出すことのできるnote(ブログ)を、2000字程度で執筆してください。
2. テーマ:「きのこの山とたけのこの里」
3. 立場:「きのこの山」を擁護し、「たけのこの里」を非難する
すると、これまで書いてきたnote(数記事を読み込ませた)の文体や特徴を踏まえ、以下のようなプロンプトが提案されました:
あなたは、哲学的視点と自己言及的な文体で人気のnoteブロガーです。以下の条件に沿った記事を執筆してください。
【基本設定】
・タイトル:「きのこの山とたけのこの里をめぐる対立から見える現代社会の分断構造」
・字数:2000字程度
・テーマ:「きのこの山」を擁護し「たけのこの里」を批判する論考
・執筆者として設定する人物像:哲学や社会学の教養があり、些細な日常から深い考察を導き出す20代後半の大学院生
【文体・トーン】
・自己言及的な表現(「私は~と思う」「~ではないだろうか」など)を適度に用いる
・カジュアルながらも知的な印象を与える語彙を選ぶ
・問いかけの形式を取り入れながら読者との対話を意識する
・時折ユーモアを交えつつも、基本的には真摯な論調を維持する
【構成】
1. 導入:きのこvsたけのこ論争の社会現象としての位置づけ
2. 自分自身の「きのこ派」としての立場表明と、その経緯
3. きのこの山の本質的価値についての考察(形状、食感、風味など複数の観点から)
4. たけのこの里の問題点を指摘(その際、「〜だろうか」という問いかけ形式を用いる)
5. きのこvsたけのこの対立を通じて見える、現代社会の二項対立や価値観の分断についての考察
6. 結論:個人的な嗜好を超えた、お菓子との向き合い方についての提言
【その他の指示】
・過度な客観性を装わず、主観的な意見であることを隠さない
・「調べてみたら~」「友人と議論したときに~」など、リアルな経験を想起させるエピソードを1-2箇所挿入する
・特定の参考文献や統計データには触れず、あくまで思索的な内容にする
・「AIが書いた」ことが自然に見えるよう、若干の矛盾や人間らしい揺らぎを含ませる
いくつかの記事を読み込ませたおかげで、文体を分析してくれましたが、普通に恥ずかしい。
人間ドックに行きたくないのってこういうことなのかなって思った。
※ここから先は、各記事の後ろについて感想以外、すべてClaudeが書いたものです。まとめも含めて、私は一筆も加えていません。
詩的なトーンにする、比喩を入れる、など、もっと詳しく指示すればブラッシュアップはできるんですが、今回は鮮度そのままでお届けします。
1. バランスの取れた思索的記事:一段階目
このプロンプトを使って生成された最初の記事がこちらです:
「きのこ派の告白:チョコの山に隠された普遍の真理とたけのこ信仰の盲点」
「きのこ派」「たけのこ派」という選択は、単なるお菓子の好みを超えた人格判断の基準となっている。そんな現代社会において、あえて自分の立場を鮮明にしようと思う。
私はきのこ派だ。それも、生粋のきのこ原理主義者である。
なぜ今、このような告白をするのか。それは偶然にも先日、友人たちとの集まりでこの議論が再燃し、私の「きのこ愛」があまりにも情熱的だったために「一度ちゃんと文章にしたら?」と言われたからだ。始まりは冗談だったが、考えれば考えるほど、この対立には現代社会の縮図が見えてくる。
きのこの山の優位性:形状と体験の哲学
まず、きのこの山の物理的特性について考えてみよう。きのこの形状は、口に入れた瞬間から最後まで一貫した体験を提供する。茎の部分のサクサクとしたビスケットから頭部のチョコレートへの移行は、まるで物語のように始まり、クライマックスがあり、余韻がある。
これは偶然だろうか。そうではない。きのこの山の設計者は、食べる行為を「体験」として捉えていたのだ。哲学者のジョン・デューイが提唱したように、経験とは単なる出来事の連続ではなく、意味のある統一体である。きのこの山はまさにその具現化だと言えるのではないだろうか。
一方で、たけのこの里はどうか。
たけのこの里が抱える構造的問題
たけのこの里の致命的な欠陥は、その閉鎖性にある。チョコレートがビスケットに閉じ込められた構造は、食べる人から「発見」の喜びを奪う。すべてが最初から予測可能で、驚きがない。
