求めては、二:五嶋龍の四季
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五嶋龍独奏
シンフォニア・ヴァルソヴィア
2009年発売ドイツ・グラモフォン
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五嶋龍は、五嶋みどりの異父弟で、生まれも育ちもアメリカで、ヴァイオリンは勿論、柔道にも通じているそうだ。
大学では物理学を専攻し、文武芸何れにも勝れた人である。
とても若くしてデビューしたので、その頃は、みどりの弟、神童、、容姿端麗、、、それ等の合わせ技一本というイメージが強くて、どうにも敬遠してこれまで聴かずに来た。
ドイツ・グラモフォンというブランドも、クラシック音楽の老舗レコード会社の様な顔をしているけど、実際には結構なアイドル志向で、その先駆けともなったデイヴィッド・ギャレットなんかは、王道美少年で売り出したのが、今では、すっかりワイルド・ヤンキーな兄貴に化けて、それでも、イケイケな新譜を出し続けている。
五嶋龍は、ギャレットの様にインターナショナルな売り出し方をされた訳ではなかったし、ここ暫く新譜が出る気配もないので、題名のない音楽会の司会を務めた頃には、アイドルとしての役割りは終えつつあった人なのかも知れない。
だからこそ、今の音楽を聴いてみたい人でもある。
ヴィヴァルディの四季を録音したのは二十代も前半、アイドル人気も絶頂期の頃の一枚。
これが、正直に言ってしまうと、とっても好くて困った事になっている。
初々しさ、なんてものは見当たらない。
とても成熟した音楽で、将来、再録音を果たしても、自ら打ち立てたレコードを凌駕するのは困難じゃないかしら、と思われる。
先ず、ヤクブ・ハウファ率いるシンフォニア・ヴァルソヴィアが本気の仕事をしていて、奇を衒わず、伴奏に留まらず、弦楽器の音色の美質を失うことなく攻めた表現を繰り広げており、一体、五嶋龍とどちらが主役なのかも分からない。
有名ヴァイオリニストのヴィヴァルディの録音で一番困るのは、ソリストありきのアンサンブルになってしまって、歌と伴奏みたいな役割りに徹してしまっている時だ。
寧ろ、独奏ヴァイオリンは添え物くらいの方が、四季という音楽の凄みは発動するし、ヴィヴァルディの天才も鮮烈を極めるものがある。
例えば、秋の第二楽章で、静寂で深い闇夜を音描写しない演奏なんて、聴きたくない。
夏や冬の苛烈さも、多くは伴奏が担っているから、独奏が独りでわめいちゃ、煩くってかなわない。
ヴィヴァルディの数多あるコンチェルトの中でも、四季が図抜けているのは、勿論、標題性に依るのだろうけれども、その多くを担っているのは、ソリストではなく、合奏部の方じゃあないかと思う。
イタリアの協奏曲は、ヴィヴァルディ以降、ちょっと合奏がおざなりな作品が多い気がして、そこが苦手だ。
五嶋龍の四季は、独奏にシンフォニア・ヴァルソヴィアがよく応えているのではなくて、シンフォニア・ヴァルソヴィアのアンサンブルに五嶋龍が巧みに乗っている、という風に聴こえて、尊みが深い。
それは、対決でもないし、迎合でもない。
多分、対話とも違う、飛び交う鳥の群れみたいな演奏で、アンサンブル全員がフレンズの演奏とも違う、共生の様なもの。
運命共同体ではない緩やかな連合で、そこには各人の歌がありながら、存外、一人一人の主張はない。
ヴィヴァルディの音楽って、色んな意味で人間味がないから、演者の顔が一々よく見えるのは気障で嫌だ。
感傷も情緒も見せてくれるな、風に舞う落ち葉の様に振る舞って、後は聴き手の人情に委ねて欲しい音楽。
それを以て、ヴィヴァルディの音楽には自我がない、とでも言うのなら、近代人の自我問題こそは詰まらない。
ヴィヴァルディの音楽に、貴殿は何を聴きますか?
五嶋龍の四季は、作家も演者も余り感じさせずに、季節の移ろいそのものが、やや駆け足で過ぎ去って往く。
冬の終わりに、また春が来る。
そうやって再生したくなる一枚。
才能を愛でたり、計ったり、そんなやくざな事は終いにして、広がる景色をじっと眺める。
それをわざわざ洋楽でやる倒錯も、暫し忘れて。
ヴィヴァルディの音楽には真心が希薄である、という事がしばしば言われて来た。
その通りだと思う。
情緒は季節の移ろいの中にはない。
移ろう季節に出会した人間の、精一杯の知恵の様なものだろう。
醒めてこそ哀れなり。
非情な音楽こそが人情を呼び覚ます。
それは、クールなヴァイオリンがあってこそに違いない。