吉田博展再び 3/4 東京都美術館
再び吉田博展に行った。
今回は、画を観る為というよりは、吉田博を暴く為に行った、という方が近いかも知れない。
この展覧を観る限り、吉田博にとっては、大正15年と昭和10年が、決定的な年であった様だ。
特に、昭和5年の東南アジアへの外遊以降、この人の画は、それまでの画業をすっかり棄てるかの様な気配が立ち込める。
画の専門家ならば、それは染料の変化とか、技巧の進歩とか、そういう明快な理由が掴めるのだろうけれども、こちらは全く素人の眼であるから、それは、殆んど精神的な危機の様に映った。
そして、その超克の精華として、昭和10年以降の傑作群が迫って来る。
大正15年に打ち立てられた瀬戸内海集が、やっぱり、私は一番好きなのだけれども、それでも、吉田博という人の真髄は、昭和10年以降の作品にある、それを観なければ始まらない、と言わずには済まない。
それまでの、グラデーション気質を棄ててコントラスト様式を確立した、そんな風にも思えるし、ジャポニズムを排してコスモポリタンになった、と言えなくもない気もする。
日本の風景だろうが、大陸の風俗だろうが、情緒や風情を描こうという柔和さはなくなって、ただただ、そこに存在するものを木版に起こす。
雰囲気というものをすっかり棄てて、空気そのものを写しとろうとする、とても厳しい作風だ。
もしも、日本人画家が、当時の欧州の最高峰の天才たちに劣る点が何かしらあったとするならば、このリアリズムの欠如であったと思う。
リアリズムが至高の境地という事も全くないだろうけれども、写生の行き着く先ではあったろう。
木版を極める事が画家になる事よりも先んじた、吉田博という人が、再び訪れてみるとそんな風に見えて来る。
三度行けば、また容易にそんな印象は引っくり返るだろうけど、今日は、吉田博をそういう風に観たい、否、観ると定めたまでだ。
ただ、改めて、年を追って見返せば、若い頃の作品にも、既に晩年の境地の予感は随所にある。
そもそも、若い頃に既に油でやろうとしていた事を、漸く木版で出来る様になったとも見えるし、(恐らく描くのが不得手だった)人間を生き物として描かず、世界を象る一つのピースとして、他の何物とも等価に抽象化していく技量も、既に『提灯屋』の一枚に如実に現れている。
海外から視た日本、というものを吉田博は明確に意識していた人だと言うが、日本から視た海外、というものに出会したのが、昭和5年の危機だったと言うのは流石に気が引けるのだけれども、若い頃の洋行は、危機よりは可能性の宝庫であって、欧米の景色を、和風に描いて平然としているおおらかさが支配的だった。
端的に言えば、綺麗な画だ。
それが、何故か、東南アジアとインドを巡った所で、和風を突如棄てるのだ。
それ以降は、日本の風景すら大和振りでは描かない。
まるで、ギリシャでも描くかの様にアジアを捉え出す。
吉田博という人の凄みは、結局、この眼なんじゃないかなぁ。
終戦の翌年、『農家』という作品を最後に、吉田博の木版の製作は終わりを告げる。
この画を観ていると、確かに、もうこれ以上新たに創るのは、一人の人間が背負うべき様なものでは無さそうだ。
発狂前夜のゴッホや、殆んど眼の見えなくなったモネが描いた世界の空気が、この農家にも漂っている。
それは、余りにも控え目で、在り来りの佇まいでもあるし、何よりとても静かな眼差しであるから、大変に穏やかに見えるものだ。
それ故に、狂おしい。
私には、この画は、吉田博が遺した唯一の心象画と映った。
木版を極め、画を体得し、20世紀に画家になる意味をも刻んでみせて、全く大才だ。
会期中、もう一度観に行こう。