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#10 諦めなくては生きてゆけない。そして死もまた諦めである。【週刊自室】

—— 一番の理想は、相性の合わない他者と一切衝突せずに生きてゆける社会だと思うんです。
「夢みたいな話だね」
—— それでも、信じなければ変革は起こらないじゃないですか。
「具体性がないよ。そこが問題なんだ」
—— それは、そうですけど……
「出生から死までを完全に独力で成立させることが可能であるような社会構造なくしては、君のいう理想は達成できない。それは他者の存在しない世界だ。それはもはや、社会ではない。
 君の言っていることは、たんなる撞着なんだよ」
—— 社会が社会である以上、他者との不本意な関係性は避けられないということですか?
「その通り。社会を生きる限り、というよりこの世界に存在する限り、苦しみは回避できない。
 その代わり、いかなる者の苦しみも看過されるべきではないんだよ」
—— 僕の苦しみもですか?
「もちろん。とはいえ、そのように理解している人間はそう多くないようだけど」
—— そうなんですか……
 みんながそのことを理解したら、社会はどうなるんでしょう?
「そんなことはけっして起こらないよ。それも撞着だ」
—— そんなあ。
「これは最も大事なことだから何度でも言うけど、我々が生きていく上で一番に望むこと——無痛・解放・理解——は、生きているうちには絶対に成就しない。そして、それでもできるかぎり達成に近づこうとする試みを続けることが、生きるという営みなんだよ」
—— では、それを諦めることが、私たちの死なのですか?
「諦めというのは、究極の答えなんだ。
 我々が死を迎える時、すべての探究は終わる。
 諦めが死なのではなくて、死が諦めなんだ」
—— ということは、諦めても死にはしないということですか?
「もちろん。人生は諦めの連続だからね」

『纐纈歩問答集成』

 精神科医の斎藤環氏は『社会的ひきこもり』において、ひきこもりはある種の未成熟の表出であると指摘している。
 ひきこもりの多くは男性だ。ジェンダー規範は男性に万能さを求め、「去勢否認」の教育システムにおいて男性は、「万能である」という錯覚と「万能でなければならない」という圧力に浸される。
 そうして男性は、成熟の機会を経ずに大人になってしまうことがあるという。

 耳の痛い話だ。
 当然のこととして、世界は自分の都合のいいようには作られていない。
 一人の人間が一生の中でできることは、想像に反してあまりにも限定されている。
 自分には何ができて何ができないのか、その等身大を把握し、それに基づいて自他の幸福が最大になるような行動を選択するのが、(一般論としての)成熟した人間の姿だ。

 それに比べると、つくづく私は未熟であると思う。
 私は、いまだ自分を諦めることができていない。
 私には豊かな感性と確かな知性があり、打たれ弱くとも着実に自己実現をする能力があると、私は信じ続けている。
 そして私は、世界を諦めることもできていない。
 お金がなくては生きることを許されない。社会的に無価値な人間は自己実現を許されない。そして、苦痛なくして死ぬことは許されない。
 私は、いまだにそうした堅強な事実を受け入れることができていない。

 私は幼稚な迷いのなかにある。
 私には諦めが足りない。決定が足りない。去勢が足りない。
 私は私を知らない。
 私は他者を知らない。
 私は私を殺さなければならない。
 この未熟さを身分証とする私を、徹底的に破壊し尽くさなければならない。
 私は外見差別を疑った。異性愛規範を疑った。青春を疑った。学歴主義を疑った。資本主義を疑った。競争主義を疑った。能力主義を疑った。出生主義を疑った。自己責任論を疑った。自由意志を疑った。
 私は自由になりたかった。
 私は自由を知った。
 しかしその自由は、この世界には存在しなかった。
 私は自由にはなれなかった。
 私はただ、この世界から距離を取っただけだった。

 私はただ、幸せに生きたかった。
 自由な心を持ち、進んで選択をし、能力を生かし、競争に身を投じ、生活を自立させ、学究に陶酔し、若さを煌めかせ、愛を育み、ただ美しくありたかった。
 私には、できなかった。
 私には、なにも、できなかった。

 私に世界は変えられない。私に私は変えられない。
 もはや全ては仕方のないことだと、自らを慰めることしかできない。
 いつかに約束された死だけが、私をぼんやりと照らしている。

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