丹羽長秀の死に様

よく云えば沈毅重厚、悪く云えば優柔不断。

 それが、丹羽越前守長秀という男であった。

 兎に角、事に当たって、まったく動じない。むしろその慎重さが、他の武将にない彼の個性となって、彼を織田信長の重臣たらしめていたとも云える。

 その丹羽長秀が下した、人生で殆ど唯一と云ってよい大胆な決断ーー。

 それは、羽柴秀吉の天下人としての資質を見抜き、自ら進んで秀吉の風下に付いたことであろう。

 もとは木下藤吉郎と名乗っていた秀吉が、「羽柴」と姓を改めたのは、織田家の家臣でも特に重きを為す二人、丹羽長秀と柴田勝家に肖って、それぞれの姓から一文字ずつを拝借したことによる。つまり、同じ織田家中でも、秀吉は長秀よりずっと格下であったのだ。

 それが、あれよという間に実績を重ね、主君信長の覚えもめでたくなってゆく。

 そして、信長が滅んだ本能寺の変の直後、秀吉は、驚異的な速度で備中から兵を返し、謀反人明智光秀を討つ。これにより、秀吉は、弥々「天下に此の人あり」との印象を世人にもたらす。

 かかる後輩格の活躍を目の当たりにすると、脅威を覚え、反発するのが人情であろう。

 事実、明智光秀征討後に清須城で開かれた織田家中の会合(後世に清須会議と呼ばれる)において、織田家中の双璧の一方をなしていた柴田勝家は、秀吉が信長嫡孫・三法師丸を織田家当主に推したのに対抗して、信長三男・信孝を推挙する。

 ところが、双璧のもう一方である丹羽長秀は、この清須会議において、盟友であった柴田勝家に与同せず、秀吉に与している。

 さらにその翌年、秀吉が勝家を攻めた賤ヶ岳の戦いでも、長秀は、勝家を完全に見捨て、秀吉側に味方した。

 このように、織田信長存命中は重臣中の重臣であった丹羽長秀が、かつて格下であった羽柴秀吉の実力を認め、自らその麾下きかに組み入れられることを良しとしたのである。

 この事実が意味する処の重大さを、誰よりもよく理解しているのが、羽柴秀吉自身である。

 だからこそ、秀吉としては、丹羽長秀に、あたう限り命を長らえてほしいのである。天下統一事業は未だ道半ば。自身の天下取りを正当化する存在として、長秀に、是非とも生きていてほしいのである。

 しかしーー。

 

 秀吉が、丹羽長秀病臥びょうがの報に接したのは、天正十三年四月九日のことであった。

 このとき秀吉は、紀州雑賀攻めの陣中にいた。

「して、丹羽殿の容態は如何なのじゃ?」

 人払いをして、長秀の居城・北ノ庄城から駆けつけた使者と二人きりになっていた。

「はっ。我が主君丹羽長秀におきましては、腹に病を得た様子にて、いまや独力では、床より出ることも儘なりませぬ」

 諸史料から、長秀の病は、胃潰瘍、あるいは胃癌であったと推測されている。現代人の常識となっているとおり、過度の精神的ストレスを抱えると、人は胃腸に病を得ることが多い。長秀も、何か精神的な重圧を抱えていたのではあるまいか。

 またあるいは、腹中に回虫のような寄生虫を飼っていたとの伝もある。

 いずれにせよ、腹部の激痛に苛まれ、日に日に気力と体力を削がれていたわけである。

「ふむ、腹の病か。して、実際の処、如何じゃ?よもや、もう長くはない、などということはあるまいな。丹羽殿にはまだまだ、天下のためにひと働きもふた働きもして頂かねばならぬでな」

