リャプノフの交響曲に痛し
リャプノフの交響曲第1番を聴いて、あぁ、佐村高知守さんが書きたそうな音楽だな、と思った。
未熟で、稚拙で、壮大で、熱意があって、けれども、少しもて余していて。
分かりやすい格好よさが、浅はかで、初々しくって、痛くって、一周回って、可愛くもある。
聴いていて、最高に気恥ずかしくなる音楽。
青春を描くのではなく、青春そのものが音楽となっている。
こういうのを、大人がやると詐欺になる。っていうのが、佐村高知事件の、本当の意味での罪なんだ。
誰に創らせたかなんて些事なんだよ。と思いながらリャプノフの処女シンフォニーを聴くと、中々、どうして、美しいもんじゃないか、となって来る。
全く腐った聴き方で、キザだな。
幼いのは、結局、聴き手の方だ。という羞恥に耐えるのが、リャプノフを上手に聴く作法という気がする。
何れ、大人が夢中になって聴くような音楽じゃない。
反面、リャプノフの熱情を追体験出来る程、真摯に生きて来なかった自分。というのも透けて来る。
RPGで遊ぶのが億劫で、RPGで遊ぶ人を眺めるだけで沢山、もううんざりという感じ。
ただ、端から飽きているから、却って、醒めないという事もありそうだ。
遠巻きに面白がっている。傍観こそは、最たる罪か。
この流れで、リャプノフの第2交響曲を聴くと、とっても感慨深かった。
人間は否応なしに歳をとる。
けれども、誰もが大成するもんでもない。
順調に成熟しているし、遥かに優れた作品とも思うけど、余り面白がれなかった。
きっとそれは、リャプノフの人生が音楽に刻まれちゃっているからだ。
良し悪しとか、好き嫌いで、他者の人生を斬るなんて大人気ない。
子供に比べて大人は遥かに無邪気な生き物だ、という事を突き付けられた。と言ってもよい。
誠実な作家だな。
どちらも、スヴェトラーノフの采配で聴いた。
この人は、生涯、青年であり続けた人だな、とつくづく思う。
リャプノフを嬉々として演っている。
全く、水を得た魚だ。
リャプノフ自身よりも、リャプノフを生きている。
ついて行けない、とは言わないけれども、一緒には歩けそうにない。
そこが好い、というには、未だ未だこちらが若過ぎる。
だからこそ、もっと更けた音楽を好むのだ。
或いは、幼い奏楽を。