【怒り】執着の度合いを軽減し、自我(エゴ)の要求と期待を放棄することによって、怒りは和らぎます。
『I<わたし>真実と主観性』デヴィッドRホーキンズ著 P259~261
怒りは幼年期に始まり、これは自己陶酔的な欠乏感に由来します。その起源は、先天的に食料や縄張り、交尾の相手をめぐって競い合う動物世界の中に見ることができます。より洗練された成人期においては、怒りはより入念なものとなり、”善”対”悪”、”罪”対”無実”、あるいは欲求不満を生み出す期待などの立ち位置や社会問題に適応されます。
知覚が自我(エゴ)に脅威の信号を送ると怒りが生じ、すると自我(エゴ)は元の動物的な反応に退行します。子供の時分は、欲するものの前に立ちはだかるように見える大人という象徴に怒りをぶつけます。怒りの元は精神内部にあっても、それは外部に投影されるのが常で、相手を脅かしたり、支配したりするために用いられます。
怒りの当事者から観察者の視点に焦点をシフトすると、自我(エゴ)の立ち位置としての自己陶酔的な過度の期待が、本人を怒りっぽくさせていることがわかります。怒っている人は、密かに自分が欲望や願望を抱いて当然であると思っており、人生に対して実現不可能な期待を持っています。また、怒りは態度や脆弱(ぜいじゃく)な自我(エゴ)の立ち位置となって表れます。それは、健全な自己主張ではなく、攻撃性につながります。
こうした怒りに対する基本的な解毒剤は、謙虚さです。謙虚さは、怒りに養分を与える自己中心性を相殺します。怒れる人の幼児性は、人生の不公平さをののしりますが、実際にそれは子供っぽい癇癪(かんしゃく)と甘えから来ています。自己陶酔性は、欲しいものを手に入れてしかるべきだという信念を生み出しますが、それは自我(エゴ)の自己陶酔的な核心においては、自己のみが過度に重要視されているからです。宇宙が自我(エゴ)の要求に対して無関心であることがわかり始めると、幼児性は激しく怒りだし、対人間葛藤のパターンにはまりこみます。そして怒りは、操作の対象としたり、欲求不満の矛先とするための第三者を支配するという無益な試みを始めるのです。
怒りの発達を防ぐための最も有効な方法は、相手を自らと平等と見、過度に期待することをやめ、謙虚さによって、自らの欲求を満たすことを神に明け渡すことです。執着の度合いを軽減し、自我(エゴ)の要求と期待を放棄することによって、怒りは和らぎます。
いわゆる義憤(ぎふん)は、立ち位置や相手に対する期待といった道徳観が肥大化したものです。
憎悪を伴って、怒りは外的な敵に向けられますが、それは自らのうちにある憎しみの傾向を、象徴的な存在に投影しているにすぎません。”罪を憎む”ことも憎しみに変わりありませんから、その憎しみゆえに道徳的に優位になることはできません。”罪を憎む”ことは、誤りが誤りを非難するという矛盾を生み出します。罪人に対して義憤の拳を振り回すことが、独善的な民衆煽動以上に恩恵を得ることはありません。
霊的な誤謬(ごびゅう)が生じる最大の原因は、同じ土俵と現実のレベルにあるかのように、異なる領域を混同してしまうことにあります。
クジラは虎と争うことはありません。異なる世界に生きているからです。神が悪のフォースと戦うという概念は、罪悪感に支配された恐怖のファンタジーが生み出したものであり、実際にはそんなことは不可能です。「真実」においては、天国や神、あるいは「究極の真実」の純粋性を脅かすものなど存在し得ないのです。「真実」は存在しますが、架空のものは存在しません。「真実」が架空のものによって脅かされることはあり得ません。
善と悪のフォースが対峙し争うことができるのは、低い霊的次元や人間の想像の中に限られます。人間の想像は、映画のように不可能なことをリアルにし、映画『宇宙戦争』のようにグラフィックな交流を描き出します。
