今日の同情。交響楽を聴く片手間に。

~同情は何も生まない。だから、私は同情するのです~

何も生まないという事ほど至純な事もないな、と音楽を聴いたり、絵画を観たり、文学を読んだりしながら思う事がままある。

それは、とても素朴な感慨だとも言えるし、倒錯したセンチメンタルなのかも知れない。

天才の才覚には、それはもう惚れ惚れとするものがある。

凡夫の渾身の一撃には、才能というものは、本質的には、顔つきの相違程にも意味はない、という気にもさせられる。

それ等に同情する我という者を、どこまでも演じきる事が、自分の一大事だと見定めて、それなりに久しくもなった。

才人が才能を発揮する事は、業と言ってもよいものだから、それ自体は美しくもなく、有り難くもなさそうだ。

努力は何時でも美しいかと言えば、甚だ醜くなければ努力とは呼び難い、そういう風体をもって現れるのが、努力の美しさの本性とも映る。

情にほだされれば、世の中が、そんな具合に、見えて来る。

とても廉価な色眼鏡。

誰でも容易に、しばしば、無意識・無自覚に掛けているその眼鏡は、少しも伊達じゃないらしい。



トンガの大噴火から冬季五輪へと流れ込み、ウクライナでの戦争に至る今日、世の中に不穏な空気をかぎ分けた人は、甚だ多い。

理知的に同情する向きも、情緒的に理解する向きも、対岸の火事と思った人も、他人事じゃないと悟った人も、様々あって、色々と言われている。

僕自身は、これは対岸の火事だと思ったな。

同情とは、そういうある種の冷徹さの上に成り立っている。

情にほだされるとは、残虐な事だと知らないでは、人情などは持ち得ない。

義理を持たねば、済まなくなるのも、その為だ。

そういう教えは、何時からともなく、市井には芽生えたらしい。

或いは、人類を始めるにあたって、予め取り決めたられた掟であった、と仮説を立てても、強ち筋は悪くなさそうだ。

彼岸の火事は此岸には及ばぬ、という夢こそ見ないけれども、今日、火中の栗を拾う資格など自分にはないな、という感がある。

資格があった所で、火傷を厭わぬ行動力があるとも、実際には思っていやしない。

僕らが焼死するのは、きっと自分の家が焼ける時だ。

それが薄情と言うならば、同情とは、全く薄情に相違ない。

同情とは、傍観者の所業に違いない。

当事者ではない、という現実が、人類の繁栄を支えているとすら、思えて来る。

傍観者が亡ぶ時、それはきっと歴史が消滅する時だ。

そんな時節こそは、ポジティブだと言ってみてもいい。

主体性とは、恐らくは、見失う事を指す。

傍観とは、我である、という、自意識そのもので、同情とは、我への自己愛、そのものじゃないか。

その空っぽな有り様を、須く飲み干す事が人情だ、と見定めている。

そうやって、情にほだされるという事が、実にやくざな事だと知らないで、同情などは出来やしない。

何も生まないというのは過ちで、何も生めないというのが同情の正体であるからこそ、僕には至純とも映る訳だ。

そういう外道の成れの果てが、身を滅ぼすなんて事は、至極、当たり前なのだから、ほだされるという事は、無益で愚劣であろうとも、やっぱり筋は、存外に悪くもないな。


そんな風に、今日も当たり前に同情しながら、平然と音楽に聴き入った。

ミャスコフスキーとリャトシンスキーの交響楽を一作ずつ選んで聴いた。

別段、他意はない。

どちらも、まあまあ好きな作曲家だから、聴いた。

どんな音楽とは理解してはいない。

ただ、誰かに聴かれる事を望んでいる様に、思われた。

だから、こちらは黙って聴くしかない。

それが、義理というものだ。


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