フジ子・ヘミング讃、スカルラッティを聴きながら。
スカルラッティ作 ソナタK.159 & K.380
フジ子・ヘミング,p
最近、意識的にフジ子・ヘミングの録音を聴いている。
この人の音楽は、協奏曲でこそ真価を発揮するのだけれども、今日は、スカルラッティを。
スカルラッティの音楽を聴きたくて、わざわざ、ヘミングさんのレコードに行き着くという人は恐らくいないだろうし、いてはおかしいと思う。
ヘミングさんの良さは、技術が低いこと、読みが浅いこと。この二つを徹頭徹尾貫いたところに、異形の音楽を奏でている。それは、個性と言うよりは過ちに近いもの。本物に対する紛い物。正解ならざるもの。だから、際限なく美しいという世界線。
そういう案配であるから、本物が好きな人、間違いが許せない向きからは、すこぶる好かれない。あってはならぬもの、という勢いで、遠ざけられるものだ。
芸能の世界では、兎角、天才崇拝が横行している。
それと同じくらい横行していたルッキズムは、最近では、少し後ろめたいものとして、やや控え目に扱われるようになりながらも、相当に強固に支持されて続けてもいる。
どちらも、人間というものの本質であって、生命体として生存率を高める為に培われた、当たり前の選択ではないかと思う。
才能もイケメンも、可愛いも、正義でしかない。
それは、一つの哲理だろう。
フジ子・ヘミングという人も、勿論、それに抗ったところから出た人ではなくて、才能というものを強く欲した人だ。
けれども、私には、この人は、ピアニストとしての才覚は余りなかった様に聴こえている。
それが、とても好いと思っている。
本物を志向して、頓挫して、やさぐれて、恨んで、開き直って、聴き手など眼中になく、ピアノに向かう、独りの老婆と映る。
本当は、もっと斜に構えて、群がる金蔓をあからさまに嘲ってもよさそうなものだけれども、向かうピアノを持つ人だ。
ありふれた紛い物が如何に尊いか。それを知らしめるのが、フジ子・ヘミング女史の真骨頂であり、僕ら凡夫の臓腑にピアノが沁みる、切実なる理由であると考えたい。
これは、何ら特別ではない人が、特別ではない者達へ奏でる、異形で不穏当な、歪な体裁の凡庸ではあるまいか。
本物というのは近づきがたく、掴みがたいもの。それは、間違いのないもので、解りきったもの。
ヘミングさんのピアノが、得体の知れない不確かなもの、とは言いたくない。
寧ろ、明け透けで、浅はかなものじゃあないか。
それはまた、解りきったものじゃあないか。本物にも劣らずに。
フジ子くらい弾ける人は、素人にも山程いる、そうだ。
それもまた、当たり前なことだろう。山程いる人の代表者として抽出された、選ばれた人なのだから。
あとは、ヘミングさんに才能を聴きたい人と、才能を見切った人がいるだけの話しであって、その力学が、そのまま、この人のピアノの個性となっている。
とても個性的なピアニストだと思われているけれども、みんな違ってみんないい、誰にもその人なりの魅力は必ずある、という世界線のど真ん中いる、とても特別な至極普通な人の音楽。
そんな普通の人の音楽が、面白くない訳がない。
演奏解釈として、優れている筈も、ない。
とてもたどたどしい打鍵。必然性は当人の気分の中にしか認められないないだろうテンポの揺らめき。
ペダリングによる面白い効果。弾きたい曲を弾きたい様に弾いた先に、初めて拓ける凡庸さ。
共感出来ない、なんてのは聴き手の奢りで、聴き手の共感など端から求められてなどいない、純粋に個人的な響きの音楽。
独りよがり、と言うならば、群がりやがって、と返せばいい。そんな不穏な空気が、この人のピアノには常にある。
明け透けに不穏当。
正直、僕は、この人のピアノには癒されない。
抱きしめてあげたい、とも思わない。
独りなんだな、どこまでも、本当に。
その寂しさは、芸能者や創作家のものなのか、広く凡夫の性なのか。それを、別段、極めることもないだろう、開き直った強かさ。
無敵の人の奏楽だよな。
フジ子・ヘミングという人のピアノを聴くと、私は大体、何時もこんな調子で、物思いに更けさせられる。
そういうピアニストは、稀有だと思う。
だから、結構、聴いている。
音楽を? 否、想念を、かな。
でも、これ以上の賛辞も、きっとないでしょう?
ヘミングさん。