「はっ。意識はございますし、口をきくこともできます。ただ・・・」

 ここで、使者は口ごもった。

「何じゃ、はっきりと申してみい」

「はっ。実は・・・」

 秀吉は身を乗り出して、使者の次の言葉を待った。

「実は、いささか惑乱の様子にて、時折り、おかしな口にいたしまする」

「おかしなこと?どのようなことじゃ?」

「それが・・・」

「何じゃ、皆まで申してみよ」

「つまり、その・・・、亡霊がみえる、と」

「亡霊?」

「はっ」

たれの亡霊がみえるのじゃ?」

「それが、その・・・」

「ええい、まどろっこしい!はっきりと申せ」

 使者は、意を決したように言葉を発した。

おそれながら、申し上げます。我が主君丹羽長秀は、柴田勝家公の亡霊が枕元に見える、と申しております」


「ご、権六よ・・・。また来たか」

 床のなかで仰向けになっていた長秀が、譫言のように呟いた。

 周囲には、医師と数名の家臣がいたが、彼等には何も見えなかった。

 しかし、長秀の眼には、覆い被さるようにして自分の顔を覗き込む、柴田勝家の青白い顔が見えていた。

 「権六」とは、勝家の幼名である。

 丹羽長秀と柴田勝家とは、幼名で呼び合う刎頸ふんけいの仲だったのだ。

 それにも拘わらず、長秀は、勝家を見捨て、秀吉の麾下に付いた。

 そして、勝家の終焉の地が、此処、越前北ノ庄城。

 あろうことか、勝家死後に越前及び南加賀の領主に封ぜられた長秀は、自らが裏切った盟友の築いた城を、現在の居城としているのである。

 勝家は、無表情でこちらをっと見つめている。

「権六、も、もうゆるせ。儂を赦せ。お主には、悪いことをした。分かっておる。分かっておるのじゃ!もう、赦してくれい!」

 首を激しく振る長秀の声が、次第に大きくなっていく。

「殿、お気を確かに!我らのほかに、誰も居りませぬ!」

 重臣の長束正家が思わず叫ぶが、その声は長秀には届かない。

 勝家の姿は、消えることなく眼前にあった。

 生前愛用していた甲冑を身に纏っている。

 青白く滑光る皮膚は、顔の下半分を覆う黒々とした髭と対照をなし、悽愴味を醸し出している。

 大きく見開かれた両眼は、まったく動かず、只々、射抜くようにこちらを見続けている。

「頼む!左様な眼で見んでくれ。も、もう十分じゃ。赦してくれ・・・」

 長秀は、次第に涙声になっていき、その声は、やがて嗚咽に変わった。

 すると、勝家の幻が、次第に半透明になってゆき、すうっと消えてゆく。

 長秀は、びっしょりと汗をかいていた。

 

 秀吉は、雑賀攻めの陣中にあっても、長秀の容態を案じていた。

 京に遣いを出し、当代の名医と謳われる竹田定加に、長秀の治療を依頼したほか、長秀本人にも書状を送り、上洛して治療に専念するよう促している。

 しかし、長秀は、日を追って惑乱の度合いを強めていった。


「権六・・・」

 九月十三日の夜である。

 混濁する意識のなかで、今日も枕元に現れた勝家に話しかける。

 しかし、勝家はまたも無言の儘であった。表情一つ変えず、射抜くような眼で長秀を見つめている。

「お主の無念も分かる。しかし、如何ともでき得なかったのじゃ。織田の殿の亡き後、天下を手にするは羽柴筑前。儂の思うたとおりになりつつあるわ。あくまで羽柴に楯突くお主に与同しておれば、今頃、我が丹羽家も滅んでおった。他にどうしようもなかったのじゃ。頼む、権六、赦せ!赦してくれい!」

 勝家の幻は、何も答えない。

「権六よ・・・。儂はどうすればよいのじゃ?何をすれば、お主は赦してくれるのじゃ」

 長秀は、涙声になった。

 すると、勝家がはじめて口を開いた。

「死ねい」

 重く、腹の底に響くような声であった。

「応!死ぬ!死ぬぞ!儂は病じゃ。もう永くない。間もなく冥土で、お主にまみえるぞ。冥土に行ったら、お主に伏して詫びよう。じゃから赦してくれい。儂を安らかに死なせてくれい」

