「名言との対話」12月12日。中岡慎太郎「国家興亡は離同にあり、敵の強弱に関係せざるなり」
中岡 慎太郎(なかおか しんたろう、天保9年4月13日〈1838年5月6日〉 - 慶応3年11月17日〈1867年12月12日〉)は、日本の幕末の志士。 陸援隊隊長。享年29。
高知県出身。土佐の大庄屋の家に生まれる。1855年に武市半平太(瑞山)の道場に入門。1861年、土佐勤王党に入党し、長州の久坂玄瑞らと交流。脱藩し長州藩に身を寄せ各藩の脱藩者たちのまとめ役となった。坂本龍馬とともに薩長同盟を成立させた。西郷と後藤の間の「大政奉還」を目指す薩土盟約の立役者となった。
1867年、薩長の意気が強く幕府との開戦は必至であるとし、土佐藩邸で陸援隊を組織し隊長となっている。その年の暮れに京都で龍馬とともに幕府見廻組におそわれ、2日後に死去。
薩長同盟の功績は坂本龍馬に帰するというのが常識である。それは司馬遼太郎の歴史小説やNHK大河ドラマの影響であり、実際は中岡慎太郎の功績が大であるとの評価も多い。中岡の言説は、「時勢論」に述べられている。
盟友の龍馬は「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」と手紙に書いている。薩摩の西郷は「ともに語るべき一種の「人物なり」としている。
次は中岡の言葉。
「君子小人人にあり、家にあらず」
「世間因循傍観区々として、人の失策を求め笑い、坐して天下の機会を失し甘んじて人の後ろに落つ」
王政復古の実現のため、協力関係を築いていた中岡は、死にあたって「天下の大事はひとえに岩倉公が負荷せられんことを願うのみ」との伝言を頼んでいる。岩倉は「誼を条公(三条実美)に通じ、交を西郷、木戸、広沢、品川、五子に結び
たるは中岡、坂本二子の恵みなり」と感謝している。
中岡慎太郎は、西郷、木戸らと並ぶ人物だったようである。中岡は宰相の器であり、坂本は豪傑という比較もある。どちらも維新の直前に一緒に亡くなったいるが、そうでなければどちらも大成したであろうことは想像に難くない。
中岡慎太郎には名言が多いが、「国家興亡は離同にあり、敵の強弱に関係せざるなり」を採ることにした。国家が繁栄するか滅亡するかは、内部の団結力にあるのであって、敵国の強弱に関係はない。内部が争わず、各勢力のベクトルがあえば、難局は突破できるということを言っている。難局にあるどのような組織も、興廃はこの一点にかかっているのである。遠心力の働きの多い内部の、求心力を高めることができるかどうかだ。企業や大学という組織の存亡がかかる仕事をしたときに、このことを念頭において励んだことを思いだす。団結力である。これは鉄則である。