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「名言との対話」10月17日。沢田廉三「どんな子も、人間として生を受けた以上、立派に育っていかなければなりません」

沢田 廉三(澤田 廉三、さわだ れんぞう、1888年10月17日 - 1970年12月8日)は、日本外交官

旧制鳥取中学、旧制一高、東京帝大法科大学仏法科卒。外交官試験に首席合格し外務省に入省。

フランス。アルゼンチン・ブエノスアイレス。中国・北京。イギリス・ロンドン。フランス・パリ。アメリカ・ニューヨーク。満州国大使館参事官。1938年、外務次官。駐フランス特命全権大使。駐ビルマ特命全権大使。1944年、二度目の外務次官。ニューヨーク国連代表部特命全権大使。国連日本政府代表部長。外務省顧問。スエズ運河国際会議代表(ロンドン)。国連第十一総会代表(ニューヨーク)。1960年、日韓会談日本国首席代表。キャリアを一覧すると、外国を転々とする外交官という職業のすさまじさをみる。

東大在学中に『赤毛のアン』の翻訳者・村岡花子の初恋の人になる。2014年のNHK朝ドラ『花子とアン』では北澤司という名前で登場している。

1922年には三菱財閥の3代目総帥・岩崎久弥の長女でお転婆だった美喜と結婚。美紀はアルゼンチン、中国、イギリス、フランス、アメリカと夫について世界をまわるが、イギリスのドクター・バーナーズ・ホームでのボランティアが、美喜の運命を変えることになる。1948年、妻の沢田美喜が米兵と日本人女性の間に生まれた混血児のための施設である大磯にエリザベス・サンダーズホームを創立する。

沢田廉三は1942年、財団法人滝乃川学園理事長(1946年まで)に就任している。私は2022年2月に国立の社会福祉法人「滝乃川学園」を訪問した。日本初の知的障害児施設だ。創立者夫妻の「石井亮一・筆子記念館」を訪問したが、コロナ禍で中には入れなかった。石井亮一、石井筆子に次いで第3代学園長は渋沢栄一がなっていた。沢田廉三はその後任だったことが今回わかった。

重光葵『外交回顧録』を読んだことがある。重光は沢田とはほぼ同年代である。沢田はこの本で3度登場していた。パリ大使館の沢田書記官、ニューヨークから帰朝中の沢田領事、沢田フランス大使だ。

沢田廉三は、国連大使退任後は神奈川県大磯に住み、妻・美喜のエリザベス・サンダースホーム事業に協力している。知的障碍児施設の滝乃川学園、混血児孤児施設エリザベス・サンダーズホームにかかわっているところをみると、福祉に関心をもった人物だったのだろう。また、1955年から亡くなるまで郷里・鳥取県の県政顧問を務めている。

私は2006年7月に大磯の沢田美喜記念館を訪問している。2005年11月2日につくったプレートには、104名の逝去者の名前が刻んであった。目についた名前を控えてみた。アブラハム:澤田廉三、エリザベス:澤田美喜、ピーター:澤田久雄、エリザベス・サンダース、ステパノ:澤田晃、パウロ:田実渉、、。8月15日には、「女の一生シリーズ」の中で「2000人の孤児の母・澤田美喜」という2時間の番組が日本テレビで放映された。美喜を演じたのは松坂慶子、夫の廉三は江守徹、父の岩崎久弥は児玉清という配役だった。涙を禁じ得なかった。

沢田廉三の言葉は見いだせなかったので、同志でもあった妻の美喜の言葉を選んでみた。「どんな子も、人間として生を受けた以上、立派に育っていかなければなりません」。


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