#11 楽しいことがなにもないので、『八本脚の蝶』を読む【週刊自室】
とても天気がいい日に、図書館へ行きました。
散歩ついでに、なにか面白い本を見つけられたらいいなと考えていたのですが、いろいろと棚を物色しても、驚いたことに興味とか好奇心とかいうものがすこしもわきません。
知っている作家や作品を見つけても、ちょっと読んでみようとか、手に取ってみようとか、そういう気持ちがいっさい起こらないのです。
ああ、心が弱っているなと、そう思いました。
結局、なにを読めばいいのか分からずにそのまま帰ってきてしまいました。
こんなになにもない生活で、なにを弱らせることがあるかと自分でも思うのですが、むしろそういうなにもなさ故なのか、最近になってうつ症状が悪化してきて、無気力と無関心に生活を絡み取られています。
なにをするにも集中ができず、全てが味気ない作業のように感じられ、取り掛かってみても最後には布団に仰向けになって呆然とするだけなのです。
なにもない。
どうでもいい。
これがまたタチの悪いことに、つまらない一方でなんだか居心地がいいのです。
自室の窓を全開にしてドアを開くと、停滞していた気流が動き始めます。
カーテンの擦れる音、カラスの足音、列車が橋を渡る音、ドリルのような工事音、近所の親子の声。
いつも聞こえないようにしていたさまざまな雑音が、すこしのくぐもりもなく耳に届きます。
私はそれを、楽しむでも、嫌がるでもなく、ただ無関心のままに聞き届けます。
じつに退屈な時間です。
そして、この退屈さこそが、私が求めていた穏やかさであるように思われて、すこし安心するのです。
けれども悲しいことに、どれほど無為に過ごしていようと、お腹は空きます。
だからご飯は食べます。とても悲しいです。そして美味しいです。それがまた悲しくて仕方がありません。
そのようにして過ごしていると、ふいに内省的になる瞬間があります。
私はその度に、これまでのことを思い出します。
そして、別の意味で悲しくってしょうがなくなります。
なにもない。
どうにもできない。
なにもしないままでは、生きていけません。
私には、生きる力がないのです。
これまで散々、うまく生きようともがいてきたのに、こんな場所に行き着くなんて。
私はじぶんが悲しくなって、涙が止まらなくなります。
もっと楽しく生きたかったんだけどなあ。
なにがだめだったんだろうなあ。
なにもなくなりたいなあ。
死にたいなあ。
死にたいよ。
死にたい。
私は日記をつけています。
最近は暇なので、長々と考え事を記しています。
言葉は虚構だけれど、もとより私は事実を生きるのが苦手なのだから、日記という媒体は私を記述するのに最適です。
私は虚構が大好きです。
私の人生は間違いだらけで、間違いが再帰的に私を形作ってきました。
私は間違いを出力します。
間違いは私を出力します。
どうせ間違いな人間ですから、私はいっそ、間違いそのものになりたいと思います。
私は、虚構になりたい。
いつしか私の肉体が失われたら、私にまつわる記録や残骸が、私そのものになるのでしょうか。
そうしたら私は、虚構になれるでしょうか。
私はもう、事実を生きなくてもよくなるのでしょうか。
ああ、すてきだ。死ねば虚構になれる。なら死のう。今死のう。
そういうわけで、もう限界なので、最後の力を振り絞って一冊の本を開きました。
『八本脚の蝶』(二階堂奥歯)です。
私は一年ほど前に、精神科病院の一室でこの本を読みました。
元はネット上の日記で、さらには著者が自殺して終わるというから、自殺企図で入院した私としては読まずにはいられませんでした。
母に頼んで図書館で借りてきてもらったその本は、大きくて、分厚くて、じっとして動かない真っ黒い夢のような佇まいをしていました。
私は空っぽの入院生活に言葉を敷き詰めるようにして、無心にそれを読みました。
本、コスメ、フェミニズム、マゾヒズム、そして「あなた」への想い。
知らない言葉。知らない人。知らない作品。
私は、なにもわかりませんでした。
わかると言ってはいけないような気がしました。
けれど、これがとてつもなく価値のある本であるということだけは、わかる気がしました。