心(マインド)は常に真偽を見極めることができず、特に原始的な心はなおさらそうであることを思い出すとよいでしょう。神話や寓話、叙事詩(じょじし)は、運命に対して怖れや希望を抱く人間のニーズを満たしてくれます。それらは詩的には美しいものですが、事実ではなく、霊的な真実を反映したり、絶対的な真理を表すものではありません。真実ではないものを非難することができるでしょうか。存在あるもののみが、責めを受けることができます。真実でないものは、「真理」の中では公民権を持たないのです。
『黙示録』(測定値70)は何世紀にもわたって宗教煽動家によって利用されてきました。その著者であるヨハネは70に測定されています。騙されやすいナイーブな民衆は、操作と脅迫の格好の餌食となります。これまで何世紀にもわたって、数知れない霊媒師や預言者が低い霊的次元のドラマの中に埋没していきました。そして何度も、盲信者は、”終末の時”に備えました。数え切れないほどのカルトや宗派が、繰り返し出現する世紀末伝説に夢中になり、感化されやすい人々の想像を駆り立て、虜にしてきました。すべての伝説は、人間の集合的な罪悪感や怖れ、霊的無知に加え、”選民”であるという希望的プライドや、自分は特別扱いをされるにふさわしい少数者であるという考えから生まれています。
虚偽はフォース(ネガティブ)と怖れを基盤にしています。真理はパワー(ポジティブ)を基盤にしています。虚偽は幻想に基づいているので、恐ろしく感じるのです。真理は怖れや攻撃を超越しています。虚偽は先天的なパワーを有していないので、人々の忠誠によってしか影響力を持つことができません。恐ろしい”終末の時”は低い霊的次元に該当するもので、そこでは虚偽の幻想があたかも実在するかのように扱われます。
【怒り】について、どうだったでしょうか。
わたくし動物脳探究所所長であるヒシャールは、自らの体験として、自らの肥大化した動物脳(本能)=自我(エゴ)がこのような仕組みになっていたというのが、よくわかるようになりました。その経験と、I<わたし>真実と主観性の本の内容を、いかに、一人ひとりの人に真(まこと)の心、無条件の愛で伝えられるかを、謙虚な立ち位置でやることができるか、できないのか、どっちなんだい、「で~き~る!」の役割だと思っています。
追記:2022/3/22日に今までで一番かもしれないくらいの怒りが出ました。省みるために記録しておきます。立ち位置を戻すのに、丸1日ほど時間が必要でした。自我(エゴ)を超越するのはとにかく難しいというのを、改めて体験しました。「真実」においては、天国や神、あるいは「究極の真実」の純粋性を脅かすものなど存在し得ないのです。
動物脳(本能)=自我(エゴ)の特質が、執着です。自分の思い描いた期待に執着すればするほど、そうならなかった時の出来事に振り回されます。今ここの時点で未来はまだ具現化しておらず、そうなったらいいし、そうならなくてもいいという中立な意識を持てるかが重要になります。動物脳(本能)=自我(エゴ)と同一化しているならば、決して中立な意識は持てません。中立な意識は、愛が基盤の気づいている心の立ち位置であり、考えたり、解明したりするのではなく、知っている状態を基盤にしています。計算的ではなく、自発的です。
幸せや喜びの源は内在しているので、動物脳(本能)=自我(エゴ)と同一化しないようになれば、確実に、幸せや喜びの体験が増えます。
あなたが幸せや喜びのパワー(ポジティブ)の素粒子を、あなたという宇宙から発信することが、とんでもなくこの地球解放に良い影響を与えるかを、あなたは知っているでしょうか。
是非とも、共に、幸せや喜びのパワー(ポジティブ)の素粒子を、地球に振りまいて、みんなが共に幸せ喜びとなるように、霊的探究をやっていきましょう。
3.11東北大震災からの、11年後、2022/3/11 KIN192。不幸な出来事が具現化しないように、人類の集合意識を、幸せや喜びのパワー(ポジティブ)に、一人ひとりの意識の力でもっていきましょう。
敵という言葉をあえて使うとするならば、人類の敵は、動物脳(本能)=自我(エゴ)の甘い汁です。みんな平等に持ってるので、正体を見抜きましょう。