【欲望】欲望は、足りない(不足)という幻想と、幸せは自分の外にあるという幻想が燃料になっているので、わたしたちはそれを追い求め、獲得しなければならないと思います。
欲望
『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P249~252
欲望とは、脅迫的にもなりかねない欲求であり、それが過度になると、強欲と呼ばれます。一方、人間の営みの重要な原動力でもあり、経済全体を劇的なまでに活気づけます。通常の欲望は、満たされると自然に消えます。欲望は、動物の生体上の空腹感にその起源があります。欲望が満たされると、何かが完結した感があるので、精神は解放されて内面に向かい、霊的な価値を追求することができます。欲望自体はプライドと同じで、間違っていると非難されるべきではありません。欲望は、教育や保健などの有益な活動に向けるならば役立っていると言えるでしょう。強欲が非難される第一の理由は、その動機が利己的であり、他者を搾取するものだからです。強欲は、他者を支配したいという欲求につながっているので、執着を表します。
欲望は、足りない(不足)という幻想と、幸せは自分の外にあるという幻想が燃料になっているので、わたしたちはそれを追い求め、獲得しなければならないと思います。欲望の対象となるものは、それが象徴するものやその神秘性によって誇張され、過大評価されてしまいます。「自己」の喜びの感覚は、欲望によって遮断されます。欲望が満たされると、自我(エゴ)は外側の対象を獲得した結果として喜びを感じますが、それこそが巧妙な幻想です。というのも、その喜びの源は「自己」にほかならず、欲望が満たされることによって一時的に障害が取り除かれたことを意味するからです。わたしたちが体験する幸福感は、「自己」から放たれるものであり、自我(エゴ)の苦悩によって遮断されていないときに、輝き出します。
中毒の場合、欲望は非常に強力で、執着や渇望につながります。ドラッグやアルコールは、とても低い測定値が出ますが、高次の「自己」の感覚を経験するために、低い自我(エゴ)を誘惑します。つまり、ドラッグやアルコール自体は、”ハイ”な状態を作ることができません。それは、「自己」の輝きなのです。しかし、自我(エゴ)はドラッグと快楽を結びつけます。
喜びは540以上に測定されますが、ドラッグは80以下です。どうして75しかない薬物が500以上の経験を作り出すことができるのでしょうか。答えは明白です。そんなことはあり得ません。これはたとえば、ドラッグがただ太陽を覆う雲を取り除いたので、太陽が輝き出したというのと同じことです。しかし、騙されやすい自我(エゴ)はそのエクスタシー、喜び、幸福感をドラッグによるものだと思い込みます。中毒者は、実は「自己」が醸し出す喜びの経験に中毒になっているのです。そして、その喜びを得る唯一の方法だと信じていることを繰り返します。たった一度の経験でも、決して忘れることができません。渇望は、その喜びの”高揚感(ハイな状態)”に対して起こるのであって、ドラッグそのものに対してではありません。
霊的な探究者にとって、欲望や執着は成長の妨げになるので、彼らはそれが湧き起こったとき、それが象徴するものを神に明け渡します。と同時に、それが表す立ち位置を特定し、神に引き渡すことができます。それは成長にとっての重荷となるからです。霊的な成長のある局面を迎えた求道者が、あらゆる所有物に背を向けるのはよく見られる現象です。けれども後には所有の感覚が消滅することによって幻想を物に投影することがなくなるので、所有物を障害あるいは財産と見ることもなくなります。
無限に欲しがり、渇望する連鎖を解くために、「すると、どうなるの(and then what?)」というエクササイズをするとよいでしょう。わたしは○○が(仕事、お金、もっとよい車、学位などなんでも)欲しいと言って、その後に、「すると、どうなるの?」と自らに問います。答えはいつも、「するとわたしは幸せになる」という、最後の信念にたどり着くことに気がつくでしょう。
通常の人生では、欲望や達成は一時的な解放感をもたらしてくれますが、またすぐ別のものに欲望の対象が移り、それが欲しくなります。成功とお金は、わたしたちが最も抱きがちな幻想のゴールであり、それに取りつかれてしまうことも少なくありません。
そこで、あなたが今の状態に幸せを感じられなければ、状況が変化して欲しいものが手に入ったとしても、まだ幸せを感じられない可能性があることを知っておいた方がよいでしょう。今を幸せに感じられなければ、未来においても同じです。というのも、どこに幸せの源があるのか、発見できていないからです。
