#8 向社会的で、抗精神病的で、高ドーパミンな利己精神【週刊自室】
『道徳形而上学原論』(カント著)の一節を引用している『ドーパミン中毒』(アンナ・レンブケ著)の日本語訳(恩蔵絢子訳)中の一節(p.161ー162)です。
つまり一点の曇りもないひ孫引きです。もうなにがなんだか。
『ドーパミン中毒』は、日常に潜むさまざまな依存症の脅威と、それらから脱出する方法について説明している本です。
このカントの引用は、性依存症から脱出したある患者が「その新しい生き方によって束縛されていると感じるどころか、自由を感じて」(p.161)いる様子を指したものです。
その患者は、性衝動のスイッチになりうるあらゆるコンテンツを生活から排除することによって依存症から解放されました。
要は自分の欲求を縛り付けたわけですが、患者は性行動による激しい快楽を手放すことによって、日常の些細な幸福を感じ取れるようになったといいます。
私はそれを読んでしみじみ考えました。
「俺も従いてえなァ……“内なる法”ってヤツによォ……」
ひ孫引きした箴言を、原著にあたることもせず自己解釈するのは許されざる愚行だと分かってはいたつもりなのですが、それでも「内なる法」という言葉に何か惹かれるものを感じずにはいられませんでした。
いったい内なる法とは何なのか。それに従うとはどういうことなのか。
きっとそれは、数え切れないほどの自己矛盾を抱えながら生きている私を徹底的に打ちのめしてくれるような、とてつもなく絶対的ななにかであるはず。
私は、自分の人生を捧げるに値する、根源的で包括的な信条について日夜考えています。
この記事では、依存症について考えながら、根源的で包括的な信条を発見するためのかけらを探していきます。
依存症にひそむ自己矛盾
『ドーパミン中毒』によれば、刺激的なコンテンツに溢れるこの世界においてバランスを保って生きていくためには「徹底的な正直さ」が不可欠であるといいます。
それは第一に自分の行為に自覚的になるために必要であり、それはつまり、依存状態に陥っている人間は自分の行為に蓋をして、見て見ぬふりをしている側面があるということを意味しています。本当は依存症である自分に対して、これは依存ではないと嘘をついているわけです。(うう……)
依存症のある人が薬物摂取や飲酒や他の衝動的行動に、誰にも見えないところで、時には自分自身からさえ隠れて密かに耽る。
「二重生活」と呼ばれるこうした状態は、たしかに正直さを欠いています。自分自身に対して筋が通せていません。(うう……)
ということは翻って、『ドーパミン中毒』における「内なる法に従う」という言葉は、自分自身に対して筋を通すことを指しているのかもしれません。
「二重生活」を送ることの背景には、依存行為による罪悪感や後ろめたさがあるはずです。それは自分の中に存在する主義信条のようなものと自分の生活が衝突するために生まれるものです。
ひとまずカントの原著にあたるのはまた今度にしますが(不適切な先延ばし)、こと依存症治療の領域において尊ぶべき「内なる法」というのは、この自分の中にある主義信条を指しているのではないか、という仮説に私は至りました。
ただ、この推論に依拠すると、そもそも主義信条自体が退廃的なものであった場合は、あけっぴろげに依存行動に耽って、そのままの自分を肯定することが「内なる法に従う」ことを意味することになりかねません。「罪悪感こそが罪である」という感じで。
これは依存症への誤った対処でしょうか。
そもそも依存症は、治療すべき病なのでしょうか。
万物はドラッグであり、ドラッグでないものは存在しない
まず確認しておきたいのは、私たちの生活が、依存症を引き起こすもの(ドラッグ)に囲まれているということです。
『ドーパミン中毒』では、あらゆるものがドラッグになりうると指摘されています。
薬物、たばこ、アルコール、食べ物、ニュース、ギャンブル、買い物、ゲーム、ポルノ、Instagram、YouTube、旧Twitterなどなど、現代の消費生活のほぼ全てが依存症の病理を孕んでいると言ってもよいでしょう。
これは挙げ出したらキリがありません。
そもそも「依存症」というのは、広義には
と定義されます。
これらを援用すると、私たちのあらゆる習慣的行為は依存症の道程にあり、それらを依存症として問題視するべきか、あるいはただの習慣として看過するべきかというのは、その行為が「自分自身や他者を害する」かどうかの違いによって決まる、と言えそうです。
