求めては、五:川畠成道の四季
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川畠成道独奏
マルコ・ボーニ指揮
ボローニャ歌劇場室内合奏団
2005年発売ビクター
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マスメディアが辻井伸行さんに魅了されるよりも幾分か前、ピアノの世界では梯剛之さんが、そしてヴァイオリンの世界では川畠成道さんが、ある種の寵児であった。
僕らが、音楽にドラマを聴くよりも、ドラマから音楽を読む方が、得意な生き物である事は、佐村河内守さんの一件を省みるまでもない現実だろうし、それが、悪いという事もない。
そもそも、肉体と音楽は切り離されて語られるべきものでもない、少なくとも、人間が楽器を操る限りは。
川畠成道という人の名が広く市井まで届いた事情もまた、肉体からは切り離し得なかったというだけの事である。
視覚に障害を持つ人の生業として、音楽が機能して来た歴史とは別に、マーケティングの力学は、音楽産業における、彼等のスター性を見逃したりはしなかった。
それが、誰にとって得になるかは分からないけれども、川畠成道の四季が、今日、手軽に聴ける恩恵を、聴き手として目一杯に受けているのだから、有り難い。
この人のヴァイオリンの音は、マイクとの相性が悪いのか、ビクターの音録りの癖なのか、プレイヤーとしての資質なのか、何となくよそよそしい印象がある。
ヴィヴァルディでもバッハでも、メンデルスゾーンを聴いても、ヴォルフ=フェラーリを聴いても、余り変わらない。
ヴィルトゥオージ系の、派手な技巧を売りにするヴァイオリニストの系譜にも似た音ながら、とても節度があるというか、知性的というか、肉体的な快感で聴衆を麻痺させる気はなさそうだ。
こちらが、ハートフルな気持ちでは聴くまいぞ、と無意識に構えているから、そんな風に冷たく聴こえたのかも分からないけど、どうにも距離の詰め方が分からない。
ボローニャの楽団と、ソリストの間でも、見えている世界がちょっとずれている様な印象もあら、意外にも、穏やかならざる四季となっている。
かと言って、苛烈な演奏ではないし、攻撃的な所も皆無だ。
人柄は知らない、けれども、どこか孤独なヴァイオリンで、自己完結しているミュージシャンという感じがあって、見えない壁の向こうから響いて来る様だ。
それだけ、人間はフィジカルに生きている、と言えれば格好も付きそうなものだけど、やっぱり、ドラマから音楽を読む生き物としての吾、そういう市井人の性が強く出たんだろうな。
改めて、先入観は大切と思わされる一枚だった。
もしも先入観がなかったら、このアルバムは、自分には無縁なヴィヴァルディの四季として、軽く聞き流してしまったに違いない。
僕らはもっと先入観を大切にした方がよいと思う。
きちんと労ってあげないと、束縛性の強い観念だから、縛られて聞く耳も奪われかねない。
いっそ、直観なんてやくざなものは捨て去って、先入観フルスロットルで参りましょう。
聴き手の素面は、案外に、そちらの方により多く宿るものだと願って止まない。
と、コンチェルトのソリストとしての川畠成道を聴いて考えた。
川畠成道は、南アフリカ出身の鬼才ダニエル=ベン・ピエナールのピアノとのデュオで、幾つものアルバムを出している。
この二重奏で聴かせるヴァイオリンの音色は、協奏曲で見せる孤独な魂が孤立を免れ、寛いでいる様に聴こえた。
勿論、だらしない場面は微塵もなくって、節度のある歌い回しもそのままに、技で魅せる訳でもない。
好きな音楽をひたすら歌い倒す、なんて柔なアルバムでもない。
選曲だけを見れば軟派というか、ライトというか、ヒーリング、メロディアス、そんなな作品が並んでいるのだけれども、演奏自体はかなり硬派で、だからといって凄んだりせず、どこまでも此岸の音だ。
あぁ、甘美な唄を歌わない人なんだな。
この辺は、もしかしたら、かなり誤解されている人かも知れないと思った。
実際、一連のアルバムのピアノが、ピエナールじゃなかったら、出て来る音楽は、相変わらずの自己完結に終わったとも限らない。
ピアノのピエナールは、モーツァルトを弾いても、ベートーヴェンを弾いても、エキセントリックな所がある天才肌で、バロック以前の古い音楽を現代ピアノで聴くのが得意な、グールドから続く秀英ピアニストの系譜に列なる一人。
この二人のデュオは、ちょっと変わっている。
対話じゃないし、伴奏者(或いは伴走者)という感じもしない。
孤高なヴァイオリンの音楽世界にスルッと入っていって、何も損なうことなくピアノが戯れている。
ひたすら自己を見つめるヴァイオリンに世界を開く、なんて野暮はない。
修行僧の傍らで蝶が舞っている、そんなピアノだ。
本質的に川畠成道の往く道は、厳しい道のままである。
こういう人の真心は、素面を晒しはするまい。
好いヴァイオリンだ。
それが、先入観から導き出された実感なのか、先入観の超克なのかは分からないけど、ヴィヴァルディが好くなくて本当に良かったと思う。
先入観の傍らで、僕らの実感は如何ほど羽ばたけようか。
上手く翔べたら、それが自分にとっての好いものとなる、案外、そちらを聴いていたのかも分からない、川畠成道のヴァイオリンは、吾の強い音である。