CD:アンジャパリジェのスカルラッティ
ディスクを掛けた瞬間に、すっかり耳を奪われた。
一体、どこのメーカーのピアノを弾いているのだろう?
エチェリ・アンジャパリジェはジョージア(旧名グルジア)出身のピアニスト。
1974年開催のチャイコフスキー・コンクールで第4位に入賞したそうだ。
日本では余り馴染みがない人ではあるけれども、NAXOSから、このスカルラッティのアルバムの他に、プロコフィエフの作品集やクリスマス・アルバムを出しているので、無名という程でもない。
それにしても、NAXOSが、スカルラッティの555曲のソナタの全曲録音の制作にあたって、第一集をアンジャパリジェに託した事は、何たる慧眼であろうかと思う。
1994年カルフォルニアでの録音。
使用楽器は、スタインウェイ・アンド・サンズ、ハンブルク。
少しくすんだ輝きのない音で、旧い時代の音がする。
よく調和するというよりは、一音一音の自律が強い様に聴こえた。
輝かしい演奏会用グランド・ピアノというよりは、個人に所有される事を望むかの様に、内密な響きを醸す。
高音の伸びなど聴いていると、これはスタインウェイ社が誇る最良の楽器ではないのかも知れない。
或いは、録音の特性なのだろうか、少し軋む所があって、その余裕のなさが堪らない。
アンジャパリジェのスカルラッティは、全体的に乾いている。
そして、どんなにテンポが遅くなっても弛緩せず、快速に飛ばしても忙しくならない。
ラテン的なノリは皆無なのだけれども、終始、心地よいリズム感が保たれていて、それは、アンジャパリジェに深く息づいた、鼓動の様な自然さに貫かれている。
アメリカでドイツ製の楽器を用いて、スペインで活躍したイタリアの作曲家の、18世紀のチェンバロ作品を20世紀のピアノで弾いているのに、出て来る音は、まるでジョージアなのだ。
とは言っても、ジョージアについて、私には殆んど知識がない。
ただ、僅かのレコードで、ジョージア出身の音楽家の音楽に触れたことがあるだけだ。
そして、彼等の音楽は、何時だって乾いていた。
清々しくも、何処か寂しげに。
そもそも、アンジャパリジェのスカルラッティを求めたのも、彼女がジョージア出身のピアニストだから、に尽きる。
結果、思った通りの音楽だった、と言いたい所なのだけれども、聴こえて来たのは、思っていた以上に、期待した通りの音楽だった。
NAXOSは廉価盤のメーカーであるし、スカルラッティの作品をピアノによる演奏で、しかも、アルバム毎に奏者を変えて全曲録音を目指す、なんていうのは、侮るに申し分のない条件が揃っている。
安い人件費で使える演奏家の寄せ集め。
NAXOSに限らず、旧共産圏の音楽家にはそういうレッテルが付きまとうし、現実でもあるから、聴き手もついつい見くびり勝ちだ。
世の中には高くて売れない物があるくらいには、安いが為に売れないものもある。
NAXOSは大変に評価の高いレコード会社ではあるけれども、その価値はお値段以上の品質に留まる嫌いも、常に付きまとっている。
市場を変えるという意気込みに比して、当代一流のレコードを届けているという気負いは端からなかった。
それでも、どうにも仕様のなく才能のあるミュージシャンは、とんでもない音楽を否応なく刻むのだから、下手物を漁る楽しみもそこにあるのだろうし、終いには殆んど狂気の沙汰ともなって来る。
それなりに、様々な演奏家の録音で、スカルラッティの音楽を聴いてきた。
ホロヴィッツ、ツァハリアス、ポゴレリッチ、カークパトリック、ロス、ベルダー、、、
チェンバロによるもの、ピアノによるもの、オルガンによるもの、ハープによるもの、アコーディオンによるもの、ギターによるもの、ヴァイオリンによるもの、、、
その全ての中でも、アンジャパリジェのスカルラッティは、独自性において凛然と輝いている。
演奏解釈を云々するならば、極めて淡々と常識的に弾くのみだ。
スカルラッティの音楽が孕む、狂気や熱情は、すっかり鳴りを潜めている。
きっと、そんな普通じゃない特別な何かなんて、最早、当たり前なのだろう。
静けさの中に、あらゆるものが呑み込まれて、そこにある。
ただ、ある。
その響きが否応なく美しい。
真冬の寒い日の夜に、蒼白い月をじっと眺める様な、冷たい感触がある。
こういうスカルラッティは、ヨーロッパにもアジアにも、勿論、新大陸にも、ないものの様に思われる。
そして、アンジャパリジェにしか奏でられないものである。
だけれども、それじゃあ自分ら、私にしか出来ない聴き方で、アンジャパリジェのスカルラッティを、果たして聴けているのだろうか?
極東のプロレタリアートらしく聴けたか知ら?
多分、まあまあ出来た気もする。
21世紀の日本にスカルラッティが響く意義を、本邦のクラヴィニスト達は、皆、真剣に、半ば無意識に考えている。
だけれども、それは本来、聴き手の仕事なのかも知れない。
否、聴き手の仕事でなければならぬと思う。
もっともっと美しく、アンジャパリジェのスカルラッティを聴きたいと願う。
素晴らしい音楽は、何時だって聴き手に人生を問うものだ。
そして、それに何とか取り敢えずの答えでも差し出さなければ、二度と響くことはない。
差し出したとて、また直ぐに消え失せてしまうのが音の宿命なのだけれども、そうやって呼び覚ます程に、輝きを増すように、努めるべきは聴き手なのだ。
スカルラッティが終生仕えたポルトガルのバルバラ王女はスペイン王室の皇太子に嫁ぐが、その時の王はフェリペ5世だった。
フェリペ5世は、毎晩同じ曲を自分の寝室で歌わせる為に、当時、最高峰のカストラートだったファリネリを高給で雇った人だ。
スペイン王は精神が不安定だったそうである。
だから、毎日毎日決まった曲をお気に入りの歌手に歌わせ続けた。
それは狂った事である、という事になっている。
私も、そう思っていた。
しかし、そのお決まりの歌に対して、フェリペ5世は、稀有な理解者であったのかも知れない、とふと思う。
気が向いた時に、その時に気が向いた音楽を、プレイヤーにディスクを載せて、或いは、盤に針を落として、楽を奏でる。
そんな手軽な人生には、スカルラッティの音楽は、とてもファリネリの歌にはならない。
勿論、それで構わない。
聴かずに済むなら、一層良い事だろう。
それでも、スカルラッティを聴くならば、アンジャパリジェをまた掛けよう。
キプニスもフィゲイレドも、トムシックも廻由美子も掛けるけど、アンジャパリジェも掛けたくなるに違いない。
それくらいには、好きなんだ。