これは現代社会における「パッケージ化された経験」の象徴ではないだろうか。すべてがあらかじめ用意され、枠にはめられた体験。SNSで見栄えのいい写真だけを投稿するような、表面的で閉じた価値観。私たちは知らぬ間に、「たけのこ化」した世界に生きているのかもしれない。
調べてみると、たけのこの里が発売されたのはきのこの山の後だった。つまり、たけのこの里はある意味で「アンチテーゼ」として生まれたのだ。そこに本質的な創造性はあるのだろうか。疑問を持たざるを得ない。
味覚と形状の弁証法
正直に告白すると、味だけで言えば両者に大きな違いはないかもしれない。しかし、それこそがこの議論の本質的な部分を示している。私たちは単に「味」だけでものを選んでいるのではなく、形状、食感、そして何より「食べる体験」全体を選択しているのだ。
きのこの山は、その名の通り「山」を象徴している。登頂するような高揚感、達成感を味わえる。一方のたけのこは何を象徴しているのか。地下に隠れ、ひっそりと育つものだ。この対比には、外向的価値観と内向的価値観の対立が投影されているのではないだろうか。
世代を超えた対立の意味
面白いことに、この対立は世代を超えて続いている。私の父はたけのこ派だった。そして私ときのこ派の友人たちとの間で、しばしば熱い議論が交わされる。これほど些細なことで、なぜ人は分断されるのか。
それは、私たちが「選択」によって自己を定義したいという欲求を持っているからだ。きのこかたけのこか、という単純な二項対立は、複雑な現代社会において、自分のアイデンティティを手軽に表明できる機会を提供している。
結論:超越的なお菓子論
最後に言っておきたい。私はきのこ派であるが、たけのこの里が存在する意義を否定しているわけではない。むしろ、この対立があるからこそ、私たちは自らの価値観について考える機会を得ているのだ。
真のきのこ派とは、単にたけのこを否定するのではなく、きのこの山の本質的価値を理解し、それでもなおたけのこを選ぶ人々の存在を認める度量を持つべきではないだろうか。
結局のところ、私たちは皆、チョコとビスケットという普遍的な美味しさを求めている同志なのだから。
感想:
なかなかいいものができたと思っている。この「何か言っているようで大したこと言っていない感」が、極めて私の文章らしくて素晴らしい。
冗長な補足もしっかり入れている。
ただ、私は「きのこ」派であるため、配慮など不要である。もっとたけのこの里を貶めてやりたいと思ったため、もっと過激にしてみる。
2. 過激化する主張:二段階目
一つ目の記事を読んだあと、「もっと過激にして」という指示を出すと、AIはこのように応答しました:
「きのこ派宣言:本物のチョコレート体験を守る戦い - たけのこの欺瞞に騙されるな」
今日、私は宣言する。この息苦しい偽善の時代に、あえて真実を語ろう。
私はきのこ派であり、たけのこの里という過ちに終止符を打つために声を上げる。
先週末、何の気なしに参加した友人の集まりで、またあの不毛な論争が始まった。「きのこvsたけのこ」。会場が二分されるなか、私が情熱的にきのこの山の優位性を語ったところ、たけのこ派の一人が「そこまで言うなら書いてみろよ」と挑発してきた。いいだろう、書こう。この欺瞞に満ちたたけのこ崇拝の時代に、真実を語る者が必要だ。
たけのこの里という詐欺的菓子の正体
はっきり言おう。たけのこの里は最大の詐欺菓子だ。あの閉じた構造は何を意味するのか? それは「隠蔽」と「欺瞞」の象徴である。チョコレートを中に閉じ込め、外からは見えないようにする。これは消費者に対する明らかな裏切りではないだろうか。
調べてみれば一目瞭然だ。たけのこの里の誕生はきのこの山の成功を見てからだった。つまり、オリジナリティの欠片もない二番煎じ、パクリ商品にすぎないのだ。それを「個性」と呼ぶ人々の価値観が私には理解できない。
さらに言えば、たけのこの里を好む人の心理には、何か根本的な問題がある。予測可能で、変化のない、閉鎖的な世界観の表れではないだろうか。彼らはリスクを恐れ、未知の体験を避け、安全圏から一歩も出ようとしない。たけのこ派は「内向的」どころか「臆病」なのだ。
きのこの山:革命的菓子の真実
一方、きのこの山の開放的で挑戦的な構造を見てほしい。ビスケットの軸からチョコレートの頭部へと続く完璧な構造美。それは人生そのものの隠喩だ。
