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「名言との対話」5月4日。小泉信三「練習は不可能を可能にする」

小泉 信三(こいずみ しんぞう、1888年明治21年)5月4日 - 1966年昭和41年)5月11日)は、日本経済学者経済学博士)。

東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王(第125代天皇)の教育の責任者となる。1933年昭和8年)から1946年(昭和21年)まで慶應義塾長。父は慶應義塾長(1887年明治20年) - 1890年明治23年))や、横浜正金銀行支配人などを歴任した小泉信吉(こいずみ のぶきち)。

2008年。三田の慶応義塾大学の旧図書館で開催中の「生誕120周年記念 小泉信三展」を観て、この人物の生き方に深い感銘を受けた。
小泉信三は、若き日には「慶應麒麟児」、戦後は「日本の良識」、そして没後は「勇気ある自由人」と呼ばれた。この企画展は、「父の肖像」、「よく学びよく遊ぶ」、「常に学生と共に在る」、「善を行うに勇なれ」、「勇気ある自由人」、「愛の人」、「終焉と継承」という七部構成で全生涯を説明している優れた展示だった。慶應の関係者らしき人が多数訪れていた。この空間で尊敬と涙の交差する深い時間を過ごした。帰りに「読書論」(岩波新書)と「青年小泉信三の日記 東京-ロンドン-ベルリン」を買う

小泉信三という人物はの全集は死去の翌年から開始され1972年に28冊で完結しているから、この人物の放つ香りは私も嗅いでいたということになる。死去の年に公刊された「海軍主計大尉小泉信吉」は話題になり読んだ記憶がある。戦争で亡くした最愛の息子へのメッセージがつまった本だった。信三の父は小泉信吉という名前だった。読み方は「ノブキチ」だが、父を早くに亡くした信三は、息子に同じ漢字の名前をつける。こちらの方は「シンキチ」である。
45歳から59歳までの14年間にわたり慶応義塾の名塾長として活躍した人物だが、この人の生涯のテーマは「福沢諭吉」だった。小泉は「福沢諭吉という一個の人物が出たことで明治の日本に何を加え、またもしこの一人がいなかったなら、明治の日本に何が失われたかを先ず念頭に置くべきだ」と語っている。信三の二女で随筆家の小泉妙は「福沢先生は父の恩人、父のすべてでございました。父の一生は、先生と慶応義塾への恩返しであったと思います」と「報恩の一生」というタイトルのあいさつの中で語っている。福沢は父の恩師であったが、父の早世のため一家は福沢の邸内に住むことになり、福沢にも接した。福沢が日課としていた米つきや庭での居合の練習に励む姿を見たことがあると記しているが、福沢が没したとき信三は12歳でありその偉大さをわかる年頃ではなかったことを終世嘆いたという。慶応義塾小泉信三が塾長になって出て、中興の祖になる。名塾長だった。つい最近まで小泉信三が使った机を歴代の塾長はずっと使っていた。

田町駅から少し歩くと三田の慶応義塾大学がある。校舎の下をくぐって階段を登ると庭に出る。学生たちが思い思いに過ごしている庭を横切っていくと古い建物が目に入る。小泉信三が館長をつとめたことのある旧図書館である。ここで「生誕120年 小泉信三展」が開かれていた。入口の左に小泉の全身をあしらった看板が立っており、その横に福沢諭吉の胸像がまっすぐに前を見つめている。古い階段をのぼると大きなステンドグラスが目に入る。「ペンは剣よりも強し」というラテン語の文字とそれをあらわしたものだそうだ。