禁欲主義の価値は、生きるために必要最小限のもので満たされ幸せを感じることができる力を発見することにあります。幸せになるためには、実際に何ひとつ必要としないことに気づくことは、大いなる喜びをもたらします。テレビや音楽などの小さな外的な刺激さえも必要ないのです。会話や人の存在、活動も然りです。さらに進んだレベルでは、ちょっとした考え事などの気晴らしさえもいらず、存在そのものの気づきだけで充分であることを学びます。「自己」が「十全性」として輝き出し、あらゆる欠乏と他の何かを消滅させる、より大きな幸せを発見するのです。すると、欲するものは何ひとつなくなり、欲望の源が消滅します。なぜなら「無限の<わたし>」としての全体性は、それだけで完結しているからです。
通常の人生では、成功を求め、地位獲得の野望を持つことは当然のことであり、これはラジャスの性質を表しています。停滞していることへの抵抗のかなたには、意識の進化の兆しがあります。霊的な求道者は、成功するための活動や地位は障害であり、背後にプライドと執着があると指摘します。わたしたちは、すべての行動を神に明け渡し、捧げることで、こうした側面を超越することができます。卓越性の喜びとは、内的に報われるものであり、真の成功はプライドではなく、感謝によってもたらされるのです。
さらに意識の進化が進むと、行動の背後にある個人的な”わたし”という幻想が消滅し、あらゆる活動は自主的で努力が要らないものとして経験されます。この現象は、スポーツや芸術活動の中でよく体験されるものです。ジョギング走者は、「できない」という限界を超えたときに、何の努力もなく走り続けることができる体験をします。ダンサーは、疲れを知らず、楽々と踊り続けられることがあります。労働者も、難なく働き続け、まったく消耗しないことがあります。どんな活動をしていても、突然、無自己の状態を発見することがあり、それは楽しく、エクスタシーを伴うことさえあります。行動の担い手が自己ではなく「自己」であることに気づくことは、ある種の変容をもたらすような喜びとなります。
生命の自発性は、努力なくして互いに作用している本質の、ひとつの表現です。「創造」の奇跡は間断なく訪れ、万物はその「源」である「神性」を分かち合っています。というのも、いかなるものも「神性」の摂理の外には、存在することができないからです。生命が神聖であることが一度でも明らかにされれば、文字通り、「いと高きところにいまします神に栄光あれ!」の意味するところが実現されるのです。
俗に言う、霊的な欠陥あるいは障害そのものが、それらを超越する跳躍台となりえます。新たなコンテクスト(文脈/状況)の中でとらえ直すことで、ネガティブだったものがポジティブに転じ、神の発見への道となります。どんな欠陥でも背後に宝があり、それらすべては神への扉なのです。
普段使わないような難しい言葉で表現してあったりしますが、何度も読み返すことで、愛が基盤の気づいている心の立ち位置で読み解いていけると思います。
「神に明け渡す」を、僕が今捉えている段階で言葉にすると、動物脳(本能)=自我(エゴ)と同一化せず、愛が基盤の気づいている心の立ち位置にいようとする意識、そしてその選択・行動が、神に明け渡すことに近づくことだと思います。
ドラッグがただ太陽を覆う雲を取り除いたので、太陽が輝き出したというのと同じことです。
僕らの内側にはすでに喜びがある。その喜びが太陽。太陽は内側で命として、存在するだけですでに輝いている。しかし、動物脳(本能)=自我(エゴ)は怖れが基盤のネガティブであるため、命という平和・喜び・愛の源を信じていない。それを埋めるために、動物脳(本能)=自我(エゴ)は欲望を使う。
欲望は、足りない(不足)という幻想と、幸せは自分の外にあるという幻想が燃料になっているので、わたしたちはそれを追い求め、獲得しなければならないと思います。
獲得せず、搾取せずに、みんなで必要なものを分け与える。そんな世界を、ステキなお友達が、ステキに言葉を紡いでくれた動画を是非、ご覧ください。
僕は、誰よりも動物脳(本能)=自我(エゴ)が肥大化した経験をしたひとりです。その経験があったからこそ、愛が基盤の気づいている心の立ち位置を言葉にしてある『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著にであえ、探究できたと思っています。
是非、共に、愛の地球解放のために、自分の動物脳(本能)=自我(エゴ)と向き合い、相まみえて、愛が基盤の気づいている心の立ち位置をお互いに護りあいましょう。
サムシンググレート、ゼロポイントフィールド、ワンネスの愛、の神の臨在の立ち位置です。きれいな世界です。
動物脳(本能)=自我(エゴ)は、それを、「きれいごと」で片づけようとします。あなたに、逢ったことがなくても、根っこは繋がっています。ありがとうございます。