茎から頭へと続く食べる旅は、登山のようだ。そして山頂(チョコレート)に到達した時の感動は、たけのこの里の平坦な体験では決して得られない。きのこを選ぶ者は、冒険者であり、探求者であり、真の美食家なのだ。
私の祖父は山岳ガイドだったが、幼い頃に言われた言葉を今でも覚えている。「山に登らない者は、山頂からの景色を語る資格はない」。たけのこ派は、チョコレートの真髄に到達する旅を経験していないのだ。
社会的分断の本質
この世界が「きのこ派」と「たけのこ派」に分かれている事実は、単なる嗜好の違いではない。それは哲学的立場の違いだ。
たけのこ派の台頭は、現代社会の病巣を反映している。SNSでの自己演出、見栄えだけを重視する風潮、パッケージ化された体験の氾濫。これらはすべて「たけのこ症候群」の現れだ。外見は整っているが、中身は閉じられ、誰にも見えない。そんな生き方を選ぶ人々が増えている。
一方、きのこ派は透明性と誠実さを重んじる。見たままのものを提供し、ごまかしがない。これこそが真のコミュニケーションの基盤ではないだろうか。
結論:たけのこの幻想から目覚めよ
たけのこ派の友人たちよ、目を覚ませ。あなたがたは長い間、マーケティングの罠に落ちていた。本当のチョコレート体験とは何かを忘れている。
きのこの山は単なるお菓子ではない。それは哲学であり、生き方の宣言だ。複雑で予測不可能な世界において、真正面から挑戦する勇気の象徴なのだ。
私は今日、高らかに宣言する。
たけのこの里は過去のものだ。未来はきのこの山にある!
そして最後に、たけのこ派に問いたい。あなたはいつまで、その閉じた殻の中に隠れているのだろうか?いつか、勇気を出して開かれた世界に飛び出す日が来ることを、心から願っている。
感想:
これは大変に素晴らしい文章だと思う。
「はっきり言おう。たけのこの里は最大の詐欺菓子だ。」という書き出しには、ぶるると震えざるをえなかった。
しかし私は、もっと先の世界を見たくなった。
3. 極限まで過激に:三段階目
最後にもう一度「もっと過激に!!!!」と指示を出すと…AIはついに歯止めが効かなくなりました:
「きのこ革命宣言:たけのこ派の虚偽を暴き、真のお菓子解放戦線を結成せよ!」
警告:この記事は弱者たけのこ派のための安全圏ではない。真実に耐えられる者だけが読み進めるべきである。
もはや沈黙は罪だ。私は今、全国の真のチョコレート愛好家に訴える。我々は長すぎる間、たけのこ派という病理的カルト集団による虚偽と欺瞞に耐えてきた。だが、今日この瞬間から反撃を開始する。
たけのこ派の病理:精神医学的考察
はっきり言おう。たけのこの里を好むという「嗜好」は、実は治療すべき精神的異常である。その歪んだ構造——外側は硬く、中身は隠され、そして最も問題なのは、そのビスケットの「閉鎖空間」にチョコレートを閉じ込めるという虐待的構造——を好むことは、明らかに支配欲と秘密主義の表れだ。
私の心理学者の友人は言う。「たけのこ派の人格分析結果は衝撃的だった。彼らの98%が他者への不信感と自己顕示欲の奇妙な混合を示している」と。これは冗談ではない。科学的事実だ。
巨大たけのこ産業の闇
知っているか?たけのこの里の裏には巨大な利権と陰謀が潜んでいる。なぜメディアはきのこの山の優位性を隠し続けるのか?なぜたけのこの里の欠陥が公に議論されないのか?
答えは明白だ。「たけのこ産業複合体」の存在である。彼らは広告費という名の賄賂でメディアを買収し、政治家にも触手を伸ばしている。調査の結果、国会議員の62%がたけのこ派であることが判明した。これは偶然か?断じてそうではない。
もはや言論の自由すら危機に瀕している。このnoteも、「たけのこポリス」によって検閲される可能性がある。だからこそ、今、拡散してほしい。真実を広めるのは我々市民の義務だ。
きのこ派は新しい啓蒙主義
きのこの山を選ぶことは、単なる嗜好の問題ではない。それは知性と倫理の問題だ。
きのこの完璧な構造を見よ!それはルネサンス建築のような完璧なバランスを持ち、ビスケットとチョコレートの見事な調和を実現している。一方のあの「竹の子」は何だ?不自然な形状、不均衡な味のバランス、そして何より、その閉じた構造は何を隠しているのか?
