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「名言との対話」6月27日。鈴木三重吉「子供のために一流の文学者が進んで執筆しなければ嘘だ」

鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年明治15年)9月29日[1] - 1936年昭和11年)6月27日)は、小説家児童文学者日本の児童文化運動の父.

広島出身。15歳から「少年倶楽部」や、「小国民」などに文章を投稿し、中学2年ですでも童話を書いている。京都の三高を経て東京帝大の英文科にすすみ、夏目漱石の指導を受ける。

神経衰弱で休学中の24歳で書いた『千鳥』が、漱石に絶賛され、雑誌「ホトトギス」に掲載される。復学後、漱石門下となる。卒業後、千葉県の成田中学で英語を教える。29歳、東京で中学講師をつとめながら、活発な創作活動を行う。1915年から、『三重吉全作集』の刊行をはじめる(全13巻)。

34歳、娘が生まれたことをきっかけに童話など児童文学を手がける。35歳、『世界童話集』の刊行を開始。36歳、児童文学誌『赤い鳥』を創刊し、中学も辞めて本格的に取り組む。当時の著名作家に執筆を依頼する。芥川龍之介蜘蛛の糸」「杜子春」、有島武郎一房の葡萄」、北原白秋の童謡、西城八十の詩、そして児童劇などの名作が生まれている。当時の教訓色の強い読み物とは違う路線となった。46歳、騎道少年団を設立し、少年の精神教育に力を注ぐ。

小説『桑の実』を手にして三重吉の人物像を探った。わずか6年という短い小説家時代の作品である。毛筆で書いた作品。「文庫版初版」解題には、「夏目先生からも、極度にほめていただいた」と書いている。どういうこともない日常をたんたんと描いた作品。「国民新聞」連載は途中何度も休みながら68回続いた。なつかしい、ほのぼのとした、清澄な作品で、読者は幸福感に浸れた珍しい作品である。

53歳での三重吉の死で、『赤い鳥』は終刊となった。18年間で196冊まで積み上がった『赤い鳥』から、新見南吉など多くの作家を誕生させた功績は大きい。また、全国の児童からの投稿を募り、選評とともに掲載する「綴方」運動も見逃せない。「みんなちがってみんないい」で有名な金子みすゞもこの雑誌で白秋から誉められている。

雑誌は才能が誕生するインフラである。漫画雑誌「ガロ」などもそうで多くの才能を世に送り出している。このインフラの上にコンテンツを創る人たちが出る。芸術分野の技法もインフラ的な要素がある。新しい技法をつくった人がいて、その技法を使って作品が花開く。そして鉄道、空港、道路、ホテル、都市、図書館、ソフト、メディア、教育制度、、などの社会インフラも同様の役割を担っている。インフラこそ、肝である。

若い頃には子ども嫌いだった三重吉は自分の子どもが誕生すると、テーマが子どもになった。その子どものために、一流の文学者を巻き込み、子ども自身に対して門戸を大きく開き、励ますという生涯を送った。師の漱石は弟子の育成に熱心で、漱石山脈ともいわれる後代の才能を世に出したが、この人も雑誌『赤い鳥』というインフラを立ち上げ、「日本の児童文化運動の父」と呼ばれた。後代までも大きな影響を残した人として記憶したい。

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