 長秀の懇願に、勝家は瞑目して首を振った。

「腹斬って死ねい。儂と同じに」

 賤ヶ岳の決戦に敗れた柴田勝家は、此処北ノ庄城に籠城した末、己が腹を十文字に斬り裂いて死んだのであった。わずか二年足らず前のことである。


 明けて九月十四日、長秀の病状は、朝から小康を得ていた。無論、床から身を起こすことは叶わないものの、意識ははっきりとしていた。文字通り「憑き物が落ちた」様子で、医師や近臣を相手に、まともな会話を交わすこともできた。

「今日はすぐれて気分がよい」

 自ら語る長秀の様子に、家臣たちは胸を撫でおろした。

「何よりでございます。明日は今日よりよくなりましょう」

 長束正家が励ますと、長秀は嘆息して言葉を継いだ。

「そうなればよいがな、おそらく儂は、もう永くはなかろう。今日のうちに、遺言をしておきたい」

 かける言葉を探している近臣たちに、長秀が命じた。

「子等を此処に呼べい」

 すぐさま嫡子・長重をはじめとする妻子一族が、部屋に呼び寄せられた。

 長秀の口から、自らの死後の処置、今後の領国経営、そして羽柴秀吉に忠誠を誓うべきことなどが縷々るる語られた。長重らは、涙を堪えながら長秀の言葉に耳を傾けた。

 さらに、一族と近臣を部屋から去らしめると、長束正家だけを部屋に残し、秀吉宛の遺言状を口述して、彼にしたためさせた。

 遺言状を完成させると、安堵した表情で

「暫し眠らせてくれい」

 と云い、人払いをして独り眠りに就いた。


「長束さま!長束さま!」

 自室で書き物をしていた長束正家のもとに、小者が飛んできたのは、夜半を過ぎた頃であった。

「何を慌てておる」

「と、殿が!」

 息を切らせた小者が、振り絞るように次の言葉を口にした。

「殿が、は、腹を召されました」

「何!」

 正家が長秀の寝室に駆けつけると、果たして、布団の上に正座した長秀が、腰から「く」の字に身を折って前のめりになっていた。寝間着を肩脱ぎにして、むき出しになった上半身は、血の気を失って白かった。

「殿!」

 正家が近づいてみると、両手に握った脇差しは、たしかに腹に刺さっていた。しかし、病で力が弱まっていたためか、傷は浅い様子であった。出血の量もさほどでなく、意識も辛うじて残っていた。

「殿!殿!」

 正家が抱きかかえると、長秀は、か細い声で何事かを呟いた。

「何と、いま何と仰いましたか」

 正家は慌てて、長秀の口に耳を寄せた。

「権六・・・。これで儂を、赦してくれるか」

 首ががくりと折れて、そのまま意識を失った。

 長秀は、そののち二日間、生死の境をさまよった。

 意識が戻ることは、遂になかった。


 天正十三年四月十六日、丹羽越前守長秀、越前北ノ庄城にて死す。享年は五十一と伝わる。

 腹を斬った際に胃から患部を切り取り、天下を簒奪しつつある秀吉への当てつけに、これを送りつけた、などという俗説が残っている。しかしこれは、後生の作り話であろう。

 事実、十四日に書かれた秀吉宛の遺言状の中で、長秀は、「秀吉様」と、恰も臣下になった如く呼びかけ、天下人となりつつある秀吉に、丹羽家の安泰を懇願していた。

 然るに、跡目を継いだ嫡男長重の代には、丹羽家の領地は半分にまで削られている。

 さらに、戦国の世の習いか、長束正家をはじめとする重臣の一部は、その後、秀吉の直臣として召し抱えられている。

 丹羽家に色濃く射していく斜陽に、長秀は冥府にあって何を思ったであろう

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