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耳で聴いて学習|第18章「無心(ノー・マインド)」(後編)|【Q:では、世に言う成功とは何ですか?】
『I<わたし>真実と主観性 デヴィッドRホーキンズ著』P391~P399
第18章「無心(ノー・マインド)」(後編)
【Q:では、世に言う成功とは何ですか?】
A:自我(エゴ)は、獲得や支配を成功と見なします。一方、気づいている心は、充足感、完了感、平穏、そして平和と愛の喜びに目を向けています。自我(エゴ)にとって、獲得すべきものは外側にありますが、霊は、存在そのものの常にある喜びを内側に見出します。それは、コンテント(内容/中身)や形とは無関係です。霊にとっては、雨の日も晴れの日も同じです。気づきは、形をとらえる代わりに、ただ特性を楽しみます。したがって、”ともにいる”ことを楽しみ、所有したり支配したりすることに興味がありません。気づきは、目的を原動力とせず、あらゆる状況を等しく楽しむ性質を重んじるのです。
【Q:思考活動もなしに、気づいている心はどのように情報を得るのですか?】
A:気づいている心は、論理よりも直観に頼ります。また、特定の立場を持たないので、変更したり撤回したりすることを厭わず、自己修正的です。ゆったり構えた姿勢は、特定の視点にこだわらないので、いくらでも変化を受け入れます。立ち位置から自由であれば、「わたしが間違えていた」と簡単に言うことができます。自我(エゴ)のほとんどは、自分の”誤り”を認めるよりは、死んだほうがいいのです。
気づいている心は、全体像をとらえ、選択肢を有することに価値を置きます。したがって、より柔軟で適応性があります。自我(エゴ)は、詳細に焦点を置きますが、気づきは、全体性と本質を見ます。自我(エゴ)は排他的ですが、霊は包括的なのです。
【Q:気づきの知っている状態はどこから来ているのですか?】
A:「自己の臨在」は、「真実の十全性」を照らします。万物はその神性、すなわち「無限の至高性」において等しく、あらゆる存在と創造はそこから生じています。選択や区分はなく、すべては等しく価値があり、重要です。
反対に、自我(エゴ)の焦点は偏狭で、意図的に抑制されているので選択的です。自我(エゴ)はいつも”問題”を探しています。自我(エゴ)にとってはすべてが”問題”とみなされるのです。その結果、自我(エゴ)の状況判断は重大なミスや誤算が多く、その被害の大きさは計り知れません。-時には全人口に及ぶこともあります。このミスを犯しやすい性質は、自我(エゴ)/心(マインド)に備わった欠陥が原因しており、というのも自我(エゴ)は、自らの憶測や立ち位置に都合のよいデータだけを選び取り、そうではないものを無視するからです。自我(エゴ)は頑固であり、社会の集合的な自我(エゴ)となればなおさらです。気づきは、「王様は裸だ」と無邪気に言ってしまう、純粋な子供に近いのです。
自我(エゴ)の頑なさと、誤りを認めない性質は、自己陶酔的な自己中心性やプライド、虚栄心がその土台となっています。国全体を覆う集合的な自我(エゴ)は、国の衰退と崩壊をもたらします。政治や宗教の狂言者は、国家主義的な虚栄心やスローガンを誇張し、数十年からひどい場合は数世紀にもわたって、国民を喰いものにします。このような歯止めのきかない肥大化した自我(エゴ)の立ち位置によって、数百万もの人々が虐殺されたり、煽動的、指導者たちが失脚したり、国民全体が滅亡したりすることさえあるのです。
【Q:国事における自我(エゴ)の影響は、致命的ですか?】
A:世界史は、自我(エゴ)の立ち位置の代償を克明に刻んでいます。戦争は、子供の目にも敗北であることがわかってもなお続けられます。ようやく現実をありのままに認め、無益な虐殺に終止符を打つまで、さらに数百万人もの人々が命を落とします。第二次世界大戦の終戦直前のあり様は、誰もがよく知る代表的な例です。自己欺瞞にとらわれた国の目を覚ますために、ふたつ目の原子爆弾が投下されました。ー自己欺瞞がさらにもうひとつの爆弾を自国に課したのです。
自我(エゴ)は、致命的な状況を正しく判断することができないだけでなく、自滅のために喜んで大勢の命を犠牲にします。つまり、自我(エゴ)はきわめて有害な素質を持っており、自らの過ちを認めるよりは、”死んだほうがましだ”と思います。こうして、自我(エゴ)は平気で愚行をやってのけるのです。不幸なことに、一九八〇年代後半までは、人類の行動を支配していたのはこのようなエネルギーでした。自我(エゴ)は非妥協的なので、失敗から学ぶこともしません。大惨事を引き起こしたにもかかわらず、失敗に終わった政策を復活させようと画策するときは、いつも道徳的なキャッチフレーズを用いますが、内実は宣伝者が政治的利益を獲得したいだけで、騙されやすいナイーブな国民を利用しているのです。
【Q:どうしてこんなに明白な証拠があるにもかかわらず、依然として社会的詭弁がまかり通っているのでしょうか?】
