大谷吉継の死に様

慶長五年七月二日、佐和山城ーー。

 石田治部少輔三成は、手にしていた扇をぴしゃりと閉じると、意を決したように、目前の白頭巾の男に語りかけた。

「慶松よ、実はのう、お主と内々に談合したき儀があるのじゃが」

 大谷刑部少輔吉継、幼名を慶松という。

 三成とはいまだ幼名で呼び合う刎頸の友であり、豊臣政権をともに支えてきた重臣同士でもある。

 然るに、三成が秀吉没後の政権を託された五奉行の筆頭に据えられたのに対し、吉継は五奉行の中には数えられていない。何故かならば、彼は重い病を患っていたからである。

 天刑病、現代でいうハンセン氏病を罹患していた吉継は、膿み爛れた肌を人目に晒さぬよう、常に頭巾で面体を覆い、両腕に白布を巻き付けていた。

 さらに、この当時はすでに肌の膿ばかりでなく、全身が病に蝕まれていた。両目は失明しつつあり、関節は変形しはじめて、一人では起居も儘ならなかった。

 かかる病状にも拘わらず、彼の存在が政権内に暗に重きをなしているのは、多くの者が彼の能力を知り、彼の徳を慕っているからである。

 所謂「賤ヶ岳七本槍」の一人として、華々しい武功話に事欠かないうえ、行政手腕も高く評価され、石田三成に次ぐ優秀な官僚としても活躍してきた。

 太閤秀吉の生前、病を理由に幾度も隠居を申し出たが、秀吉が彼の能力を惜しんで、遂に隠居を許さなかった、とも伝わっている。

 吉継は、暫時、無言で三成を見つめていた。

 とはいえ、光を失いかけている彼の眼には、三成の表情までは見えていない。

 やがて吉継は、頭巾に覆われた顔を斜め後ろに向け、背後に控えていた侍臣に声をかけた。

「湯浅、下がっておれ」

 湯浅五助は、影の身に添う如く吉継に仕える近臣である。今では、吉継に代わってものを見る眼であり、吉継の躰を支える杖の役目も果たしていた。

「はっ、しかし」

「よいわ。下がりおれ。用があれば呼ぶ」

 五助が下がり、部屋には三成と吉継だけが残った。

 三成が口を開こうとすると、制するように吉継の右手が上がった。

「佐吉よ、皆まで云うな。お主の謀、気付かぬ儂と思うてか」

「知っておったか」

 ーー徳川打倒の挙兵計画を。


 豊臣秀吉は逝去を前にして、有力大名のうち五人を五大老、譜代の重臣のうち五人を五奉行と定め、自身亡き後の政権を託した。継嗣・秀頼が未だ幼く、自ら政務を執る能わざる身であったためである。

 然るに、慶長三年八月、果たして秀吉が世を去ると、五大老の筆頭・徳川家康は、自ら天下を穫らんとの野望を露わにしはじめ、秀吉の遺命を次々と破った。

 それでも五大老の次席格であり、秀吉の盟友であった前田利家が存命のうちは、力の均衡が保たれていた。

 しかし、慶長四年閏三月、利家が病に没すると、家康の専横が弥増して目立ちはじめた。

 一方、家康に対抗すべき秀吉譜代の重臣連は、三成を筆頭とする能吏派と、加藤清正ら武功派とが分裂し、事ある毎に対立していた。

 能吏派の背後には、秀頼生母・淀殿がおり、一方、武功派には秀吉の正室・北政所が後ろ盾していた。

 その対立は頂点まで高まり、遂には、前田利家逝去の当にその夜、清正らが三成を襲撃する事態に発展した。すると、仲裁に入った家康の命により、何故か襲われた側の三成が、居城・佐和山城に蟄居せられるに至った。

 斯くして三成を政権から除いた家康は、慶長五年六月、やはり五大老の一人である上杉景勝に謀反の兆しあり、と難癖をつけ、遂に大規模な上杉征伐の兵を挙げた。自らの天下取りの障害となる存在を、すべて除かんとする家康の企てであった。