(継続的かつ)「衝動的に摂取したり行ってしまう」ことについては、自分自身や他者をまったく害さない場合、それを依存症として問題視する必要はないでしょうが、衝動的な行為が生活に入り込んでいる時点で、まったく害が発生していないとはとても言えないでしょうね。
何にせよ、重要なのはその行為が有害であるかどうかという点です。
ネオ・快楽主義と健全な利己精神
では、依存症によって自分自身や他者が被る「害」とは具体的に何でしょうか。
『ドーパミン中毒』では、他者が被る害についてはあまり述べられていませんが、自分自身が被る害については多くの記述があります。
薬物による身体的なダメージや、衝動的行為に時間を奪われることによる不利益は確かに大きな問題ですが、この本の主題はそこではありません。もっと単純で普遍的なことです。
快楽を追求しすぎると、かえって快楽を感じにくくなってしまうのです。
『ドーパミン中毒』は、この転倒した状況を生む快楽主義に警鐘を鳴らしています。
人々を幸せにするための装置が増える一方で、人々はますます心を病んでいる。
子供は傷つかないよう丁重に育てられ、過度に繊細なまま大人になる。(うう……)
自分の幸福に専心することが、かえって自らを不幸にするというこの本末転倒な状況は、確かにこの上ない皮肉です。
しかし、快楽主義が一概に悪であるとは言い切れません。
なぜなら、「よりよい快楽のために、快楽を放棄する」というのは結局、目指すところが快楽主義と一致するからです。
このようなことも書かれていますが、どうも少し引っかかるところがあります。
そもそも利他性は利己精神の副産物でしかなく、それは「自分の幸福」のための手段以上のものにはなれない、と私は考えています。
だって、人に優しくするのは何よりも気分がいいでしょう。気分がよくなるから人に優しくするんでしょう。
それでいて、いけ好かない人には優しくできないでしょう。だって気分が良くならないから。それでも優しくできるというなら、人に優しくすることがとっても“好き”ということですよ。自分が好きなことをしているだけですよ。それって利己性そのものじゃないですか!!
自分の幸福につながらない利他行為は、ただの犠牲ですよ!!
それは利己精神が迷走した結果に他ならないのですよ!!
自分が純粋な利他精神に依って立っていると思い込むことほど傲慢な行為はないと思いますよ、と今日も虚空に向かって語りかけています。
まあ、利他性の土台が利己精神にあるという主張は、ちょっとさみしい響きがしますが。
重要なのは、利己精神の自覚です。利己精神を自覚せずに行われる利他行為は、かえって悪い方面に暴走しかねません。利他行為は本質的に押し付けなのです。それをまず理解するべきなのです!!
悲しむべきなのです!!
自分が優しい人間になれないということに絶望して!!
打ちひしがれるべきなのです!!
底の底まで落ちるべきなのです!!
落涙に落涙を重ねるべきなのです!!!!
枯れ果てるまで泣くべきなのです!!!!
そうしてはじめて人は人に優しくなれるのではないのですか!!!!!!!!
……ともかく、この本が主張していることは「ネオ・快楽主義」です。
崇高な利他精神について語っているようで、その実説明しているのは、応用的な利己主義に他なりません。
こう書くと何やら批判しているふうですが、全くそうではありません。
散々述べたように、利己精神は利他性の土台です。私たちが人に優しくなるためには、まず自分を十分に愛する必要があります。この本には、その方法が事細かに記述されているのです。
そして、自分を愛そうという心づもりがあるならば、くれぐれも依存症には気をつける必要があるぞと、この本はそう言っているわけです。
なるほど、少しずつですがわかってきました。
私の求める根源的で包括的な信条は、この利己精神の探究の先に存在するのかもしれません。
それはきっと、刹那的な快楽に溺れるような、退廃的で脆弱な思考回路を肯定するものではありません。
それはきっと、向社会的で、抗精神病的で、高ドーパミンな利己精神です。
私はひとまず、健全な利己精神を育むことにします。
そのために、快楽に対しては忌避的に行動します。
むしろ苦痛を愛します。
痛みなくして成長はありません!!
私は傷を、血を、闘争を求めます!!
苦痛を!!
もっと苦痛を!!
私に苦しみを与えてください!!
それが私をこの苦境から救い出すのです!!!!
それが私をより健やかな快楽に導くのです!!!!
それが幸福になるために残された唯一の道なのです!!!!
……………………嘘だろ????????
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