45歳になった小泉信三は塾長に選ばれ、その後14年間に亘って慶応を飛躍させる原動力となった。日吉キャンパスの開設と大学予科の日吉移転、幼稚舎の広尾天現寺への移転、藤原工業大学の創立と義塾への寄付(理工学部)を実現した。戦時色の強まる中、福澤諭吉国賊とする軍部の圧力に抗し、大ホールの着流し姿の福沢像の撤去要請に応じないなど、慶応を守り抜いた。小泉信三は大男で、どの写真を見ても一頭ぬきんでている偉丈夫ですぐにそれとわかる。
製紙王と呼ばれた藤原銀次郎は「すぐに役に立つ人間を作る」とし、小泉とは意見が違ったが、初代学部長谷村豊太郎は「すぐに役立つ人間はすぐに役に立たなくなる」と主張し、小泉と息が合った。
小泉の「塾長訓示」が掲示されていた。1.心志を剛強にし容儀を端正にせよ。1.師友に対して礼あれ。1.教室の神聖と校庭の清浄を護れ。1.途に老幼婦女に遜れ。 善を行ふに勇なれ。
慶応の歴史の中でも抜きんでた名塾長だった。展示されていた塾長時代の机は最近まで歴代の塾長が使っていたことが証明している。小泉の塾長姿を思い浮かべながらその後の塾長たちは重責を果たしていったのだろう。塾長退任後は、文筆活動を開始する。
人間を幸福にするもの。一は、吾々の行動を導く何等かの道徳的基準、二は、よき家族と友、三は、己の存在を有意義ならしめる何等かの仕事、四は、或る程度の閑(レジャー)とその閑の或る使い方、これである。このグレイの言葉を最初のエッセイ連載で紹介している。心に響く言葉だが、小泉のこういうエッセイは人気があった。
小泉は東宮御教育参与という重責を依頼される。皇太子(現天皇)の教育係である。小泉は、皇室は政治社外に高く仰ぐ存在とするべきことを説いた「帝室論」(福沢諭吉)や「ジョージ5世伝」を用いて講義をしている。ジョージ5世は「義務に忠実なる国王」であり責任と負担ばかり多く、慰楽と休息の少なかった姿を学ぶことは、「殿下を、一面において励まし、他面においてお慰めするであろうと思う」と述べている。天皇という地位の重みを感じる言葉だ。
皇太子殿下御成婚に小泉は大きな役割を果たしている。軽井沢のテニスで実った恋と言われた当時の写真があった。前衛の皇太子、相手側の後衛は美智子嬢である。この皇太子が逆転負けを喫した試合も小泉はみている。皇太子の家庭教師であったヴァイニング夫人にあてて書いた御成婚の知らせの英文を読んだが、嬉しい知らせと美智子さんの美しさ、立派な性格、知性の高さを説明している。皇太子夫妻の署名入りの写真が贈られており、両殿下との深い交流を感じさせる。ヴァイニング夫人は「博士の温かい人粗、ユーモアの感覚、忠誠の心、勇気ある態度、俊敏なる知性、或いはまた偉大なる政治家の資質にも比すべき、未来を展望する想像力、そして多くの友人たちに対するたぐい稀なる包容力」と小泉を評している。この言葉に尽きる感じもする。
最愛の息子・小泉信吉は、南太平洋で戦死する。戦死を知らせる電報と出征の時に送った言葉が並んで展示されていて涙を禁じえなかった。「吾々両親は、完全に君に満足し、君をわが子とすることを何よりの誇りとしている。---同様に、若しもわが子を択ぶということが出切るものなら、吾々二人は必ず君を択ぶ。人の子として両親にこう言われるより以上の幸福はない。-----また、吾々夫婦の息子らしく、戦うことを期待する。        信吉君  父より」。戦後、私家版として300部印刷された「海軍主計大尉小泉信吉」は、幻の名著といわれたが、没後に出版され、ベストセラーになった。私はこの本を大学時代に読んでいる。
慶応関係者を中心に会場はにぎわっていた。深い感銘を受けながら尊い時間を過ごした。帰りに「青年小泉信三の日記  東京・ロンドン・べりリン」と「読書論」を買う。読み終わったが、味わいの深い名著だった。
・いやしくも読書を志すものは、読書の用意と計画を持たねばならぬ。そうしてその計画の中に、つとめて多くの古典を入れよ
・つとめて古典を読むことと共に、私はつとめて大著を読むことを勧めたい
・一の書籍の思想を一の全体として、個々の部分を全体に対する適当の比例において受け取るため、再読三読はぜひとも必要である
・読書は大切であるが、それと共に自分の目で見、自分の頭で考える観察思考の力を養うことが更に大切である
・「返す返すも六かしき字を弄ぶ勿れ」(緒方洪庵)と戒め、福沢は「深く之を心に銘じて爾来曾て忘れたることなし」と書いている
・吾らの問題を暗示するものは情の任であって、これを解決するのは智の任である。、、、智の第一に占むべき位置は、社会的同情の婢僕たること」(コント)
小泉信三は、「戦争と平和」「風と共に去りぬ」を読むことを薦めている。まずは学生時代に途中で投げ出した「戦争と平和」に再度挑戦することにしようか。

岩波さんに本を出してもらいたいと思うときには、この本は立派な内容だが売れないだろうといいさえすればよい。岩波さんはそれをきくときっとその本を出そうという。、、」と面白い発言もある。

2019年。NHKの「聴き逃し」配ので、カルチャーラジオNHKアーカイブスで、「声で綴る昭和人物史」で昭和史を追っている保阪正康さんの番組を聴いた。小泉信三がテーマで、小泉本人へのインタビューは八木治郎アナウンサーだった。慶應義塾の塾長であった小泉信三はスポーツには3つの宝があるとしている。1つは練習は不可能を可能にする。次がフェアプレー精神。そして最後が友人である。70歳の時の録音だ。

小泉信三はテニスに没頭する少年だった。「小泉の後衛は間断する処なく熱球の飛ぶこと銃丸よりも強く」「水も洩らさぬ衝立」と時事新報の記事は伝えている。大学部に進むと学問に傾倒していく。20歳のころを振り返って「運動家が勉強家になった年」だと述懐している。大学部政治科を総代で卒業し、そのまま教員に採用されるが、2年後海外留学を命ぜられ、ロンドン大学ベルリン大学ケンブリッジ大学などで4年間学び、28歳で帰国後慶応義塾大学部教授となる。以後17年間は学者として授業と著述に専心する。自宅で学生と語り合った「木曜会」、10年にわたる庭球部長として庭球国慶応をつくった小泉は、自身の教育者的資質に目覚めていく。「自分は青年に興味を持つ人間だ」と「庭球部と私」の中で語っている。「練習は不可能を可能にする」は、テニスに打ち込んだ人の名言である。庭球部長時代の育成方針であろう。その気概が、福沢先生の前に出て恥じない立派な仕事をもたらしたのである。



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