瀬戸フィルハーモニー交響楽団
休日の朝に寝坊して、けれども、特に予定もなければ慌てる事もなく、緩やかに時をやり過ごす気だるさは、いくらかの心地よさすら孕んである。
瀬戸フィルハーモニー交響楽団の演奏はそんな感じがした。
良い演奏であったのかは分からない。
ただ、いくらかの心地よさに身を委ねる事が出来たから、聴きに行けてすこぶる好かった。
~~~前半~~~
メンデルスゾーン:序曲『フィンガルの洞窟』
イベール:フルート協奏曲
~~~後半~~~
メンデルスゾーン:交響曲『イタリア』
独奏:上野由恵
采配:三ツ橋敬子
楽団:瀬戸フィルハーモニー交響楽団
会場:レクザムホール大ホール
日時:2023.1.22
フルート独奏のアンコールは知らない作品だった(ドンジョン作のエレジーという曲らしい)。
技巧的で、1本の楽器で全てが完結する無伴奏の作品は、オーケストラを従えたイベールのコンチェルトよりも、フルートという楽器が雄弁に振る舞い、音楽というよりは、一個の息吹き、演者の生き様を聴くような、文字通り聴き手は息を飲むより他には仕方がない、そんな緊張感が大ホールの隅まで確かに届いて、名舞台だったと思う。
オーケストラのアンコールは、レスピーギのイタリアーナ。
アンサンブルの美しさが、それまでのどの瞬間よりも格段に好くって、レスピーギの筆が偉いのか、奏者の気心がおちついたのか分からないけど、瀬戸フィルハーモニに美質というものがあるとすれば、抑制された淑やかな響きにこそありそうだ。
メンデルスゾーンの音楽は、フィンガルだろうとイタリアだろうと邪気がない。
それを恵まれ過ぎた人の不幸と聴く事も可能だし、深みがないと切り捨てる事だって容易だろう。
ただ、見えていた、或いは、聴こえていた世界が余りにも天才的過ぎて、僕らにはとても想像もつかない景色であるものを、何とか少しばかり垣間見せてくれるのが、メンデルスゾーンの音楽だとしたならば、深みなどあってはならない。
情念にからめ捕られる事もなく、軽々と去って行く上澄みを、阿保みたいに口を開けて、見惚れるくらいが、正解じゃあないか。
瀬戸フィルのメンデルスゾーンを聴いていて、そんな事を考えていた。
制約の中できちんとカタチを調える。
三ツ橋さんの今回の仕事は、そんな職人気質であったのかも知れない。
エーリヒ・ラインスドルフとか小泉和裕の様な、ストレート過ぎるくらいにストレートな人達の音楽にある、純度の高い躍動感に通じるものがあって、それが昇華されて圧倒的な演奏にならない所にこそ、ローカルな楽団の醍醐味があって、今回の定期公演がいくらか心地好かった理由も、その辺にあるんじゃないかと思っている。
音楽が熱を帯びて、緊張が高まる程に、演者の熱気も高まるのだけれども、それに乗れたかと言えば、聴き手としてはちょっと強ばってしまって、疎外感が無くもなかった。
舞台の上で何かが凝縮していくのを遠目に眺める様なヴェールがあった。
こちらとしては、巻き込まれる事を拒んだつもりは少しもなくって、それはホールの音響の問題であったのかも知れないけれども、聴き手をどこか信頼していない様な、舞台の上とそちらとでは空気が違いますよ、と言われている様な断絶があったのは、誰にも不幸な事だと思う。
そんなクールさが、却って、イベールの協奏曲にはよく嵌ったのか、或いは余裕が無かったのか、熱しているのか醒めているのかよく分からない軽妙さと、洗練され過ぎないドタバタ感とが共生して、突き詰め過ぎない躍動感が美しかった。
必ずしも、イベールの音楽を掌握しきれていない演奏だったのだろうけど、それが最高で、今生まれたかのような、生々しさが、人間の意図を超えて来る。
作家も演者も、そんな言われようはちっとも気に食わないだろうな。
届けたかったのは、きっとそんなもんじゃない。
受け取りたかったものだって、本当は違います。
けれども、そのずれこそは、人間が人間のやる事にわざわざ耳を傾ける、殆ど最期の砦じゃないか。
未だ寝ぼけた様に、どこか遠くからおぼろげに聴こえて来る様に始まった演奏会も、イタリアのフィナーレの頃にはすっかり目覚めて勇み足なくらいに活気があった。
鼓舞している。
力感がある。
音楽は、指揮者の采配の下に掌握された。
その分、響きは狭くなった気がしたのは、きっと客席の方に甲斐性が足らなかったのだろう。
何だか、も少しまどろんで、寝ぼけていたい様な気持ちがあった。
そんな気持ちに、イタリアーナがよく沁みるのは当然だから、結局、こちらもまた、すっかり三ツ橋さんに掌握されていたのだな。
夢見心地に終いましょう。