「名言との対話」8月25日。高木東六「後悔していることがある。それは、この八十年、無精をして日記をつけなかったということだ」
高木 東六(たかぎ とうろく、1904年7月7日 - 2006年8月25日)は、主に昭和期に活躍した日本の作曲家。享年102。
鳥取県米子出身。関東大震災。横浜の家がつぶれた。一瞬の差で助かる。ヨコハマ・グランドホテルの前に海には見渡す限り裸体の姿態が浮かぶ地獄絵図を見る。東京音楽学校ピアノ科に入学するが、中退。パリのスコラ・カントムール卒業。山田耕筰先生とパリで再会し、作曲家になれとすすめられる。山田耕作は宴席での話の三分の二以上が愉快な猥談で、替え歌のセンスも天下一品だったと後に語っている。
管弦楽曲「朝鮮風舞踊組曲」が1940年に新京音楽院賞に1位入選、1942年には文部大臣賞を受賞。1939年からオペラ「春香」の作曲を行ったが、1945年5月の空襲により東京の自宅は全焼し、楽譜も焼失する。失意の中、長野県伊那市に疎開。そこで「春香」の再作曲の依頼を受け、1947年「春香」二作目が完成、翌1948年に初演される。
高木はクラシック出身ながら、「空の新兵」などの軍歌、軽音楽、「水色のワルツ」などの歌謡曲、オペラ、ピアノ曲、シャンソンやポピュラー曲など作曲は多岐に亘った。
テレビでも、NHKの「あなたのメロディー」やTBSの「家族そろって歌合戦」に長期間、審査員として出演。ユーモアと辛口での批評を私も覚えている。
「本当の音楽はメロディじゃなくハーモニーにあるんです。魂をゆするような深い感動はハーモニー以外にはありませんよ」「好きなものを見つけること。あとは脇目を振らないこと」「 私は思う、いまが一番大事な時だ、もう一歩 」
「これから書くことは、女房だけには一切読まれたくないのだが、、、」と『人間の記録 高木東六 愛の夜想曲』の「第三章 わが青春のパリ」の書き出し述べているが、1985年の「あとがき」でグチを言っている。「わが女房が突如ぼくに冷たく、口もきかなくなってしまったのには弱った」。この本には、妻のことも出てくるが、この「人間の記録」シリーズでは珍しく、女性遍歴が中心になっている。パリに向う船内で「ぼくの女性不信は、このときから始まったといってよい。日本の女性も含めた、世界中の女性に対して、である」と書いているが、その後パリに着いてからも、懲りずに女性に接している。
「毎日を、不安なく平和に過ごせることが何よりの長寿の秘訣」と信じていた高木東六は102歳で没したセンテナリアン(百寿者)であった。日本ハリストス正教会に所属する正教徒であり、埋葬式はお茶の水のニコライ堂で行われた。聖名はギリシャ語語源で「不死の者」の意味のアファナシイ。
高木は、作曲家であり、幸いなことに人生の軌跡としての作品は残っている。しかし、無精をして日記をつけてこなかったことによって、焦点となること以外は、ぼやけて、あいまいになっしまった。「本当にじだんだ踏むおもいがしている」と後悔している。
私も若い頃から何度も日記をつけることに挑んだが、長続きはしなかったし、残っていないのは同じく残念な気持ちがする。しかし、後悔しても仕方がない。ブログを書き続けることにしよう。 その決意を高木の言は後押しをしてくれた。