CD:エスファハニのバッハ

どんな大人物にも、若い頃というのはあるものだ。

それは、時に将来を予見させつつも、まだ何者でもない姿こそ纏え、やはり全くその人、というものだ。

大バッハの音楽をあれこれと聴いてみて、結局、私が一番好きなのは、7つのトッカータという事になっている。

創作過程は十全に解明されてはいない作品で、恐らく永遠に解かれる事もないだろうが、兎に角、バッハの若い頃の作である事は間違いないそうだ。

そういう謂れの音楽だから、青年の熱情を聴く想いが強くする。

もしかしたら、この作品は習作であって、若きバッハの熱情と聴こえるものも、その実は、18世紀初頭の時代の気配を映す鏡に過ぎないとも限らないけれども、それでも、どうにも、若い熱情が火花を散らす音楽なのだ。

そういう風に響かねば困る、のだ。

実際、この作品群に取り組む演奏家達の姿勢も、少なからず、バッハの激情を炙り出す様な弾き振りなのだから、一聴き手として、バッハのトッカータに対して、大きな誤謬を犯しているとするならば、それは演奏家の罪じゃあないか。

マハン・エスファハニの録音も、正にそんなバッハ像を打ち立てている。

チェンバロという楽器は、150年くらい廃れていた楽器であるから、さぞかし古の雅な調べがするのだろう、と思っていると、随分に金属的な音がするので面喰らう。

けれども、条件が調えば、勿論、古雅な調べを奏でる奴だ。

マハン・エスファハニの録音は、その点で言えば、チェンバロいう楽器の鋭利な音を前面に押し出していて、大変に攻撃的だった。

その硬質な響きに相応しい、荒々しい演奏ともなっている。

乱暴だとか、暴力的だとか、そういう嫌味な感じを受けないのが不思議なくらいに激している。

バッハのトッカータを聴く度に、世の中に、こんなにも激しい音楽があるものか、と思うのだけれども、エスファハニの録音は、その最たる部類かも知れない。

時々、こういう激したものが聴きたくなる。

獣性。

そういうものを欲した時には、スカルラッティかヤナーチェクか、或いは、友川カズキか女王蜂か、という事になるのだけれども、バッハのトッカータに比べれば、皆穏やかなものだろう。

狂気というものを、自分の人生の内に仮置きする過程において、私の場合は、どうもトッカータが規定となっているらしい。

そういう定めは、人類が総体としてもうける場合もあるのだろうけれども、多くの人は自分の内に、その人の生き様に馴染みの好い個々人の規定を持っている。

必ずしも、人は誰でもその事に気が付く訳ではない様子であるけれども、知らず知らずに持っている。

だから、バッハよりも狂った音楽があるじゃないか、という人がいれば、それは全くその通りの事なのだ。

バッハの音楽は、とても芸術的だと思う。

それは、余り個人的な音楽ではない、という意味で。

モーツァルトやベートーヴェンより前の時代の音楽は、そもそもが余り個人的ではないという事になっている。

そんな事を言ったら、シュトックハウゼンもジミ・ヘンドリックスも、少しも個人的じゃない作風だったけれども、それは狙ってやったことだから時代の制約ではない、とでも言えばよかろうか。

そういう当世気質をもって接するならば、バッハのトッカータという音楽は、一体、どういう流儀の音楽となるのか、やっぱり駄作という事に落ち着くのかも知れない。

その未熟さだけが、トッカータの獣性を担保するのだとすれば、未熟さというものには、絶対的な価値があるという訳だ。

どうも、そういう不完全なものに惹かれる性分というものは、大和魂の困った特質らしいものだから、凡そ、大バッハという、西洋音楽史上、最も完成された作曲家の、最も均衡の取れた作品の方には心を寄せ得ないのも、とても道理に叶っているのだと思う。

寧ろ、そういう新たな魅力を西洋の音楽に与えてやるのが僕らの役割だ、と言ってもいいのかも知れない。

そのくらい尊大な態度をもって、音楽を聴かなければいけないのだと思う。

それだけが、謙虚に楽に耳を傾ける、唯一の道だと思うのだ。

だから、バッハのトッカータを、大作曲家バッハの前夜だと思うのはやめた。

バッハという作曲家の、私の人生における掛け替えのなさは、どれだけ尊重されても、され過ぎる事などないのだから。

エスファハニが弾くトッカータは心地よい。

それは勿論、西洋の正義において弾かれたものに違いないけれども、あわれなりけり。

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