その後、私は本屋で『八本脚の蝶』を買いました。
あんなにすばらしい本を、一度読んだだけで済ましていいわけがない。ずっと手元に携えておくべきだ。そう思ったのです。
行きつけの本屋には文庫版しか置いていなかったため、ひとまずそれを買って本棚に入れました。
そうしてしばらくそのままにしていました。
私は今になってまた、『八本脚の蝶』をパラパラと読み始めました。
病室で読んでいた頃がちょうど氏の没後20年で、それからさらに1年ほど経ったわけですが、なんだかそう昔のことのようには思えないくらい、言葉の一つひとつが新鮮味を持ってきらきら光っているように感じられます。
私が生まれる前に書かれた文章。
私が生まれる前に去っていった人。
私が生きていく上で抱える悩みの数々は、きっとその全てがかつての誰かによってすでに検討され尽くしたことなのだろうということは、とっくのとうにわかっていました。
しかし、だからといって解決済みなのではない。
『八本脚の蝶』を読むと、そう思ってしまいます。
なぜ、私の悩みは未解決なのか。
奥歯氏は『八本脚の蝶』にて、たくさんの苦悩を吐露しています。
私はそれらの一部が、私の抱える問題にも通ずるように思えて仕方がないのです。
あたりまえのこと。
あたりまえに学校に通い、あたりまえに卒業し、あたりまえに働く。
私はがんばり続けることができませんでした。今も、あたりまえのことができずにいます。
そして、あたりまえのことから徹底的に逃げようとしても、四方は大きな壁に塞がれています。
痛いからって首つり止める人がいるでしょうか。
私もですけど(それで入院した)。
どんなに心が苦しくなっても、身体が死ぬことはありません。
それは、身体の強さでもあります。
心の弱さに比べて、身体はあまりにも強い。
心が死んでも、身体は死なない。
とどめは自分で刺さなければならないのです。
私にはまだ、できません。
10円ガムのハズレの迷路のように出口のない苦しみが、私を取り囲んでいます。それは、確かに私の選択によってもたらされた、私の人生そのものです。
幾重もの間違いが積み重なって、私はとうとう落とし穴に落ちてしまいました。
間違いの連鎖によって生まれた、「八本脚の蝶」のオブジェ。
ああ、まさに、私のように。
けれど私は、蝶にはなれなかった。
そう。そうなんです。私は蝶のように美しくはない。
私は二階堂奥歯ではない。私は二階堂奥歯にはなれない。
うっかり失念しそうになりました。いけない。
さて、身勝手にも氏の苦悩に共感しようとした私ですが、先にも触れたように、彼女は最後には、自らの意志でこの世を去ります。
奥歯氏はとても賢かった。あまりにも聡明だった。
彼女には、あらゆる苦しみが見えていた。
それは、どんなにつらいことだったのでしょうか。
賢さの前に人間は無力であるとも言わんばかりに、『八本脚の蝶』は、無数の苦しみの先に「死」という明快な答えがあることを生々しく見せつけます。
せつないです。あまりにせつないです。こんなにせつないことがありますか!
もう悲しくて仕方がありません。どうしたらよいのですか。こんなに悲しい気持ちになって、私はこれからどうしたらよいのですか!
つらいです。悲しいです。苦しいです。やるせないです。胸がきゅーっとします。泣くのを必死にこらえます。
ああ、苦しい。苦しくてたまらない。
でも、最後のさいごに綺麗な世界を見られたというから、私は少し安堵するのです。
そうして私は、1年ぶりに『八本脚の蝶』を読み終えました。
ああ、この本に出会えてよかった。ほんとうによかった。
この本、ほんとうに心当たりのある文章が多すぎます。
それなのに、全然わからないんです。なんにもわからないんです。わかると言ってはいけない気がするんです。
さて、夢から醒めたところで、私の目の前には再び空っぽな日々が現れました。
一体どうしたらよいのでしょう。生きるのはつらいです。でも死ぬのはもっとつらいです。
ああ、なんてすてきなことばたち。
私もいつか、この本のようになりたい。
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