A:自我(エゴ)は、自らが正しく見えることだけに興味があり、それがどんな結果をもたらそうと”何かをする”ことのみに焦点を置いています。解決しようのない社会問題があるということを、自我(エゴ)は認めようとしません。そのような問題は、人間であることの根源的な要素として受け入れ、それとともに生きていくほかありません。自我(エゴ)はフォースに依存していますが、困難な問題は”善悪”という立ち位置を超えたパワーによってのみ解決することができます。パワーは問題を投影として認識します。
【Q:気づいている心は、まったく異なる観点を持っているのですか?】
A:自我(エゴ)は隠しますが、気づきは明らかにします。自我(エゴ)の不完全な見解への答えは、普段見落としがちな”常識/良識”の中に見出すことができます。自我(エゴ)はいくらうぬぼれていても、ナイーブであることに変わりありません。わかりきったことに対する証拠を大げさに求めますが、そうするときも狡猾で非統合的です。また、自尊心や安直な解決策を持ち出す姿勢からも、未熟さが確認できます。
自我(エゴ)は常識を恐れているので、偽善的に過去の社会の誤りを列挙します。その際にも、常識の例については一切言及せず、集合的自我の見解の不完全さを物語る歴史の例ばかりに言及します。
【Q:では、”無心”とは、あらゆるものを含む見方なのでしょうか?】
A:それが、その大きな価値なのです。霊的な生徒はたいてい、自我(エゴ)を滅したり、問題を克服したり、変容することばかりに気を取られますが、やらなければならないのは、ただシンプルに放棄することだけです。そのためには、「神の真実」に対する信頼と確信を養わなければなりません。何かを獲得することを放棄すれば、人生は比較的楽で平和になります。
【Q:気づいている心の直観に頼るのは、リスクが伴いませんか?】
A:自我(エゴ)にはそう思えるでしょう。けれども、わたしちは今、頼れるツールを手にしています。このツールによって、自我(エゴ)の怖れや疑いも軽減されるでしょう。わたしたちはいつでも、真実を見極めるためにキネシオロジーテストを用いることができ、たった数秒で誤りか真実かを判断できるのです。このテストは一切の精神活動を必要としません。実際、心(マインド)を素通りしていきます。結果は完全に被験者の心から独立しています。聞きたいことは別に声にしなくても、ただ心にイメージを浮かべるだけでもよいのです。つまるところ、すべての現象はそのエネルギーレベルから生じます。ステートメントはエネルギーパターンとなって意識のフィールドに届き、意識はその真実の有無に自動的に反応します。試験者と被験者が個人的に持っている信念とはまったく逆の答えが出てくるのも、よくあることです。
きわめて進化した意識レベルにアクセスできることも、驚くべき恵みと言えるでしょう。通常ならば、個人的な長いプロセスを経てようやく同じ答えが得られる霊的な判断力に到達できるのです。
キネシオロジーテストは実用的であり、貴重です。というのも、直観を確かめるためにも利用できるからです。また、迷いや疑いの中にあるときも効果を発揮しますし、学びの手法としても役に立ちます。ここで、もう一度このテストの制限について確認しておきましょう。信頼できる結果を得るためには、試験者も被験者もともに、意識レベルが200以上でなければなりません。また、質問の動機が統合性から発していなければなりません。つまり、自己中心性な自我(エゴ)の欲求による使用は自動的に排除されてしまうので、現在の総人口の約二十%の人しか利用することができないということです。
【Q:考える心と気づいている心の間には、戦いがあるようですが。】
A:損益は、単に知覚の反映にすぎず、本質的な実体はありません。たいていの場合、霊(スピリット)にとって有益なことは、自我(エゴ)から見ると損です。ー少なくとも初期段階ではそうです。自我(エゴ)は、憎しみや報復から得られる喜びや満足感を手放そうとはしません。ましてや、他者を赦し、罪を忘れることに自らを明け渡すことなどありません。人間は、習慣に執着する生き物です。たとえそれが自滅をもたらすとしてもです。平均的な人は、認めようとはしないかもしれませんが、自ら進んで個人と社会の自我(エゴ)に加わっています。自分が他者より出来がよい、優れている、重要であるという優越感から得られる快楽を決して手放そうとはしません。恨みや腹いせ、仕返し、”相手に償わせる”ことほど気持ちよく、独善的で中毒性があるものはほかにありません。こうして、それは世界の地域や国全体を覆い、終わりのない争いを生み出しているのです。
【Q:それが”聖戦”のような、あらゆる独善的な悪夢の基盤となっているのですか?】
A:自我(エゴ)は制度化することで、邪魔されずに作戦を続行し、それが波及するよう手を尽くします。押しつけられた無知に大衆が迎合することで、誰かに名声と権力がまわり、武器商人が懐をこやします。
まったく皮肉なことに、”聖地”と呼ばれる場所は、地球上で最も不浄な地となっています。長きにわたって無数の人命を奪った伝説の地は、非常に低い測定値が出ています(150)。聖者たちの足跡は、世紀を経るうちに、長年の血にまみれた憎悪と残虐性、苦痛の中に葬り去られてしまいました。そうしたところよりは、ニューヨークのセントラルパーク(少なくとも425に測定されています)か、エンパイアステートビルの展望階(465)で祈ったほうが、よほど効果的だと言えるでしょう。