 とはいえ、家康の挙兵は、少なくとも形の上では、豊臣政権による正規の軍事行動である。

 大谷吉継も、上杉討伐に加わるために居城・敦賀城を出立。途上、垂井に宿したところを三成に招かれ、佐和山城に立ち寄ったのである。

 そこで、三成は、予てより密かに進めていた家康討伐の挙兵計画を、吉継に打ち明けようとしたのであった。


「無謀じゃ。無謀にもほどがあるわ」

 吉継は斬って捨てるように云った。

「無謀、か」

 三成は、閉じた扇で自らの膝を軽く叩きながら嘆息した。

「如何にも、無謀かも知れん。じゃがな、慶松、やらねばならぬのじゃ。分からぬお主ではなかろう」

 分かる。痛いほどに、分かる。

 今日の我らがあるのは、なべて秀吉公の恩顧によるもの。亡き主君の遺命を奉じて、政権を維持してゆくことこそが、恩義に報いる道である。そのためには、天下を掠め盗らんとする徳川家康の野望を、打ち砕かねばならぬ。

 三成は、そう云いたいのである。

 分かりすぎるほどに、分かっている。

 ーーしかし。

「分からぬわ!」

 吉継は声を荒げた。

「よいか佐吉、徳川内府殿にあって、お主にないものが、五つある」

 すぐに声をやわらげ、諭すような口調になった。

「衆望、経験、財力、兵数、人材。この五つじゃ。どれを取っても、お主は内府殿の足下にも及ばぬ。万に一つも、勝ち目はないわ」

 吉継は、続けて説いた。

 天下の趨勢は、徳川に傾きつつある。これを覆すのは、最早不可能であろう。であれば、徳川の天下の中で、豊臣家を生かす道筋を付けるのが、我ら太閤恩顧の臣の役目ではないか。

 吉継の諫言を、瞑目しながら聞いていた三成が、眼を開け、天を仰いだ。

「それでも、やらねばならぬのじゃ」

 呟くように云った三成は、いきなり畳に両掌を突き、がばと叩頭した。

「頼む!このとおりじゃ!慶松よ、儂に力を貸してくれ。お主が必要なのじゃ」

 畳に頭を摺り付ける三成を前に、吉継は沈黙した。三成は、そのまま暫し頭を畳につけた儘だった。

 やがて、吉継が口を開いた。

「断る」

 頭を上げた三成に、吉継は言葉を続けた。

「お主も詮無き企ては捨てるがよいわ。あたら命を無駄にするものではない」


 佐和山城を後にした吉継は、垂井に留まっていた。

 迷っていたのである。

 このまま、関東に軍を進め、家康の軍と合流すべきか。

 しかし、そうすると、家康に三成の計画を告げざるを得ない。それは即ち、三成と敵対することを意味する。

 では逆に、三成に与同して、家康と対峙すべきか。

 三成の胸の内を知ってしまった以上、いずれかを選ばねばならない。吉継にとって、謂わば究極の選択。

 実利を取るならば、当然、家康に与すべきである。吉継自身が三成に説いたとおり、家康の勝ちは、火を見るより明らかだからだ。

 しかも、大名にとって勝ち馬に乗ることは、単に保身を意味するものではない。多くの家臣や領民を抱え、彼等の生活に責任を負う領主として、それが自然な選択なのだ。

 にも拘わらず、吉継は迷っていた。

 豊家に対する忠義の故、というより、三成に対する友情の故であった。

 吉継が家康の知己を得たのは、秀吉の小田原征伐の際に、友軍の将であった家康への使者を務めたときである。以来、家康と私的に交際を重ね、その人となりを承知していた。

 人心を掴む細やかな配慮、時に果然と事を起こす胆力、先の世を見通すが如き遠謀。このような人物が天下を取ってこそ、世は真に泰平となるのではないか。

 本気でそう思っていた吉継にとって、豊家に対する忠義とは、最早、豊臣の天下を維持することではなく、徳川の天下となっても豊臣の家を残すことを意味していた。

 なればこそ、吉継が迷うのは、ただ三成との友情の故であった。

「殿、茶をお持ちしました」

 障子の外から声がかかり、吉継は思考を中断された。

「入れ」

 湯浅五助が、小者に持たせることをせず、自ら茶碗を運んできた。そしてそのまま、吉継の手を取り、碗を握らせた。

 視覚を失いかけていても、 茶碗から掌に伝わる熱や、立ち上る湯気を感じることはできる。

 吉継は、茶碗を口に運ぼうとして、ふと手を止めた。

 鼻腔を擽る茶の香りが、突如、ある記憶を蘇らせたのであった。

 

 ーー秀吉存命中のことである。

 主立った家臣が茶席に集められたことがあった。

 茶匠でもある織田有楽斎の点てた茶を秀吉が一口呑み、茶碗を近くの家臣に渡す。碗を受け取った家臣は、同様に一口呑み、隣席の者に渡す。次の者から、さらに次の者へ、次々に廻し呑みが続く。