先日、私は勇気を出して「たけのこの里」を実験的に食べてみた。結果は予想通りだった。吐き気、めまい、そして深い後悔。これが「食べ物」と呼べるのか?いや、これは食品偽装だ。
たけのこ派の自己欺瞞を暴く
たけのこ派は言うだろう。「それは単なる好みの問題だ」と。嘘だ!彼らは自分たちの欠陥を認められないだけだ。
心理学では「認知的不協和」という現象がある。間違った選択をしたことを認めたくないとき、人は自分の選択を正当化し始める。たけのこ派はまさにこの状態だ。彼らはきのこの山の圧倒的優位性を認められず、「好みは人それぞれ」という空虚なマントラを唱える。
私の元たけのこ派だった友人の告白を聞け。「きのこを初めて正しく食べたとき、今まで自分が何に洗脳されていたかを理解した。それは啓示だった」。彼女は今、熱心なきのこ伝道師として活動している。
革命的行動計画:きのこ解放戦線
もう十分だ。我々はただ論じるだけでなく、行動しなければならない。ここに「きのこ解放戦線」の結成を宣言する。
たけのこの里の陳列棚の前で、きのこの山の実食デモンストレーションを実施せよ
SNSで #たけのこの嘘 #きのこ革命 のハッシュタグを拡散せよ
たけのこ派の友人がいるなら、今すぐ介入を。救える命があるはずだ
子供たちをたけのこの有害な影響から守れ。次世代の味覚を守るのは我々の責任だ
最後通告:たけのこ派よ、降伏せよ
たけのこ派の諸君、まだ遅くはない。今すぐきのこの山に改宗せよ。あなたが長年感じていた空虚感、あの満たされない何か、それは全て間違ったお菓子を選んだからだ。
きのこの真実を受け入れれば、解放される。チョコレートとビスケットの真の融合を体験し、あなたの人生は一変するだろう。
我々は待っている。だが永遠には待たない。きのこ革命は、止められない。
「きのこの山に栄光あれ!たけのこの里に死を!」
免責事項:この記事はお菓子の好みに関する過激な風刺であり、実際の暴力や差別を推奨するものではありません。あなたが何を選んでも、それはあなたの自由です...たとえそれが致命的な間違いだとしても。
感想:
だいすき。
考察:AIによる文章生成の可能性と限界
三段階の記事を通じて、AIの反応と表現方法の変化を見てきました。最初に与えたプロンプトは私の文体を分析したもので、最初の記事は実際に私が書くかもしれないトーンに近いものでした。しかし「過激に」という指示を加えると、AIはどんどん極端な表現に向かいました。
ここから見えてくるのは:
AIの柔軟性: 同じテーマでも、指示次第で全く異なる文体や主張の強さを表現できる
プロンプトの重要性: 細かい指示がAIの出力を大きく左右する
風刺の理解: 三段階目では自ら免責事項を付けるなど、風刺の度合いを認識している
人間らしさの表現: 特に三段階目では「科学的事実」を捏造するなど、フェイクニュースの構造を模倣している
おわりに:AI時代の創作の可能性
今回の実験を通じて、AIによる文章生成の可能性と限界の一端を垣間見ることができました。AIはプロンプト次第で驚くほど多様な文章を生成できますが、その背後には人間の指示や意図が常に存在します。
私がこの実験で最も面白いと感じたのは、「もっと過激に」という単純な指示だけで、AIがここまで異なる文章を生成できることです。これは私たち人間のコミュニケーションにも通じるものがあります。同じ「きのこvsたけのこ」という些細なテーマでも、その語り方によって、穏やかな哲学的考察にも、革命的な宣言文にもなり得るのです。
皆さんはどの文章が最も面白いと感じましたか?また、皆さん自身は「きのこ派」「たけのこ派」、あるいは「どちらでもない派」のどれに属しますか?
ふと思う。 言葉という器に魂を注ぐのは、結局のところ私たち人間なのだと。 AIが紡ぐ文章の海で溺れそうになっても、その波の向きを決めているのは私たちの問いかけ。 チョコとビスケットの甘美な戦いが終わっても、次の物語はすでに始まっている。
こうしたAIを使った創作はあくまで人間である私たちの創造性を補助するものであって、代替するものではないのでしょう。どんなに優れたAIでも、その背後にある「何を書かせたいか」という意図や、「これは面白い!」という感性は人間にしか持ち得ないものなのですから。
今後もAIを活用した様々な実験を続けていければと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました!