展覧会:木彫り熊の申し子 藤戸竹喜

駅に掲げられていたポスターを観て、とても気になったので観に行って来た。

木彫りの熊は、北海道のお土産として定番で、昔はどこの家にも、亀か鰐の剥製と共に飾ってあったけれども、正直、あんなもの何がいいのかちっとも分からない、という印象しか残ってない。

きっと、藤戸竹喜も、初めはそういう熊を彫っていたのだろうと思うのだけど、かなり早い時期から、お土産の熊とは異なる次元に飛んでしまった様で、こんなもの作られたら他の木彫り職人が困っただろうな、というくらい圧倒的だ。

それでも、飽くまで、クラフトマンとして木工に取り組んでいる自負があったそうで、確かに、どの作品を眺めていても、アートをまとった所は見られない。 

芸術なんてやくざなものに成り下がらない心地よさがあって、それどころか、気高さすら漂っている。

それは、民芸とも少し違った、製作家の矜持の様なものなのかも知れない。

この人の仕事は、手仕事と言うよりは、目仕事であったと思う。

熊を通じて、藤戸竹喜は、視るという事を突き詰めている様に思えてならない。

手の巧みさは、全く手段であった。

そんな熊や鹿を彫っている。

愛眼物としての木彫り作品は、早くも30代の終わり頃には完成されてしまっていた様で、誰が観ても一目で好い作品が、ごろごろと展示されていた。

この頃の作品は、構図の取り方がもう正解で、動物の躍動も見事、そして、ほんわり愛らしい。 

ただ、そこから先が、藤戸竹喜の本当に凄い所で、どんどんリアリズムのへの世界へと進んでいく事になる。

だから、後年の円熟期の作品は、一見して、余り美しくないと思った。

どうしてそんな具合に思えるのかも分からなかったから、鑑賞にもとても時間も掛かってしまう。  

やり尽くして技巧の世界へと行ってしまった、なんて見方も出来そうに思えたけど、やっぱり、そんなもんじゃない。 

この人は、結局、存在するという事、そのものにぶち当たった様である。

執拗に細やかになっていく毛彫に目が奪わそうになるけれども、藤戸の眼が本当に捉えて離さなかったのは、寧ろ肉体の方であったらしい。

後年の作品は、明らかに肉体が弛んでいく。

脂肪のたわみが見事に捉えられていて、取り分け、熊の尻にそれが顕著だった。

作家と一緒に熊も歳を取ったのかは分からないけれども、かつては、筋肉の躍動によって捉えられていたものが、そこにある、という素朴な現実に置き換えられている。

その最たるは人間像、それも杉村フサ像の写実に極まっており、ヤイタキエカシ像においては、ついに現実をも超えて、あるという事そのものが、木に宿される。

藤戸の最後の作品は、未完の遺作となった熊の木彫りで、構図はなんの衒いもない。

大まかな造形は完成しているけれども、毛彫りは全く手付かずに終わっている。

そして、今回、展示されている、どの熊よりも、この未完の熊が、一番熊らしかった。 

その理由は、よく分からない。

ただ、やっぱり、どうにもしようがなく、熊なんだ。

構図に対する鋭敏な感覚も、一頭の熊のリアリズムには、敵わない。

この未完の作品がなかったら、藤戸竹喜の作品の見方も、また違ったものになったと思う。 

今回の展覧は、殆どの展示品が個人蔵なので、是非とも図録を買って帰ろうと思ったのだけど、意外な程に、全く魅力が写真に収まっていなかった。

一枚のポスターが目を惹いて観に行ったのに、現物を観てしまうと、こうも平面には収まってはくれないものなのか、それとも、単純に写真の距離感がまずかったのかは、解らない。

だから、会期中にもう一度、足を運ぼうかと考えている。

行けばまた、違った姿を見せてくれるに違いない。

次回はもっと真剣に、狼を眺めてみたいと思う。


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