 左の者から茶碗を受け取った吉継は、左手で頭巾の下の部分をめくり上げ、右手で碗を口元に運んだ。

 茶碗を口から離したとき、吉継ははっとした。

 膿汁が、一点の染みのように、茶のなかに浮いている。

 吉継の肌から落ちたものである。

 周囲の者も異変に気付いたようだ。

 しかし、主君秀吉から廻された碗を、途中で茶匠に戻すわけにはいかない。

 やむを得ず、碗をそのまま右の者に廻した。

 受け取った者は、碗のなかを見て、一瞬、顔をしかめたが、碗に口をつける振りをして、さらに右の者へ碗を廻した。受け取った者も、口をつける振りだけして、さらに右の者に碗を廻した。さらにその右の者も。

 最後に茶碗を受け取ったのは、石田三成であった。

 三成は、表情を変えず、茶をぐいと呑み干すと、何事もなかったように、織田有楽に碗を返したーー。


 吉継は、口元まで運んでいた茶碗を、一口も呑まずに膝上まで下ろした。

「湯浅、悪いが、今から皆を集めてくれぬか。儂から皆に諮りたきことがある」

 その夜、吉継主従は、石田三成の計画に与同することを、衆議一決した。

 家臣らは、負け戦を覚悟しながら、友情に殉ずる主君に付き従うことを決めたのである。


 七月十二日、佐和山城において軍議が持たれた。出席者は石田三成、大谷吉継に加え、安国寺恵瓊、増田長盛の四名。

 この席で当面の方針が固まると、吉継は、翌々日の十四日には敦賀に帰り、北陸方面の諸大名を味方に引き入れる工作を開始した。この工作は効を奏し、越前、加賀に領地を有する諸大名は、ほとんどが豊臣方に組み入れられることとなった。但し、例外もいた。即ち、前田利長。

 前田利家の継嗣である利長は、父と秀吉との関係からすれば、当然、此方に与して然るべきであった。そうしなかったのは、利家正室であり、利長にとっては生母である芳春院(まつ)が、人質として江戸に身を置いていたためである。

 七月二十六日に金沢を出立した利長の軍は、南進し、八月三日、大聖寺城を陥落せしめると、一路、越前の中心である北ノ庄を目指した。

 吉継は、これに対し、謀略戦で挑んだ。

 まず、忍びを野に放ち、「豊臣方が伏見城を押さえて上方を制圧した」、「上杉景勝が加賀・能登方面に進軍している」といったデマを巷間に流布せしめた。

 次に、表向き徳川方に付いていた戸田勝成に密かに働きかけ、「豊臣方が大挙して北国に向かっているので、いったん金沢に軍を帰して家康と合流すべきである」との注進を、利長に伝えさせた。

 さらには、利長の妹を正室とする中川宗半を密かに捕らえ、「大谷刑部(吉継)は、あなたの留守を狙って、陸路だけでなく、海路からも加賀に攻め込もうとしている」という、明らかに虚偽の内容を記した書状を送らせた。

 疑心は暗鬼を生ずる。多くの虚報に接した利長は、吉継の知謀にまんまと乗せられ、八月七日、兵を翻して金沢へ帰ってしまった。

 戦わずして勝ちを得る、吉継の知略の真骨頂であった。

 因みに、利長が再び金沢から兵を出したのは九月十一日。惜しい哉、四日後の関ヶ原の決戦には、間に合わなかったのである。


 七月半ばから八月にかけ、一度大阪城での軍議に赴いた以外は北陸を一歩も出なかった吉継であったが、九月一日、遂に北陸方面の諸隊を率いて進軍を開始し、早くも九月三日には、関ヶ原の西南に陣を敷いた。西進する徳川方が、関ヶ原を通ることを予測し、早くから待ち伏せて決戦の準備を始めたのである。

 関ヶ原合戦の、十二日前のことである。


「気がかりなことが一つ、ある」

 決戦間近となったある夜、三成の陣所に赴いた吉継は、三成と二人きりになると、さっそく切り出した。

「金吾殿のことであろう」

 三成が応じた。

 金吾とは、金吾中納言、即ち小早川秀秋のことである。

 三成と吉継は、当初、西軍の総大将として、五大老の一人毛利輝元を担ぎ上げるつもりであった。ところが、輝元があれこれと言い訳を連ねて大阪城から動かないため、代わりに担ぎ出したのが、豊臣家の縁者である、この弱冠十八歳の若者であった。

