シューマンのヴァイオリン協奏曲の決定盤?

クーレンカンプの歴的な録音から割かし最近のものまで、シューマンのヴァイオリン協奏曲の録音は、それなりに聴いている方だと思うけど、シュニーベルガーの独奏、メルツ采配の録音を今更ながらに聴いて、感動している、というか、呆れている。

フローリアン・メルツは、名の知れた指揮者ではないけれども、シューマンの交響曲が好きな人にはお馴染みの人で、相当にユニークな全集録音を完成しており、面白さでは類例なく、下手物と言うには案外に芯を食っていて、けれども、やっぱり無理筋じゃねぇ、って感じが好ましかった。

その人が、ヴァイオリン協奏曲では、いよいよ、一線を越えてしまって、終始、歌舞伎役者の如く大見得を切り、音楽が全然前に進まない。

その進まなさが、シューマンの筆致と合致して、とっても好い。

面白いんじゃない、間合いが良い。

そうか、この音楽、何とか上手く流そうと思ってはいけなかったんだな。

筋道を立てて体裁を補完してはならなかったのだな。

人は立ち止まるべき時には、立ち止まってみるべきなのだ。

ただ、この演奏で、本当に素晴らしいのは、独奏のシュニーベルガーだろうと思う。

メルツの仕掛けは、シューマンに対する愛情が十全に詰まって聴こえなくて、時にアイデアありきに聴こえてしまう所を、シュニーベルガーが上手く紡いで綻ばせない。

これは、ソリストとオーケストラとで、どちらが伴奏か分からないタイプの演奏で、圧倒的なヴァイオリンが大船で、楽団の方がそれに乗っている。

大体、コンチェルトの素晴らしい録音って、こういう倒錯が多いでしょう?

オーケストラが一流の仕事をしていたら、シュニーベルガーのヴァイオリンがもっと輝いたかと言えば、それは難しいんじゃないかな。

シューマンという人の筆致は、そんな王道を好まない。

否、聴き手の私が承服しない、というだけの話なのだけれども、シューマンのヴァイオリン協奏曲、殆どの録音は苦手だ。

この曲、オーケストラのパートは破綻しているのだと思う。

それを取り繕っても、シューマンの声は聴こえても来ないらしい。

シューマンの精神は未だぎりぎり破綻してはいなかったという体で、臭い物に蓋をしては、蓋はあっても身がなくなっちゃう。

もう、崩壊してんだよ、シューマンは既に。

その破綻が、最高に美しいのが、シューマンのロマンティシズムの真髄であって、芸術至上主義の虚しさを超克する対価であったと聴くと、とっても生々しく、生き物の様に、ハーモニーが鳴り響く。

メンデルスゾーンとは違う次元で、才能に喰われた人だ。

いつも、何となく惹かれながらも、どこか距離を感じていたシューマンの音楽が、自分の人生の方に、久し振りに侵食するのを聴いて、ゾクゾクした。

それは、こちらの人間の方にある欠陥、滅びへの愛憎の様なものが掻き立てられたのだとして、こんな音楽が誰にも美しくあってよいものかは、大いに迷う。

やっぱり、臭い物には蓋をするのが、市井の知恵というもので、それが生き延びるコツというもんじゃないか。

たまに封を解いて覗き込んでは、やっぱり、そそくさと蓋をする。

そのくらいの付き合いで、そっとして置くべき音楽。

クララとヨアヒムが、このコンチェルトを封印したのは、今日では賢明な判断とは必ずしも思われていないけれども、あれは慧眼で、生命の直観、叡知のなせる対処であったと見えて来る。

ロペルト・シューマンの音楽を、最も理解していないのは、このヴァイオリン協奏曲を美しい音楽として受け入れる、狂った僕らの方じゃあないか。

壊れていく目の前の生身の人間と音楽が合致した時、それは真実であればある程に、痛々しく鳴るのだろう。

僕らは、その看取り人の悲痛まで飲み干して、この音楽に耐えなくちゃならない。

否、各人、好き勝手に聴けばよいのだけれども、好き勝手に聴けばよいのだからこそ、壊れゆく者に従わん。

メルツのシューマンは、きっとそんな深刻な演奏じゃない。

無邪気だよね、この人の脳内は。

それが何時だって、一番、残酷なんだよな。

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