架空の人物・国司播磨守有忠は、実在した!?そのモデルの生涯に迫る【橘俊綱】
架空の人物・国司播磨守有忠は、実在した!?そのモデルの生涯に迫る【橘俊綱】
NHKの「趣味どきっ」を見ていたら、「刀剣lovers」と代して刀剣の特集をしていました。
テキストを見るとそこに国司播磨守有忠という人物が描かれています(ん?国司播磨守有忠?聞いたことがない…)。
気になった私は、早速辞典からネット検索をかけます。しかしほとんどヒットせず…(国司播磨守有忠ってどなた様ですか…)
よくよく調べてみると、『北野天神縁起絵巻』に登場する人物とのこと。モデルもいるようなんです。
ここでは『愚管抄』などの日記の記述を頼りにしつつ、道明寺天満宮のサイトを参考にして本文を組み立てました。
国司播磨守有忠について見ていきたいと思います。
●国司播磨守有忠って何者?
『北野天神縁起絵巻』に登場する国司播磨守有忠って何者?
実際に名前のひとつひとつを分化して見て見ましょう
国司→朝廷の中央官僚(上から守→介→丞→目)。
播磨守→播磨国の長官(現代でいう知事)。
有忠→諱(いみな)と考えられる。
『北野天神縁起絵巻』は、天神様こと菅原道真公の波乱の生涯を描いた絵巻物です。その一節に播磨守有忠という人物は登場します。
以下、簡単に見て見ましょう。
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西七条の銅細工師には妻と二人の娘がいました。
承保2(1075)年、細工師の妻は病で世を去ってしまいます。妻の死後、細工師は後妻を迎えますが、ここで家庭内に問題が起きていました。後妻は先妻の残した二人の娘をひどくいじめていたのです。
困った二人は北野社に参籠。そこで国司播磨守有忠と出会いを果たします。
有忠が二人を助けたことで、姉の方は有忠と結婚。やがて妹は朝廷に宮仕して、帝の手が付いて皇子を出産します。
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この絵巻の一節は、道真公を祀る北野社と関わる形で描かれています。
当時で言えば利生記、現代風に言えばシンデレラストーリーというところでしょうか(不謹慎な言い方だったらすいません…)。
● 国司播磨守有忠の真実〜モデルとなった貴族がいた?〜
ちなみに見ていて、どこか不思議に感じませんか?
そうです。国司播磨守有忠には姓が無いんですよ。
通常、官位をもらった人間は「姓+官位+諱」で表記されるものです。しかしこの「国司播磨守有忠」という人物には姓が書き込まれていません。「源の〜」とか「平の〜」というやつです。書き込まれていないのはなぜでしょうか?
考えられるの①姓がない②姓があるが差し障りがあるので書けない、の二つです。当然、①ではなく②に近いでしょう。ではなぜ、姓を書くことができないんでしょうか?
通常、物語にはモデルがいることが多いですよね。
『源氏物語』や『平家物語』も、モデルや実在した人物が登場します。完全なフィクションであった、というのはむしろ稀有です。
創作物である場合、モデルが誰か特定されれば問題になることがあります。これは現代でも同じことがありますよね(具体的な事例は避けます。それこそ差し障りがあるので…)。
物語の承保2年ですが、同時代前後に播磨守であったと思われる人物がいます。境遇も国司播磨守有忠と似ている?ので、モデルとなったと考えられます(多分ね)。その人物の名前は「橘俊綱(たちばなのとしつな)」と言います。
●国司播磨守有忠のモデル・橘俊綱の不遇な前半生
長元元(1028)年、橘俊綱は関白・藤原頼通の次男として生を受けました。生母は側室・藤原祇子です。
父・頼通は御堂関白・藤原道長の嫡男であり、自身も宇治殿と通称される藤原氏一族の頂点にいた人物でした(華麗なる一族ってやつです)。
当時の家督継承権は、正室所生の長子に与えられるのが通常です。
頼通の正室は振姫女王(村上天皇の孫娘)という人物でした。しかし振姫女王は子供に恵まれておらず、正室所生の子供は不在となります。
俊綱には、同じく側室所生の異母兄・藤原通房がいました。
通房は早くから嫡男として養育され、正室に振姫女王の弟の娘を迎えて結びつきを強めていました。
しかし俊綱に与えられた待遇は、通房とは対極的なものでした。
振姫女王への配慮(嫉妬ともされる)から、俊綱は讃岐守(讃岐国の長官国司)である橘俊遠の養子とされます(ここら辺は『北野天神絵巻』のモチーフと重なる部分もありますよね)。
長久4(1043)年、通房はわずか20歳で病没。将来の藤原氏の家督相続者の地位は空白となってしまいます。
この後、父・頼通は俊綱の同母弟・師実を嫡男として認定しました。
本来であれば、血筋や順序から言っても、俊綱が嫡男に認定されてもおかしくはありません。
位人臣を極めるはずが、一転して地方の長官の養子へと追いやられた形となってしまいました(俊綱さん、気の毒です…)。
●橘俊綱、国司播磨守有忠と同じ役職に就く
橘氏の一族となった俊綱は、国司として様々な国を統治していきました。一体、どんな国司だったんでしょうか?