 秀秋は、豊臣秀吉の正室・北政所の甥である。子をなさなかった北政所が、願って秀吉の養子とし、一時は秀吉の後継者候補の一人と目されていた。しかし、淀殿が秀吉の実子(後の秀頼)を産むと、秀吉の後継者からは外され、毛利氏の分家・小早川氏に養子に出されてしまう。

 とはいえ、その後も、第二次朝鮮出兵(所謂慶長の役)に際して、秀吉の名代として戦地に出向くなど、豊家の閨閥として重用されている。その背後には、彼を溺愛する北政所の威光があった。

 そして、その北政所が、淀殿への対抗意識の故か、豊家の人間でありながら家康を頼みとし、東軍に内応している。これは、西軍方でも半ば公然の秘密と化している事実であった。坊ちゃん育ちの秀秋が、何時、この養母の意向に従って、東軍に寝返ってもおかしくないのである。

 吉継の「気がかり」とは、当にこのことであった。

「佐吉よ、儂が金吾殿の近くに陣を構えるというのは如何か」

 秀秋を監視、あるいは牽制し、いざ秀秋が裏切ったときには自ら楯になってその攻撃を防ぐ、という吉継の申し出である。

「おお、そうしてもらえると有り難い。しかし・・・」

 三成は、そこで口を噤んだ。此処まで自分との友誼を貫いてきた吉継を、敢えて危地に赴かせることに躊躇を覚えたのである。

 その気持ちを察した吉継が、言葉を継いだ。

「よいのじゃ。儂の命は、疾うの昔にお主に預けておるわい。我が家中の者共も、その心積もりでおるわ」

 吉継は大笑した。

「慶松、忝い・・・」

 三成は、深々と頭を下げた。

 

 そして迎えた決戦の九月十五日ーー。

 吉継は、他の武将たちと陣替えをして、秀秋本陣・松尾山の麓に陣を構えていた。

 夜来の雨が止み、深い霧が漸く晴れてきた辰の刻(午前八時)頃、吉継の陣より見て北東の方向で、戦いの火蓋が切られた。即ち、東軍の井伊直政隊が、西軍の宇喜多秀家の陣営に突撃したのである。

 これを皮切りに、諸方面で両軍の衝突がはじまり、辺りは忽ち修羅の巷と化した。

 吉継の軍も、襲い来る藤堂高虎、京極高知の軍を迎撃した。

 練り絹の小袖の上に鎧直垂を着込み、白頭巾で顔を覆った吉継は、近侍たちの担ぐ竹輿に乗り、縦横に戦場を駆け巡った。

 湯浅五助が、吉継の目となった。彼が吉継の耳元に逐一戦況を告げる度に、吉継の頭脳に天啓の如き知略が湧き、その口から適切な命令が発せられた。

 その最中でも、吉継は、秀秋の動向に注意を払っていたが、小早川軍は一兵たりとも動かず、松尾山は不気味なほど静かであった。

「このまま日和見を決め込むつもりか・・・」

 敵ならば討つ、味方ならば助ける。どちらとも判断のつかない相手ほど、対処に困るものはない。吉継は、苛立ちを募らせていた。

 現在の形勢は、地の利を得た西軍方の、やや優勢。しかし、ここに小早川軍一万六千が参戦すれば、西軍方の圧勝は、必至。吉継が苛立つのも宜なる哉であった。

 業を煮やした吉継が命じた。

「松尾山に早馬を飛ばせ!小僧の尻を叩いてやれ!」

 吉継の命令どおり、使い番の蜂屋宮内が督促の馬を飛ばした。


 同じ頃、東軍方にも、秀秋の動向に苛立ちを募らせている人物がいた。誰あろう東軍の総大将・徳川家康その人である。

「金吾は!金吾はまだ動かぬのか!?」

 小早川秀秋は、やはり事前に東軍と内応していたのである。

 それもその筈、かつて秀秋が朝鮮出兵の際に失態を犯したときに、秀吉との間を取りなして、失地回復させてくれたのが、家康なのである。いわば、家康は、秀秋にとって大恩人。しかも、北政所の口添えもある。家康からすれば、秀秋が東軍につくのは当然のことであったのだ。

