CD:ファウスト交響曲
凡そスポーツ全般に対して、エンターテイメントとしての面白さを一切認めていないので(別段、何かを否定したいという話ではなくて、エンターテイメントは、各人が、自分の性分に合うものを選べばよいものなのだから、一律にあてがわれるものでもあるまい、という程度の軽い意味合いでもって)、オリンピックにも余り思い入れはない。
けれども、オリンピックを巡るニュースは、そんな態度の人民にも、等しく嫌でも漏れ聞こえて来る世の中でもあるから、一体、どんな開会式を催したのか知ら、くらいには気になったので、検索してみた。
どうやら、開会式は未だらしい。
それじゃあ、なんで、今日は休みなんだ、とも思ったけど、そこまで調べるのは止めた。
それに、一部の競技は、既に始まってもいるのだそうだ。
covid-19の為に、開催も危ぶまれていたものが、万難を排して執り行われるのだから、偉業である事に、今更、異論はないにしても、どうにも不祥事が絶えないらしい様子なのが、遠巻きに眺めていても、余り面白くない。
このご時世、スポーツこそは、リモートで済ませれば良さそうなものだと思うのだけれども、それでは、公正なレコードが録れない、という事情もあるのだろうし、団体競技や格闘競技は、やっぱり相手のあるものだから、現代の科学技術をもってしても、未だ未だリアルに集う必要がありそうだ。
まぁ、そんな状況なので、今晩は、リストのファウスト交響曲を聴いた。
ピアノ2台版による演奏。
リストの音楽の妙味もまた、一切認める事が出来なかったものの、最たる一つなのだけれども、ここに来て、随分、心身に染み入る様にはなった。
それでも、このファウスト交響曲は難物で、兎に角、長大だ。
ファウストのテーゼ、グレートヒェンのテーゼ、メフィストフェレスのテーゼと、それぞれの主題を記憶して、その変容と関係性を理解して聴けば、壮大な夢絵巻とも聴こえる筈なのだけれども、何事も、大きいものは、実体を掴むのも難しい。
それこそ、遠巻きに見物すれば、オリンピック同様、その趣旨は、単純明快、崇高な精神と分かりそうなものだけれども、そこは、紛いなりにも性分に合ったエンターテイメントであるから、勢い、近付き過ぎてしまって、却って森は見えずに、木を伐るどころか、過って腕の一つも失いそうな、危うさの中にある。
闇雲なるかな、吾。
そんな、ビギナー状態だから、併録されたメフィスト・ワルツの方が、余程、すんなりと耳に入って来るのだけれども、それじゃあ、フランツ・リストの音楽を聴いた事にはならないだろう、とやくざな知性が問い掛けて来る。
リストの音楽は、壮大だ。
屡々、それは空虚に響く。
心を虚しくして、意を空にして、初めて響く楽である、という訳だ。
19世紀の洋楽には、リストに限らずとも、多分にそういう風潮は強くある様に思う。
それが、本当に苦手だった。
随分、低俗なものだとも、正直、思っていた。
偏に、こちらの徳がそれだけ低いのだ。
演奏は、パスカル・ドゥヴァイヨンと村田理夏子夫妻。
音楽の本質もまた、レコードよりもライヴにある、というのが、偉い人達の変わらず一致した見解である。
きっとそれは正しい、直観から来るものだ。
それでもなお、専ら、レコードに頼って音楽を聴いている。
そんな倒錯した人生にも、音楽はそれなりには空虚であってくれそうだ。
手近にあったCDを掛けたまでだったのだけれども、何となく、今日に相応しい一枚だったかも、かな。