当時の国司には、主に2つの働き方のタイプがあります。以下簡単に説明しますので見てみましょう。
受領(ずりょう)→現代風に言えば単身赴任。現地に赴いて行政を担当します。
遙任(ようにん)→現代風に言えばリモートワーク。自分は京都にいて、現地には代理人を派遣します。
俊綱は受領として現地に赴く道を選びます。
永承3(1048)年、越前権守に就任。同職は越前国における定員外の長官国司でした。
永承7(1052)年頃には尾張守に就任。天喜4(1056)年には、従四位下に叙任されて丹波守に就任しています。
治暦2(1066)年に播磨守に就任。このとき『北野天神絵巻』のモデルとなった役職を務めた形です。
俊綱が国司を務めた丹波や播磨は、上国(人口や経済、生産力が優れた国)でした。
国司には裁判権のほか、租税徴収権が与えられています。すなわち赴任した国の大小によって収入が違うのが通常でした。
俊綱の上国の国司就任の裏には、父・頼通の存在があったことは確実です。頼通は家督相続権者でなくても、俊綱の生きる道を支えようとしていました。
●国司播磨守有忠と同じ逆転人生を送る
俊綱の人生は通常の平安貴族とは違い、自分で道を切り開く強かさも求められていました。
延久6(1074)年、父・頼通が病で世を去ります。俊綱にとっては最大の庇護者を失った瞬間でした。
しかし俊綱は、自らが築いた確かな地盤を生かしていきます。
俊綱は正室に権大納言・源隆国の娘を迎えていました。隆国の長男・隆俊(俊綱の義兄弟にあたる)の孫娘が藤原賢子(藤原師実の養女)です。
藤原賢子は入内して白河天皇の中宮に冊立。俊綱は出身の藤原氏と協調して政治的力を増大させていきます。
承保4(1076)年には、大国(上国より上の国)である近江国に赴任。近江守として任務にあたります。
俊綱は莫大な収入を得ると同時に政治的立場を確立。加えて京においても修理大夫などの要職にも叙任されていました。
●国司播磨守有忠のモデル、日本の歴史と地名に大きな足跡を残す
出世街道を歩む一方、俊綱は自らの趣味を大事にしていました。
俊綱は現在の桃山丘陵の南麓・指月の丘に伏見山荘を造営。巨椋池を見渡せる位置に別荘を築きます。
造園に対する精通ぶりは、群を抜いていました。
俊綱は『作庭記(日本最古の庭園書)』を著述(諸説あります)。後世の造園に影響を与えています。
伏見山荘は「風流勝他、水石幽奇也」と絶賛されていました。俊綱自身も鳥羽殿(白河上皇が造営)より優れていると言葉を残しています。
このとき、国司播磨守有忠のモデルである橘俊綱は、大貴族の一人として朝廷の内外に影響力を持つまでになっていました。
俊綱は「伏見長者」と称され、連日のように伏見山荘で貴族たちと詩歌や管弦に耽ったと伝わります。
寛治8(1094)年、俊綱は病を得て出家。程なくして世を去りました。
俊綱の死後、伏見山荘は白河上皇に寄進されます。そのご後白河上皇に伝来し、伏見宮家まで伝わりました。
桃山時代には、豊臣秀吉が隠居用として桃山丘陵に伏見城を築城。一時は旧伏見山荘の一帯が天下の中心となります。
架空の人物である国司播磨守有忠ですが、実際は確かな足跡を残し、そこに多くの人物たちが関わっていました。
【参考文献】
「天神縁起絵扇面貼交屏風」道明寺天満宮HPhttps://www.domyojitenmangu.com/byobu.html
『愚管抄 全現代語訳』 講談社 2012年