 それが、戦闘開始から四時間近く、未だに何の動きも見せない。

 現在の形勢は、意外にも東軍方の、やや劣勢。しかし、ここに小早川軍一万六千が参戦すれば、東軍方の逆転は、必至。家康が苛立つのも宜なる哉であった。

 業を煮やした家康が命じた。

「松尾山に鉄砲を射掛けよ!小僧の肝を冷やしてやれ!」

 家康の命令どおり、東軍方から松尾山に向けて、威嚇射撃が浴びせられた。

 大谷吉継の使い番・蜂屋宮内の早馬が、松尾山に到着するより前であった。

 集中砲火を浴びた松尾山から、遂に、鬨の声があがった。

 山上から大挙して駆け下りる兵が向ける矛先には、大谷吉継軍ーー。

 時刻は、間もなく正午。太陽は、当に中天に昇らんとしていた。


「殿!松尾山の兵が動きはじめました!こちらに向かっております!」

 湯浅五助が、輿上の吉継に叫んだ。

「おのれ金吾め、やはり裏切りおったか!」

 吉継は、頭巾の下で歯噛みした。

 とはいえ、これは想定内のことである。吉継はすぐに冷静になり、次の命令を発した。

「先陣の兵はそのまま藤堂と京極に当たれ!小早川の雑兵なぞ、我が本陣六百の兵で十分じゃ」

 吉継の命令どおり小早川軍を迎え撃った吉継の本隊は、寡兵にも拘わらず善戦した。

 よもや、このまま小早川軍を押し返すかと思われたときであった。湯浅五助が吉継の耳元に口を寄せてきた。

「殿、何やら様子がおかしゅうございます」

「如何した?」

「それが・・・」

「何じゃ。早う申せ」

「脇坂、朽木、赤座、小川の諸隊が当方に向かっております」

「援軍か」

「いえ、こちらに矛先を向けております」

「何!?」

 脇坂ら四隊の兵が、突如、東軍方に寝返ったのである。

 最早、衆寡敵せず。吉継の軍は、四方を敵に囲まれ、次々と屍を重ねていった。


 吉継は、暫しの間、ただ黙然として、続々ともたらされる敗報に耳を傾けていた。

 やがて、見えぬ眼を豁然と開き、周囲の将兵に告げた。

「最早此迄じゃ!儂は此処で腹斬って死ぬるぞ」

 将兵らはざわめきだった。彼らの声を代弁するように、湯浅五助が口を開いた。

「殿!何を申されますか!まだ勝負は決しておりませぬ!此処に残りたるは、我が家中の精鋭揃い。死中に活を見いだしましょうぞ!」

 吉継は、静かに首を振った。

「よいのじゃ。元より勝ち目なき戦。よくぞ此処まで戦ってくれた。儂ひとりの、石田治部への義理立てのために、お主らを死地まで供させてしもうた。この吉継、皆に深く謝するぞ」

 吉継は、腰を折って頭を下げた。

「殿!」

「殿!」

 将兵たちは口々に叫んだ。そのうちに、嗚咽を漏らす声も聞こえてきた。

 頭巾の間から垣間見える吉継の眼にも、滴が溢れてきた。光を失った眼も、涙は涸れていなかったのである。

 その涙を振り払い、吉継が呼びかけた。

「今より一人ずつ、儂の前に出て名乗りを挙げい!名乗った者より順に、敵中へ討って出るのじゃ。美事な死に花、咲かせてくれい!」

 将兵たちは、次々と吉継の前に進み出て、思い思いに別れの口上を述べると、そのまま戦場へと馳せ戻っていった。

 このとき、吉継のもとから発ったすべての者が討ち死にし、一人として生き残った者はなかった。


 慶長五年九月十五日、大谷刑部少輔吉継、関ヶ原戦場にて自害。享年は四十二と伝わる。

 

 湯浅五助が介錯して落とした吉継の首級の行方について、二通りの伝承が残っている。

 一つには、五助が陣羽織に包んで田中に埋めようとしている処を、藤堂高虎の甥・仁右衛門に見咎められた、というものである。

「それは大谷刑部の首級か」

 と問う仁右衛門に対し、五助は、

「武士の情けじゃ。儂の首をくれてやる故、見逃してくれい」

 と答え、その場で自害して果てた。

 この潔い態度を目にして、大いに感じ入った仁右衛門は、終ぞ吉継の首の在処を明かさなかったという。

 現在、関ヶ原に並んで建っている大谷吉継、湯浅五助主従の墓は、藤堂藩が建立したものである。


 いま一つの伝承は、こうである。

 はじめから負け戦を覚悟していた吉継は、自らの弔いのために、親族である祐玄という名の僧侶を従軍させていた。祐玄は、吉継の首を戦場から持ち去り、懇ろに葬った。

 現在も、米原に吉継の首塚が残っている。

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