【Q:言ってみれば、キネシオロジーテストは、愛着のある幻想や妄想の仮面を容赦なく引きはがすのではないでしょうか?】
A:自我(エゴ)や詐欺師、ペテン師にとっては無慈悲に映るでしょう。瞬間的に真実にアクセスできる人々を操るのはたやすくありません。人間とは実に騙されやすい生き物ですー政治家ならば誰でも知っています。本物の政治家は真理のパワーに依拠していますが、政治屋は、獲得のために真理をおとしめます。政治権力を獲得するために真理を破壊する行為は、ナチス第三帝国の時代に絶頂を迎えました。ゲッペルス(30に測定されます)の史上最低の愚かなプロパガンダさえ、いとも簡単に大衆の心をつかむことができました。煽動家は、支配力を獲得するために平気で真理を歪め、民衆の感情をあおります。一方、本物の政治家は、民衆を鼓舞し導くために真理を活かします。ウィンストン・チャーチルもその一人でした。-彼は510に測定されています。
【Q:直面化することの価値は何ですか?】
A:社会は、被害者に甘んじている人々が、直面化を通してタマスからラジャスに引き上げられ、立ち上がって行動を起こすことを期待しています。犯罪行為に対して法が制定されているのも同じ理由からです。言い換えれば、犯罪者が改心する動機を与えているのです。それでも、自分の意志ではどうすることもできない人々に対して、社会は彼らには脳に欠陥があるなどとして、何らかの障害を疑います。昔からいわゆる[道徳的不適合者]は存在していましたが、現在ではそうした人々を[精神病質者]と呼んでいます。彼らには、二、三歳といった人生の早い時期から衝動を抑制できないとか、満足を覚えることに遅延が見られるなどの兆候が認められます。また、生まれつき経験から学ぶことができず、結果を考えて自粛できないなどの欠陥があります。
【Q:宗教者や伝統的な霊的指導者が率直にふるまうという印象はありません。むしろ、彼らはある種、礼儀正しく発言したりふるまったりすることを期待されていると思うのですが。】
A:真実とは根源的なものです。真実が、立ち位置が期待するような礼儀正しさに迎合することはありません。
げい‐ごう〔‐ガフ〕【迎合】 の解説
[名](スル)自分の考えを曲げてでも、他人の気に入るように調子を合わせること。「権力に―する」
神の示す真理は単刀直入で、自我(エゴ)が描く幻想に真っ向から対立するものです。
探究者が覚醒の道に身を投じるならば、小麦からもみ殻を取り除かなくてはなりません。立ち位置は信念に基盤を置いているので、このふるい分けは必然的に起こります。そして、あらゆる信念は真理の智の前で、崩壊するほかありません。覚醒の道は、泣き言をいう子羊にはふさわしくありません。もしあなたが誰かに傷つけられたと感じるならば、それはあなたが防衛している証拠です。つまり、あなたは真理ではないものに執着しているのです。真理は防衛とは無縁なので、防衛する必要はありません。また、真理は証明もいらないので、答えを尋ねられることを恐れなくてもよいのです。
【Q:では、証明を求めることは、[真実]を否定することと等しいのですか?】
A:鋭い洞察です。すべての証明は解釈です。神の存在を確かめるあらゆる伝統的な論証法は、認識論的にも誤っています。というのも、論理の構造がそもそも誤謬(ごびゅう)だからです。
ご‐びゅう〔‐ビウ〕【誤×謬】 の解説
[名](スル)まちがえること。まちがい。「―を犯す」「―を正す」
「一言以て是非を―することあり」〈織田訳・花柳春話〉
たとえば、主体と客体という二元性を見ていること自体が誤りです。
対象化とは、信憑性の高い本物のような”真実”をでっち上げるために考案された人工的な観念です。
たいしょう‐か タイシャウクヮ【対象化】
〘名〙 自分の感覚、主観の状態、思想などを外側に移して、自分が外にある対象を見るように、それらを取り扱うこと。
けれども、論理的な解釈そのものが主観的な信念に基づいているので、対象化はそもそも不可能です。言い換えれば、そこに主観的な意味を与えないかぎりは、概念が”真理”の信憑性を持つことはあり得ません。
信憑性は単に、そこに主観的な体験に委ねられたものであり、定義することができません。ある人にとって本物であることが、別の人からナンセンスとして切り捨てられるのは、そういう理由からです。
神を知り、悟ることは、根源的で純粋な主観的体験です。理性によって、「真理」に近づくことは、その可能性さえありません。「真理」とは、そのものになることによってのみ知り得るのです。
本日は、2022/12/6 KIN202です。黄色い戦士の7日目です。今回の後編は、初めて聴いても比較的分かりやすい内容だと思っています。当たり前のような話ですが、動物脳(本能)=自我(エゴ)は、それを認めようとしないお話です。
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